詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

疋田龍乃介「沼」

2013-12-27 11:52:49 | 詩(雑誌・同人誌)
疋田龍乃介「沼」(「びーぐる」21、2013年10月20日発行)

 疋田龍乃介「沼」を読みはじめてすぐに、あれっ、と思った。

二階の窓が割れた。康一は犬の鳴き声を聴いた。涎のように小さな
お家へ静かな斜陽が差込んでいる。レンズはさてどこに置いたか。

 書き出しの2行だが、その2行目の「静かな」という形容動詞に私はつまずいた。「意味」としては、「騒々しくない/派手ではない/落ち着いた/おだやかな」くらいの感じだと思う。「透明な/清らかな」ということばを呼び寄せることもできると思う。ある意味では「流通言語」の範囲内である。だから驚くことも、つまずくこともない--のかもしれないが。直前の「涎」とむすびつけると、まあ「透明な/清らかな」ということばにはふさわしくないときもあるかもしれないが、赤ん坊の涎は透明で清らかだから、そういう表現があってもいい。
 それでは、なぜ、つまずいたか。
 1行目の「窓が割れた」「鳴き声」「聴いた」が「静かな」とちぐはぐだからである。1行目には「音」がある。それが2行目の「静かな」によって瞬間的に消されてしまう。「静かな斜陽」の「静かな」は「意味」としては「音」と結びつくが、そこでは「音」としては書かれていない。「静かな音のする」斜陽という感じではつかわれていない。あえてことばを補うとすれば音ではなく、静かな「感じのする」斜陽が、ということになる。「静かさ」を聞きとっているという感じ、耳が働いている感じがしない。「斜陽」、つまり光がそこにあるせいかもしれないが、一瞬の内に、世界が「聴覚」から「視覚」に変わってしまったように感じ、私は、一瞬、自分の「肉体」がどこにあるかわからなくなった。
 それが、「あれっ」という私のつぶやきになった。
 「レンズはどこに置いたか。」はどういう意味か。なぜ、ここに突然レンズが出てくるのか。説明はないが、映画好きな私は、これは映画だね、とまた瞬間的に思った。レンズはカメラのレンズ。撮影するレンズ。それが「視覚」をさらに刺戟する。
 で、そのあとのことばを追っていくと……。

玄関で亜理沙が縛られている、どす黒い両乳首の先端にエメラルド
色の縄跳びを些か目を疑いたくなるほど流麗な蝶々型(屹立した黒
点だけがさながら甘美な鱗粉紋様のアゲハ蝶として飛び立ち、見る
者の視線を釘付けにするという按配)に結びつけられ、そのぷりぷ
りはち切れんばかりの豊満なバディから滴る脂汗が爆発的なフェロ
モンを伴い非情な勢いで驚異的に噴出している。

