マイケル・ウィンターボトム監督「いとしきエブリデイ」(★★★★★)
監督 マイケル・ウィンターボトム 出演 シャーリー・ヘンダーソン、ジョン・シム、ショーン・カーク、ロバート・カーク、ステファニー・カーク
暗闇のなかでベルが鳴る。目覚まし時計だ。母親が疲れた感じで起きる。冒頭のシーンである。このシーンが後半でも繰り返される。二つのシーンの間には長い年月があるのだが、その年月を消してしまうくらいに同じである。--と書いてしまえば、この映画のすべてを語ったことになる。
でも、ストーリーは要約できても、感動は要約できないので、私は書く。とても感動した。激しく感動した。今年はおもしろい映画がたくさんあったが、これはそのどれよりも哲学的である。言い換えると、「ふつうの人間」が「ふつう」に描かれている。「ふつう」そのものである。
毎日同じことを繰り返す。朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、仕事をして(学校へ行って)、遊んで、けんかして、またご飯を食べて寝る。その繰り返しは、日にちを入れ換えても変わらない--というと、少し違う。いや、かなり違うのだけれど。ほんとうは、そうではない、と矛盾したことを書いてしまうが……。
私が書きたいのは。
たとえば、後半の父親が刑務所から出所してきたあとの、朝の目覚まし時計。母親が起きだして、朝の準備をする。そのとき、最初のシーンと「いま」とどれくらい「離れている」か。「時間」にかえると、数年になる。小さかった長女はすっかり娘の体つきになり、母親よりも背丈がおおきくなっている。おしゃぶりをくわえていた末っ子の少女も大きくなっている。けれど、そういうことを思い出すとき、そこには「時間の隔たり」がない。5年前、4年前、きのう、の区別がない。「毎日(エブリデイ)」に違いがない。みんな、同じ感じ(隔たりなし)で「いま」につながっている。「過去」などというものはなくて、「いま」だけがある。いや「過去」はあるけれど、それは時系列にそって並んでいるのではなく、「いま」とそのときそのときいちばん近い形(密接した形)でつながり、「いま」になってしまう。「過去」に日付をつけてみても、「いま」生きているという瞬間にとって、それは無意味なのである。あれは何年前、あれはきのう、と言ってみても、「肉体」はそれを区別できない。「いま」にしてしまう。
こういうシーンがある。
妻が、夫が服役中は寂しかった、とベッドのなかで言う。浮気してしまったことを告白する。夫は当然しかりつける。どなる。妻はこどもに聞こえるから大声を出さないで、という。こどもたちは自分の部屋でふたりの会話を聞いている。
このとき、私は、愛人が妻の家に来てこどもたちといっしょに食事しているシーンを思い出す。きっとこどもたちも思い出している。母親と男の関係を、こどもたちはじっと見ていて、何が起きているかを知っている。それが父親にとってどういうことかも知っている。知っていた。だからこどもたちは父親にはそういうことを言わなかった。父親と母親にいっしょにいてもらいたい。家族がいつもいっしょにいたい。だから言ってはいけないと判断したことは言わない。それは、特に約束したことではないけれど、そういうふうに感じたのだ。その「感じ」を「いま」思い出している。
その「感じ」は「いま」そのものでもある。黙って、父親と母親のけんかがおさまるのを待っている。「過去」はどれだけ年月が経っても、思い出す瞬間に「いま」になる。「いま」になって、現実そのものを動かすのである。
映画を振り返ると、「時間」の不思議さがとてもよくわかる。夫が刑務所に入っている「期間」は5年。しかし、映画にはその「5年」が客観的には描かれない。よく映画では字幕で「1年後」とか「1か月前」という表記があらわれて「時間」を明らかにするが、この映画ではそれがない。そういうことをさして、私は客観的には描かれない、と書いたのだが--客観を通り越して「具体的」に描かれる。(変な言い方だが。)たとえば、夫(父)が最初に入っていた部屋は相部屋で、彼は二段ベッドの上にいた。それから個室になり、さらに二段ベッドの部屋になり、今度は下のベッドをつかっている。「時間」は「日付」ではなく、「暮らし方」そのものとして具体的に(だから客観的に)描かれる。
なによりもこどもたちの「肉体」の成長が「具体的」である。小さかったこどもが大きくなる。先に書いたが長女は母親の身長を追い越してしまう。それは「変更」がきかない「事実」である。
