詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田原トークショー「日中ことばの接続水域」

2013-12-01 10:26:26 | 詩集
田原トークショー「日中ことばの接続水域」(西南学院コミュニティーセンター、2013年11月30日)

 「日中ことばの接続水域」は、かなりきわどいタイトルである。田原が考えたものではなく、主催者が考えたものだったらしいが。--田原が話したことがらは、日本語と母語(中国語)の近くて遠い距離、遠くて近い距離のあいだで、いろいろ揺れた(揺れる)ということ。
 たとえば日本に来てからの半年は「外国」へ来ている感じがしなかった。町にあふれる漢字を読めば日常生活は理解ができた、というようなこと。それから徐々に、中国にはないことばに出会っていった、というようなこと。
 「死水」ということばは中国語にはないということからはじまり、翻訳のこと。魯迅が停滞していた中国語(変化の遅い中国語)を活性化させた。「直面」ということばは魯迅が中国語に持ち込んだ、というようなこと。
 おもしろいテーマがありすぎて、私は何を聞いたか忘れてしまったが。
 その講演のあと質疑応答があり、そこでもいろいろおもしろい話が出たのだが、私が「おっ」と思ったのは、「日中ことばの接続水域」あるいはことばの変化に関することだが、田原が「カラオケ」に言及したときのことである。講演で田原は日本語は文字の種類が他の外国語に比べて多い。漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットを混在させる。こういう言語は日本語以外にない、と言っていた。その田原が「カラオケ」を「空(から)」と「オケ」と書くでしょ、と言った。あ、たしかに「空の(音声の入っていない)オーケストラの演奏」を「カラオケ」というのだから「空オケ」なのだけれど。最初はそうだったのかもしれないけれど、いまはきっとだれも「空オケ」とは書かない。そして「意味も」空のオーケストラではないなあ。曲を聴いてもだれもオーケストラの存在を感じないのだから。「意味」をむりやりつくりだすなら、素人が歌を歌うときに利用する演奏媒体、かなあ。
 で、何が言いたいかというと。(ここから私のことばは、かなり飛躍をしながら動くのだが……。)
 田原はことばを「意味」を重視して把握しているということである。だれでもことばに「意味」を読み取るからあたりまえ--と思うかもしれないが。
 これを「接続水域」にからめていうと、ちょっと違うなあ。
 それを感じたのが朗読のとき。
 学生がいくつかの詩を読み、そのあと田原自身が朗読した。これが実に刺激的である。母語が中国語、日本語は外国語だから、なれているとはいえ「すらすら」という感じではない。音がぶつぶつの粒子に聞こえる。日本語の表記方法に「分かち書き」というのがある。単語を独立させて、単語と単語のあいだに空白を置いて書く書き方。それが、最初に私の目に迫ってきた。エッジのくっきりした音が耳から入り、それが目の記憶を引き出して、そんな印象を引き起こすのだ。音がリズムになり、単語を強調するように響くので、ことばのひとつひとつが次々に立ち上がってくる感じ。その「次々」は連続しているようで、実は、「空間」がある。一つ一つが飛躍してつながっていると言えばいいのかな。
 そういう印象のあとに、ふいに、あ、田原は音(声)を出しているのではなく、「意味」を表出しているのだ、と感じたのだ。--というのは、 かなり飛躍の大きい「感覚の意見」なので、補足すると……。
 漢字を「表意文字」と呼ぶことがある。一つ一つの漢字が「意味」をもっている。これに対して「ひらがな」は「文字」自身に「意味」はない。音しかもっていない。「表音文字」である。
 田原は漢字の国の人なので(漢字を母語としているので)、「文字」を「意味」として把握してしまうのだ。「音」ももちろんあるのだが、音より「意味」の塊としてつかみ取り、それを「声」にしている。「声=表意音声」という感じで発していると気がついたのだ。
 これは言い換えると、どんな音(声)であっても、田原はそれを「意味」に還元しているということである。さらに言い換えると「漢字(表意文字)」にしているということである。
 いやあ、びっくりしたなあ。
 日本人には(私には?)、こういう感覚はない。音をひとつひとつ「意味」として発する習慣(?)がないし、「意味」として聞きとる習慣もない。
 というところから「カラオケ」にもどるのだが。
 私にとって「カラオケ」は「カラオケ」であって「空オケ」なんかではない。空のオーケストラではない。「カラオケ」に本来の「空のオーケストラ」という「意味」をいちいちくっつけない。「意味」を考えずに「カラオケ」と言っている。オーケストラを省略してしまって、別のものとしてつかみ取っている。
 ところが田原は「カラオケ」はずーっと「空オケ」なのだ。「意味」なのだ。「空」は「空っぽ」という「表意」、「オケ」は「オーケストラ」という「表意」。「表意」の連続がことばなのだ。

