詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

唐作桂子「奥さんと犬」

2013-12-29 11:22:32 | 詩(雑誌・同人誌)
唐作桂子「奥さんと犬」(「現代詩手帖」2013年12月号)

 唐作桂子「奥さんと犬」(初出『川音にまぎれて』10月)は、かなしみがおかしい。おかしさがかなしい。

幽かにふくらんではほそくなり
呼吸する鬼火
小躍りしながら追いまわす犬。
ほどほどにしときなさいと
奥さんはリードをひく

生前に旦那が発注していた
作家ものの骨壺は
ちと小さすぎたようだ。
詰めが甘いのよねと
奥さんは舌打ちする

文庫本もカーディガンも実印も空き箱も
通販で買った嵩ばるあれやこれや
残された混沌、致死量の。
先立つほうがよっぽどラクと
奥さんは玄関を這う黒と橙の毛虫をにらむ

寮になった三階建ての
古風な堅牢さは
数週間で緑とゴミに覆いつくされた。
立ち入り禁止なんてくそくらえと
奥さんと犬は金網の隙間をくぐりぬける

 「定型詩」であるところに、不思議な抑制が働いている。抑制のない「定型詩」というものはないかもしれないけれど。
 各連とも5行で、最初の3行に奥さんの見た「事実」が書かれ、句点「。」で区切られたあと、奥さんの「反応」が書かれる。ちょっと舌足らずのような、説明になりきれていないようなことばのつながりが、かなしくておかしく、おかしくてかなしい。
 1連目の「鬼火」は「旦那」の魂が燃えてただよっているのかもしれない。奥さんの旦那なら、犬にとっては「主人」。だから喜んで小躍りしながら追い回す。--というのは、奥さんの「主観」。だから、「ほどほどにしなさい」というのは犬に対する注意であると同時に、自分自身への注意でもあるだろう。だいたい鬼火を追いかける犬を見て、あの鬼火は旦那だと思うこと(犬の主人だと思うこと)からしてが「主観」であって、「事実」ではないだろう。
 「事実」なんていうものは、「主観」を誰かが共有してくれたときに「事実」になるのであって、ほんとうは存在しない。
 死んだ旦那が生前に注文していた骨壺が小さくて、そこに骨が入りきれないというのは客観的に「事実」のかもしれない。けれど、そうだとしても、そういう注文をすること、注文を間違えることを「詰めが甘い」と言えるかどうかは、かなりあいまいである。
 その「事実」になりきれない何かとぶつかりながら、奥さんは、リードを引っぱったり、舌打ちしたりと、ちょっと「行動」している。「肉体」で感情を発散させている。この感じが、たぶんかなしさとおかしさをうまい具合にミックスさせているのだと思う。感情におぼれるのではなく、それを「肉体」としてあらわしている。そこから「肉体」の共有が始まる。
 かなしいかどうかわからない。いらいらしているのかもしれない。すこし怒っているのかもしれないが、まあ、ともかく感情はわきに置いておいて、リードを引っぱる時の「肉体」、舌打ちするときの「肉体」は「真似する」ことができる。「真似する」というのは「肉体の動きを共有すること」である。「肉体」を共有することが先にあって、それから、そのときの動きが触れる「感情」に近づいていくのである。
 3連目は、うーん、ことばを正確に追って、それを「流通言語」に翻訳(?)するのはかなりむずかしい。旦那は通販でなんでも買ったのだろう。それが「混沌」といえるくらいにあふれている。整理のしようがない。その「混沌」はまるで「致死量」である--というのは、かたづけるのがむずかしい、くらいの「感覚」なのだろうけれど、そのとき「致死量」って誰に対して? 旦那が死んでしまったから旦那に対して致死量だったということ? そんなものばっかり買うから死んでしまったんだよ--というような、奥さんの怨み? 愚痴? よくわからないが、まあ、そういう男女はどこにでもいるなあ。旦那が余分なものばっかり買って、それに対してぶつぶつ不平を言う奥さんがいるというのは、よくあることである。で、そういうことに対して「あとに残された方は整理がたいへんなんだから(先に死んだ方が楽なんだから)」と愚痴を言うのも、よくあることである。
 こういうとき、私たちは愚痴そのものを聴いている(ことばを聴いている)のではなく、愚痴を言うという「こと」を聴いているのかもしれない。愚痴を言う、愚痴を聞くという「時間」を共有しているのかもしれない。そこにいっしょに「いる」という「肉体」を共有しているのかもしれない。感情は、たぶん同情するふりをしても、共有はしないだろうなあ。めんどうくさいから。感情はどんなに共有しようとしても、その人のものであって、他人のものにはならないからね。
 で、玄関に毛虫がいれば、それを掃き捨てる--というような「日常」の「肉体」の仕事をするだけ。そういう仕事はだれもかわってくれない。それが「感情」は共有されないという証拠でもある。愚痴を聞いて同情してくれて、同情の結果として玄関を掃除してくれるなんてことは、まあ、ない。「日常」も、そのひと個人のものであって、他人のものにはならない。
 ある人が別の人と重なるとしたら、それぞれが同じ「肉体」の動きをするということだけであって、ほかは関係がない。
 ここが人間のいちばんおもしろくて、かなしいところ。かなしくておもしろいことろだろうなあ。

