詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆『木下杢太郎を読む日』

2013-12-31 10:15:09 | 詩集
岡井隆『木下杢太郎を読む日』(幻戯書房、2014年01月05日発行)

 岡井隆『木下杢太郎を読む日』はタイトル通り木下杢太郎について書いたものである。もっと言えば木下杢太郎とホフマンスタールの関係について書いたものである。木下杢太郎はホフマンスタールから影響を受けたが、その後その影響下から逃れ(?)、独自の境地に達した--というようなところが、岡井がみた木下杢太郎の姿である。どの作品に、どんな影響がみてとれるか--ということよりも、木下杢太郎の「人間」の動きの方に重点が置かれているような文章である。
 と、わかったようなことを書いてもしようがないなあ。私は木下杢太郎を読んでいないし、ホフマンスタールも読んでいない。あ、鴎外の訳で読んだのはホフマンスタールだったのか、と少し思い出すだけである。
 私は、そんなことより--と書くと岡井に叱られそうな気もするが、そんなことより、木下杢太郎を読む岡井隆の「人間」にひきずられてこの本を読んだ。誰かを「読む」、そのとき「読む人」のなかに何が起きるか。それを岡井はていねいに描いている。ことばにしている。この本には木下杢太郎よりも、岡井隆が書かれている。そう思った。

 「湖」という作品を引用する際、岡井は「静かな夜の雪」を「雲」と誤記している。その誤記の理由(原因?)を68ページで説明している。年譜で木下杢太郎の行動を追い、その詩の舞台を大正3年8月の野尻湖と思い込み、

「緑なす山の間の湖」の「緑」が、夏にふさわしいのと、「夜の雲」が湖面におりて来て消えるという情景もありうると思ったのだろう。

 ということになったらしい。
 「緑なす山の間の湖」の「緑」が、夏にふさわしい--そうだね。どうしたって、夏だね。だったら「雪」は基本的にありえない。雲だ。
 ひとは誰でも、あることばを単独では把握しない。前後のことばのなかでつかみとる。そこに「落とし穴」のようなものもあるけれど、そういう前後のつながりを自然に身につけるというのが人間のあり方なのだと思う。
 誤記したことを誤記したと書いている--その誤記のなかに、岡井の「正直」があって、その瞬間に、岡井が「人間」として見えてくる。緑-夏-雲とういことばのつながりを生きている岡井が見えてくる。(木下杢太郎は見えてこないのだけれど、岡井が見えてくる。)
 岡井が見えてくる瞬間というのはいろいろあるが、木下杢太郎が書いたホフマンスタールの追悼文に触れた部分。(149 ページ)

 「僕は白状すると」云々のところへ来て正直私は驚いてしまった。白状するにしては遅すぎるし、今このようにホフマンスタールの死後になって打ち明けるというからには、よほど杢太郎の心の中のこだわりが大きかったと思わずにはおれない。

 岡井自身「正直」ということばをつかっているが、ほんとうに驚いたのだ。そうだろうなあ。そまれでに書かれた文章で岡井は必死になって木下杢太郎とホフマンスタールの関係を追っているのだが、木下杢太郎はそれまで明確には何も書いていないのだから。そして、その書かれていないことに対して岡井は必死になって真相を探ろうとしているのだから。
 この驚きの後、岡井はつづけている。

ここで杢太郎が、ほとんど暗記(そら)で次々とホフマンスタールの作品名を挙げてその思い出を語るあたり、むしろ愉しそうだといいたくなるくらいである。

 この批判(愚痴?)めいたことばが、とてもいい。それが木下杢太郎の文章をいっそういきいきさせる。そして、木下杢太郎がではなく、岡井がわかる。あ、岡井はこんなに木下杢太郎が好きなんだ、批判や愚痴を言ってしまわずにはいられないほど好きなんだということがわかる。
 やっと木下杢太郎とホフマンスタールの関係をつきとめた(証拠をつかんだ)というよろこびのようなものも、そこにはあるかもしれない。
 ここでは岡井が、いきいきと動いている。愚痴をいいながら、「むしろ愉しそうだといいたくなるくらいである。」