 ここから、朗読の後の座談会(?)へと飛んでみる。
 そこでもいろいろ話が出たのだが、谷川俊太郎の「かっぱらっぱかっぱらった」という詩に触れた。私はこの詩は「父の死」と並んで大好きな詩なのだが、田原はこの詩を中国語に翻訳できずに困ったというようなことを語った。何が翻訳を困難にしているかというと--田原の言ったことを、私の感じていることで強引に言いなおすと。中国語に翻訳すると、「表意」と「表音」があわないのだ。日本語だと「意味」と「音」が交錯して、その音を声に出すことが快感だけれど、「表意」重視の田原にはこの「音」からの復讐(反撃?)のようなものが、一種の「不愉快」として立ちはだかるのである。
 こういうことを、田原は「ルール違反」と表現していた。
 で、田原は谷川にそういうふうにも抗議した、というようなことを紹介した。そのとき谷川は、ことば遊び歌でやって漢字の束縛から逃れたのに、と反論したというようなことを言った、ともつけくわえた。
 田原は、ことばを「表意」と把握している。そしてその背後には「漢字文化」がある。でも、日本語は漢字から多くを吸収しながら「表意」だけではないところへもことばを広げていった--と言えるかどうかわからないけれど、あ、田原にとってことばとは「表意」そのものであるということがわかった。
 で、表意の「意」、あるいは「意味」の「意」が何を表意するかというと--「意」という漢字が何を表意するかというと、田原にとって「精神」である。(私は「意」が何を表意するかということを考えたことがなかったので、田原の発言を聞きながらなんだかどきどきしてしまった。)
 そういうことを象徴する(結晶させる/結論として表明する)具合に、田原は詩を定義して、

詩は民族の精神の質感

 と言った。
 そうか。「精神の質感」としての「意味」を背負った言語運動が詩ならば、うーん、「かっぱらっぱかっぱらった」は、まあ、困るかもしれない。そんな音の遊びに、人間の精神を高めていくどんな意味がある? あ、答えられないね。
 谷川が田原の抗議に困ったように、私も、困るなあ。でも、私は谷川ではないので、困るといってもほんとうは困っていない。そうか、田原はどこまでもどこまでも「表意文字」(漢字)を母語として世界に向き合うのだ、それが田原の個性なのだとはっきりわかったのが、とてもうれしかった。
 私はほとんど詩人と会わないが(会ったことがないが)、実際に会ってみるとこういう「とんでもないこと」がわかるのだ。びっくりした。



 私はトークショーの「部外者」だったけれど、「懇親会」にのこのこついて行って、そこでもちょっと話を聞くことができた。
 どういうことが発端か忘れたが、ことば、表記の問題になったとき、「そよぐ」ということばが出てきた。で、私は「そよぐを漢字で書くとどう書く?」とそばにいた大学の先生と学生に聞いたのだけれど、だれも知らない。ひらがなで書く、という返事。で、田原にもその質問をしてみた。田原は電子辞書を持ち出したので、いや、調べるんじゃなくて、どう書くと「念おし」の質問。やはり、ひらがなで書くという。そう言いながら電子辞書を開いてみせる。
 「戦ぐ」
 これって、びっくりするよね。実は私の会社に「そよぐはなぜ戦ぐと書くのか。かぜで草がそよぐ風景は戦争のイメージとあわない」というような苦情(質問?)をしてきた人がいる。
 そんなこと、だれも答えられない。昔、日本人は中国から漢字を借りてきた。そのとき、その漢字がどうつかわれているか(つかわれたか)をそのまま踏襲するだけ。
 で、その「戦ぐ」という文字を見ながら、田原は、これは「古いことば(文書?)で見たことがある」と教えてくれた。そのあとは、何かわけのわからないところに話が紛れていってしまったが、田原は「戦ぐ」という表記には違和感を感じていないようであった。
 そこにも私は「あっ、田原は中国人なのだ」というあたりまえのことを再確認するのだった。



谷川俊太郎論
田 原
岩波書店
コメント (3)
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西脇順三郎の一行(14)

2013-12-01 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(14)

 『旅人かへらず/九』(23ページ)

十二月になつてしまつた

 「なつてしまつた」の「しまつた」を私は何度も「盗作」した。西脇を読むまで、私は「十二月になった」とは言ったり書いたりしたことがあるが「なってしまった」と言ったり書いたことがない。
 だれが何をしようが、十二月というのは決まったときにやってくる。そういうものに対して「しまった」という感じをもったことがなかった。
 この西脇の「しまつた」は単純に「完了」を「強調」していることばなのかもしれないけれど、どこかに「あきらめ/後悔/失敗」のようなものが感じられる。十二月になったことが「とりかえしがつかない」ような、何か、「いま/ここ」を切り離すような響きがある。
 強い断絶--そういう「響き」がある。
 そして、この「断絶」は西脇が好んでつかう「淋しい(淋しき)」に通じる。
 「しまつた」の「つ」の音の短さ、母音の欠落が「断絶」をより強く浮かび上がらせる。
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