 みんな「無関係」。ただ「肉体」をもって生きているだけ。

 だんだん論理(?)がかってに飛躍していくが……。
 愚痴なんて、廃屋になった建物みたいなもの。ゴミと緑に覆われる。そんなものにいちいちかまっていられない。他人になんてかまっていられない。
 だから、他人がつくった「立ち入り禁止」なんていうものにもかまう必要はない。金網に隙間があれば、そこをすりぬければいい。
 なんだか、逞しい。
 死を見た奥さん(おばさん、女性)の逞しさがあるなあ。
 そうなんだなあ、「奥さんはリードをひく」「奥さんは舌打ちする」「奥さんは毛虫をにらむ」。その「肉体」には「怒り」があって、「怒り」が逞しいと感じさせる。旦那が死んだからといってめそめそしていられない。他人はどっちにしろ同情してはくれない--というと言いすぎだが、玄関の毛虫をかたづけてはくれない。ほんとうに他人にしてもらいたいのは、そういう「どうでもいいようなこと」なのに、「どうでもいいからこそ」他人は知らん顔。えっ、かなしい? いそがしい? 犬の散歩にならかわりに行ってやってもいいけれど、玄関の毛虫くらい自分でしなさいよ--というのが「他人」の同情のあり方なのだ。
 そういうものを、ぐいとおさえつけて、ことばにしている。
 いや、ほんとうに逞しいなあ。こういう奥さん(おばさん)は、こわいけれど、好きだなあ。「肉体」を感じるなあ。あ、「肉体」って、この場合「存在感」ということなんだけれど。



 ここからは少し違ったことを書くのだけれど。
 きのう田原の詩について書いたとき「二重の瞼」をどう読むか、と考えた。私は田原の詩を読んだとき、まず「にじゅうのまぶた」と読んだ。読んだあとで、なんとなく違和感を覚えた。「ふたえ」だね、と思いなおしたのである。
 で、田原はどう読むのか。
 どうも、私には「にじゅうの」と読むような気がしてならないのである。そして、その詩のなかでは行方不明の娘(少女)と田原が「にじゅう」になっている。この「二重」のなり方が、どうも「中国人」であると同時に「男」っぽい。田原(男)が娘と「二重」になるというのは「虚構」のなかでしかありえないけれど、だからこそ「男」っぽい。
 それはきょう読んだ唐作の世界と比較すると鮮明になる。
 唐作は、旦那が生きていたときの奥さん(唐作と仮定しておく、つまり「私」)と、旦那が死んでしまったあとの奥さん(私)を二重(にじゅう)にして世界を見ている。一方で、旦那がいなくて寂しい私がいて、他方で旦那がいなくてもしなければならないことをする私がいる。ふたつの私の間で、ちょっと揺れている。その揺れを犬が引っぱったり、逆に犬に引っぱられるところを引きもどしたりしている。そのときの「私」の出し方が「おばさん」っぽい。この「おばさん」も虚構かもしれないけれど、不思議な開き直り(肉体へのよりかかり、肉体がある、生きているんだという強み)がある。
 田原の虚構には、この「肉体の強み」がない。失われた(失踪した)娘の、その消えた「肉体」を精神で取り戻そうとしている。つまり、それは精神の詩。
 唐作は、そうではなくて、死んでしまった旦那ではなく、あくまで「いま/ここ」にいる「肉体」を手がかりに、「生きているんだぞ」と開き直っている。こういう「開き直り方」というのは、男はなかなかできない。
 「おばさん詩」は豊饒な日本語になっているのに、「おじさん詩」はないなあ。田原は「おじさん」という年代ではないかもしれないけれど。「おじさん詩」はどうしても「抒情(精神)」になってしまうからいけないね。「精神」なんて、「方便」なのに、と私は思うのである。



川音にまぎれて
唐作桂子
書肆山田
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西脇順三郎の一行(42)

2013-12-29 06:00:00 | 西脇の一行
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 「第三の神話」

ジオヴァンニイ・ダ・ボローニヤの女                (54ページ)

 これは何のことか。教養のない私にはわからない。わからないけれど、唯一「ボローニヤ」がイタリアだとわかる。--これはいいかげんな話であって、ボローニャはイタリアとは別な国にもあるかもしれないが、私はイタリアの都市と思い込む。「ジオヴァンニイ」もイタリアっぽい名前である。わからないけれど具体的な「固有名詞」を感じさせる。
 で、これがなぜおもしろいかというと。
 前の部分を引用しないとわかりにくいのだが(私は一行だけ引用して感想を書くということを自分に強いているので、こういうときは非常に説明に困るのだが……)、それまでの展開は「第三の女」とか「第一の女」とか、きわめて抽象的なことばである。それが、ここでは「固有名詞」(具体)を感じさせることばの登場で世界ががらりと変わる。大きく動く。
 そして、それが、私の場合、「ジオヴァンニイ・ダ・ボローニヤ」が誰なのか見当がつかないために、音そのものとして響いてくる。それがおもしろさに拍車を書ける。「い」と「お」と「あ」と「N」の音が交錯する。そして「おんな」のなかには「お」と「あ」と「N」がある--というのもとてもいい気持ちにしてくれる。






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