 というようなことは、さておいて。
 私がいちばんおもしろいと思ったのは岡井が天皇と話したことを書いた部分。(179 ページ)

 談たまたま「岡井は今何を書いているのか」という問いにお答えすることになって、ホフマンスタールと木下杢太郎について、やや多弁にお話ししたのも思いがけなかった。その時、ホフマンスタールという十九世紀末ウィーンの詩人の早熟ぶりに触れて「十代の相手について八十四歳になった自分が、いろいろと調べたり書いたりするとき、この年齢差に違和感がないわけではありませんが、世に天才というものはいるもので、ホフマンスタールは十代にして既になみなみならぬ成熟度というか、初めから完成しているのでございます。従ってその言葉は、年老いたわたしなどの心を、ぐさぐさ刺すのでございます。

 私は、この部分を逆に読んだのである。岡井は私より年上。そして岡井が天才であるのに対して私はただのことばの愛好者(アマチュア)なのだけれど、私は一度も「年齢差」を感じたことがない。岡井を読んでいて「違和感」がない。
 それはなぜかというと。
 これは岡井に対してはとても失礼な言い方になるかもしれないけれど、岡井のことばに対する情熱には「成熟」というものがない。「未成熟」。ただひたすら何かを追い求め、それを書こうと必死になっている。若い。とても若い。「未成熟」が「成熟」している。その「成熟した未成熟」、輝かしい絶対的な若さに引っぱられて、私は、よし、書くぞという気持ちにさせられる。読むと、私自身が若返る。
 「現代詩手帖」十二月号で岡井の詩集に触れて、詩集のタイトルをもじって「岡井を、ヘイ、リュウ、と呼んでみたくなる」と書いたのだけれど、いや、ほんと。「岡井先生、はじめました」なんて言いたくないなあ。私は小心者だから実際に会えばことばも出てこなくて「あの、岡井隆さんですか?」と言うくらいが精一杯だけれどね。
 こういう詩人が私のなかには何人もいるが、ことばを読んで、「年齢差」を感じさせないというのは、若いか老いているかは関係なく「天才」なのだと思う。その「天才」が私のいる「いま/ここ」までやってくる。(私が天才のいるところへ行くのではない。そんな苦労はしない。できない。)たとえば岡井がこの本でも書いている森鴎外。文豪だけれど、私は鴎外を読むとき、文豪とは思わないし、死んでしまった人とも思ったことがない。今、ここに生きていると思う。生きていると感じる。鴎外が私の目の前にあらわれる。そして動く。歴史的な「時間」がない。「時間」が消えて、その人と向き合う。そのひとが時間と場所を越えてやってくる。そういうことばを書くひとは天才なのだ。ことばのなかでは、いつでも天才に会うことができる--それが本を読むよろこび、ことばを読むよろこびだね。
 木下杢太郎を真剣に読む岡井をとおして、私は岡井に会うと同時に、ことばを読むよろこびにも出会った。
木下杢太郎を読む日
岡井隆
幻戯書房
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西脇順三郎の一行(44)

2013-12-31 06:00:00 | 西脇の一行
西脇順三郎の一行(44)

 「失われた時 Ⅳ」

くちずさむくちびるがふるえる                   (56ページ)

 音がおもしろい。「くち」ずさむ「くち」びる。「ふ」るえる。くちび「る」、ふ「る」え「る」という音の繰り返し。さらにくち「び」る、「ふ」るえる、のは行・ば行のゆらぎと、くち「ず」さむ、くち「び」る、「が」の濁音(深々とした「有声音」の豊さ)が「く」ちびる、「く」ちずさむ、「ふ」るえるの「無声音」の対比が加わる。
 わけもなく、その音を声に出して読みたい欲望が生まれてくる。私は黙読しかしないのだが、どこかで「肉体」が声を出していて、その声が聞こえてくる。ついつい、それを私の肉体の何かが、それを真似しようと誘いかけてくる。
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