でも、ほんとうに不思議だ。同じ学校へ通っていた4人のきょうだい。年月が経ち上の二人は中学校(?)、下の二人は小学校(?)という具合。その関係は「入れ換え」ようがないけれど、そういう「入れ換え」不可能な関係をかかえたまま、それぞれの「日々」そのものは入れ換えが可能なのだ。年上のこどもが下のこどもに靴下を履かせていたのは、いつのこと? クリスマスの歌を練習していたのはいつのこと? 歯ブラシで洗面台を掃除し、それを姉が叱ったのはいつ? 「いま」から振り返れば、すべては「過去」なのだが、その「過去」には「順番」がない。ほら、その歯ブラシのシーンと、弟が刑務所で父親に面会したとき泣いていたが、それはどっちが「過去」? 「いま」から遠いのは、どっち? 言えないでしょ? どっちが先でどっちがあとでも「いま」はかわらない。
それが「時間」(過去といまの関係)なのだ。
「事実」があるだけで、そこには「時間」はない。「過去」という時間は「いま」の前では瞬間的に「消える」。「いま」にのみこまれてしまう。「生きている」ということにすべてがのみこまれ、「いま」を動かしていくだけである。
私が映画のシーンを時系列にそって思い出さないように、思いつくことから順々につないでことばを動かすように、「過去」は「日常」のなかで、いつも「位置」をかえている。自在に動いている。「いま」にふさわしい(都合のいい?)「過去」を呼び出しているだけなのである。
あ、少しごちゃごちゃと書きすぎたかもしれない。
この映画は、そういう「日常」とは別に、イギリスの風景もとても美しくとらえている。風が吹いて黄金の麦が揺れる。冷たい雨が降って人間を小さくする。かわらないものが、「永遠」がそこにはある。その永遠と日々は向き合い、「いま」を生きているという感じがする。
こどもたちは実際の四人兄弟が演じているのだが、そのなかで下から二番目のショーンがすばらしい。「いま」の感覚がいい。あらゆることを「いま」として浮かび上がらせる。役者というのは「過去」を「いま」に呼び出して、「過去」を「いま」として見せる仕事だということを教えられた。
それから、最初に書いた浮気の告白にもどるけれど、そのシーンにはイギリスの個人主義(秘密主義)というものがとても濃厚にでている。「秘密」があって、その「秘密」は自分に責任がある。その人がことばにして語って、はじめて「秘密の過去」が存在したことになる。他人は(たとえばこどもたちには)、その「過去」を出現させる権利はない。「過去」を「いま」に呼び戻すのは、人それぞれなのである。--と書くと、この映画の「時間感覚(日常感覚/永遠の感覚)」は、イギリス人の強い個性のようにも見える。個性的であるからこそ、哲学(普遍)に通じるのかもしれない。--ということも考えた。
(KBCシネマ1、2013年12月04日)
監督 マイケル・ウィンターボトム 出演 シャーリー・ヘンダーソン、ジョン・シム、ショーン・カーク、ロバート・カーク、ステファニー・カーク
暗闇のなかでベルが鳴る。目覚まし時計だ。母親が疲れた感じで起きる。冒頭のシーンである。このシーンが後半でも繰り返される。二つのシーンの間には長い年月があるのだが、その年月を消してしまうくらいに同じである。--と書いてしまえば、この映画のすべてを語ったことになる。
でも、ストーリーは要約できても、感動は要約できないので、私は書く。とても感動した。激しく感動した。今年はおもしろい映画がたくさんあったが、これはそのどれよりも哲学的である。言い換えると、「ふつうの人間」が「ふつう」に描かれている。「ふつう」そのものである。
毎日同じことを繰り返す。朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、仕事をして(学校へ行って)、遊んで、けんかして、またご飯を食べて寝る。その繰り返しは、日にちを入れ換えても変わらない--というと、少し違う。いや、かなり違うのだけれど。ほんとうは、そうではない、と矛盾したことを書いてしまうが……。
私が書きたいのは。
たとえば、後半の父親が刑務所から出所してきたあとの、朝の目覚まし時計。母親が起きだして、朝の準備をする。そのとき、最初のシーンと「いま」とどれくらい「離れている」か。「時間」にかえると、数年になる。小さかった長女はすっかり娘の体つきになり、母親よりも背丈がおおきくなっている。おしゃぶりをくわえていた末っ子の少女も大きくなっている。けれど、そういうことを思い出すとき、そこには「時間の隔たり」がない。5年前、4年前、きのう、の区別がない。「毎日(エブリデイ)」に違いがない。みんな、同じ感じ(隔たりなし)で「いま」につながっている。「過去」などというものはなくて、「いま」だけがある。いや「過去」はあるけれど、それは時系列にそって並んでいるのではなく、「いま」とそのときそのときいちばん近い形(密接した形)でつながり、「いま」になってしまう。「過去」に日付をつけてみても、「いま」生きているという瞬間にとって、それは無意味なのである。あれは何年前、あれはきのう、と言ってみても、「肉体」はそれを区別できない。「いま」にしてしまう。
こういうシーンがある。