 「聴覚」はどこへ行ったのだろう。「耳」はどこへ消えてしまったのだろう。「目」ということばが出てくるように、そこには「うるさい」くらいに目が動いている。
 たとえば、私はその動きを「どく黒い両乳首の先端」の「両」に感じる。笑ってしまう。乳首なんてふたつあるに決まっているから「どす黒い乳首」と言えば十分である。片方だけ想像するか両方想像するかは、読んだひとの欲望次第。「両」なんてことばがない方が、ことばの経済学からいうと効果的である。「両」なんて言われると、目がちらばってしまう。さらに言えば「先端」も同じ。乳首といえばスケベな人間は先端を思い浮かべる。根元(?)を思い浮かべるのは、乳首を違った角度から把握する別のスケベである。
 で、その「目」は実はスケベではないのだ。忙しくさまざまなものを追いかけまわし、こまかく分類しながら動いて「豊満なバディ」とか「滴る脂汗」まで描き出すが、たとえば黒い乳首フェチのスケベなら、そんな余分なところは見ない。ひたすら乳首に集中していく。視覚が乳首に集中し、そこに触覚が、嗅覚が集中していくというのが、私の知っているスケベなセックスである。
 疋田はそうではない。フェロモンということばも出てくるが、それだって「視覚フェロモン」である。「噴出している」のを見ている。噴出をさわって感じているわけではない。においをかいで感じているわけではない。
 まあ、そこが疋田の特徴なのだから、それはそれでいいのだろうけれど、では、こんなに「視覚」人間の疋田がなぜ「二階の窓が割れた」という「音」を含むことばから私を始めたのか。(よく読むと、「二階」ということろに「視覚」が働いているのだけれど。)「犬の鳴き声を聴いた。」と「聴覚」の世界がはじまるかのようにことばを動かしたのか--という疑問が残る。
 聴覚はどこへ行った?
 私は思うのだが、(いつもの感覚の意見なのだが)、疋田の聴覚は「ことばの音」そのものに向き合っている。外的な、物理的な音ではなく、ことばを声に出すときにもってしまう音--そのなかで働いている。
 私は音読をしない。黙読しかしない。それでも、たとえば先に書いた「両乳首」と「乳首」の音の違いを感じる。そして、これから書くことは先に書いたことと矛盾するのだが「両乳首」の方が「乳首」よりも不経済であるにもかかわらず、「両」があった方が発生器官にとって「快感」が大きい。「音」を長く楽しめる。リズムの変化を楽しめる。
 疋田は「視覚」で影像を動かしながら、そのことばの「音」を舌や口蓋や声帯、それから耳で長く長く楽しんでいる。
 「ぷりぷりにはち切れんばかり」とか「豊満なバディ」とか、安直な「流通言語」も「音」を楽しむために繰り出されている。そこには「意味」なんかは、ない。あるのは「ことば」の音の「快感」だけなのだ。
 だから、ことはば、ひたすら違う音を追い求める。

                      痴呆気味の祖父、
悟が這い出している。おそろしいことだ、白内障の眼球に鋭利な
狂気が見え隠れするのがわかる。

 「痴呆気味」だけで十分状況を伝えられるけれど、それだけでは「音」が足りない。だから「白内障」まで動員する。なによりも、そこに登場する人物の名前が「康一」「亜理沙」「悟」と変わっていくことが、「音」に対する欲望の大きさを語っている。(このあとも「絹子」が登場する。)

 私は2行目の「静かな」ということばにつまずいたのだが、そのことばも「音」だったのだ。「涎のように小さなお家へ斜陽が差込んでいる。」では「音」が足りない。リズムが加速しない。「意味」を読み取った私の読み方が間違いだったのだ。
 疋田のことばは「意味」を追いかけてもしようがない。楽しいわけではない。
 この「音」に対する欲望は、私の「感覚の意見」では、天沢退二郎に似ているなあ。天沢の詩も、視覚的でありながら、ことばを動かしているのは「音」だなあ。「音」がいきいきとしていて、きれいだなあ、と思う。



 付録(?)
 疋田は詩のなかで「糸楊枝」ということばをつかっている。なんだろう。「デンタルフロス」とわかるまでに私は0・5秒くらいかかった。「フェロモン」「エメラルド」「バディ」「プレリュード」などカタカナをつかっているのに、どうしてデンタルフロスではないのだろう。たぶん、音が長すぎるのだろう。だからつかわない。そういうことばの選択にも疋田がことばを音を基準に動かしていることがうかがえる。
歯車vs丙午
疋田 龍乃介
思潮社
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西脇順三郎の一行(40)

2013-12-27 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(40)

 「第三の神話」

黄ばんだ欅の葉先に舌の先が触れた                 (52ページ)

 これは肉体の舌が欅の葉に触れた(舐めた)という意味ではないだろう。ことばが欅に触れた、欅について語った、という意味だろう。もちろん舐めてもおもしろいのだけれど、そのときはまた違った表現になると思う。
 なぜ、語った、話したと書かなかったか。詩だからだ。気取って書いているのである。わざと書いているのである。
 私は「ことばは肉体である」と考えるので、こんなふうにことばを語るのに具体的な肉体をつかった表現に出会うと自分に引きつけたくなる。
 まあ、そんなことはめんどうになるからやめておく。
 この一行では「葉先」「舌の先」と「先」が二度出てくるところがおもしろい。同じことばが繰り返されると、その「同じ」の部分に意識が動いていく。「先」が重みを増してくる。で、書いてはいないが、これは「微かに触れた」のだと思う。「先」と「先」だからね。ことばは風のように欅の葉をさっととおりすぎたのだ。
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