妻が、夫が服役中は寂しかった、とベッドのなかで言う。浮気してしまったことを告白する。夫は当然しかりつける。どなる。妻はこどもに聞こえるから大声を出さないで、という。こどもたちは自分の部屋でふたりの会話を聞いている。
このとき、私は、愛人が妻の家に来てこどもたちといっしょに食事しているシーンを思い出す。きっとこどもたちも思い出している。母親と男の関係を、こどもたちはじっと見ていて、何が起きているかを知っている。それが父親にとってどういうことかも知っている。知っていた。だからこどもたちは父親にはそういうことを言わなかった。父親と母親にいっしょにいてもらいたい。家族がいつもいっしょにいたい。だから言ってはいけないと判断したことは言わない。それは、特に約束したことではないけれど、そういうふうに感じたのだ。その「感じ」を「いま」思い出している。
その「感じ」は「いま」そのものでもある。黙って、父親と母親のけんかがおさまるのを待っている。「過去」はどれだけ年月が経っても、思い出す瞬間に「いま」になる。「いま」になって、現実そのものを動かすのである。
映画を振り返ると、「時間」の不思議さがとてもよくわかる。夫が刑務所に入っている「期間」は5年。しかし、映画にはその「5年」が客観的には描かれない。よく映画では字幕で「1年後」とか「1か月前」という表記があらわれて「時間」を明らかにするが、この映画ではそれがない。そういうことをさして、私は客観的には描かれない、と書いたのだが--客観を通り越して「具体的」に描かれる。(変な言い方だが。)たとえば、夫(父)が最初に入っていた部屋は相部屋で、彼は二段ベッドの上にいた。それから個室になり、さらに二段ベッドの部屋になり、今度は下のベッドをつかっている。「時間」は「日付」ではなく、「暮らし方」そのものとして具体的に(だから客観的に)描かれる。
なによりもこどもたちの「肉体」の成長が「具体的」である。小さかったこどもが大きくなる。先に書いたが長女は母親の身長を追い越してしまう。それは「変更」がきかない「事実」である。
でも、ほんとうに不思議だ。同じ学校へ通っていた4人のきょうだい。年月が経ち上の二人は中学校(?)、下の二人は小学校(?)という具合。その関係は「入れ換え」ようがないけれど、そういう「入れ換え」不可能な関係をかかえたまま、それぞれの「日々」そのものは入れ換えが可能なのだ。年上のこどもが下のこどもに靴下を履かせていたのは、いつのこと? クリスマスの歌を練習していたのはいつのこと? 歯ブラシで洗面台を掃除し、それを姉が叱ったのはいつ? 「いま」から振り返れば、すべては「過去」なのだが、その「過去」には「順番」がない。ほら、その歯ブラシのシーンと、弟が刑務所で父親に面会したとき泣いていたが、それはどっちが「過去」? 「いま」から遠いのは、どっち? 言えないでしょ? どっちが先でどっちがあとでも「いま」はかわらない。
それが「時間」(過去といまの関係)なのだ。
「事実」があるだけで、そこには「時間」はない。「過去」という時間は「いま」の前では瞬間的に「消える」。「いま」にのみこまれてしまう。「生きている」ということにすべてがのみこまれ、「いま」を動かしていくだけである。
私が映画のシーンを時系列にそって思い出さないように、思いつくことから順々につないでことばを動かすように、「過去」は「日常」のなかで、いつも「位置」をかえている。自在に動いている。「いま」にふさわしい(都合のいい?)「過去」を呼び出しているだけなのである。
あ、少しごちゃごちゃと書きすぎたかもしれない。
この映画は、そういう「日常」とは別に、イギリスの風景もとても美しくとらえている。風が吹いて黄金の麦が揺れる。冷たい雨が降って人間を小さくする。かわらないものが、「永遠」がそこにはある。その永遠と日々は向き合い、「いま」を生きているという感じがする。
こどもたちは実際の四人兄弟が演じているのだが、そのなかで下から二番目のショーンがすばらしい。「いま」の感覚がいい。あらゆることを「いま」として浮かび上がらせる。役者というのは「過去」を「いま」に呼び出して、「過去」を「いま」として見せる仕事だということを教えられた。
それから、最初に書いた浮気の告白にもどるけれど、そのシーンにはイギリスの個人主義(秘密主義)というものがとても濃厚にでている。「秘密」があって、その「秘密」は自分に責任がある。その人がことばにして語って、はじめて「秘密の過去」が存在したことになる。他人は(たとえばこどもたちには)、その「過去」を出現させる権利はない。「過去」を「いま」に呼び戻すのは、人それぞれなのである。--と書くと、この映画の「時間感覚(日常感覚/永遠の感覚)」は、イギリス人の強い個性のようにも見える。個性的であるからこそ、哲学(普遍)に通じるのかもしれない。--ということも考えた。
(KBCシネマ1、2013年12月04日)
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