小川三郎「黄金色の海」(「repure」18、2014年04月19日発行)
小川三郎「黄金色の海」は何を書いているのだろう。「黄金色の海」というのは朝焼け、あるいは夕焼けの海か。あるいは真昼の輝き渡る海か。
「黄金の海」はひまわりの咲き誇る畑かとも思った。でもそうすると二連目が非論理的。一面のひまわりのなかに、「ただ一輪だけ/咲いている。」というのは奇妙な論理になる。黄金の海を背景にして、ひまわりが一輪咲いているのか。
いや、二連目の表現が非論理的だとしても、私は、なおこの「黄金の海」をひまわりの畑と感じたい。(ソフィア・ローレンの出た「ひまわり」の畑を思い出している。)そのなかで、小川は、ある一輪が気になった。何万本あったとしても、その一本が特別に見えた。「これは、私だ」という感じで一本のひまわりが目に飛び込んできたということではないのだろうか。
こういうことは、雑踏を歩いていて「あ、あの人」と思う感じに似ている。ほかの人から見れば他の人とまったく区別がないただの女(男)なのだが、ふとその人が気になる。そういう感覚。
自分に似ている、と小川は一本のひまわりに感じる。その一本だけが「ただしいかたち」をしている。--それは、自分は正しいと言い聞かせること。何があったのかわからないが、小川はいま自分は正しいと言い聞かせている。
その「ただしさ」をいとおしむように、手を伸ばす。すると「ふるふるとした」。これは震えた? それとも何かの返答?
これが、非常に気になる。こころに響いてくる。
「それでは」が気にかかる。「それでは」は、そんなふうに「ふるふる」とされては、という意味だろうか。何かしら、小さな「抗議」のようなものがある。この正しい形をしているひまわり、それを私は私だと思いたい。けれど、ひまわりは私を拒むように「ふるふるとした」。そんなふうにされたのでは「ただしい」はどこへ行ってしまうのか。私の「ただしい」はどこにあるのか。
でも、そういう「小さな抗議」をしたあと、小川は、その「ふるふる」から静かな答えを受けとっている。
人の世界、そのなかでの「ただしい」とか「ただしくない」とかは、どうでもいい。「ただしくない」と否定されるときの「痛み」などどうでもいい。そういうこととは関係なしに、たとえばひまわりは咲く。海は黄金に輝く。それが、ひまわり、海、つまり自然の「ただしさ」である。
これでは、答えにならないだろうか。
答えにならなくて、いい。
自分が納得できれば、それが「答え」であろうとなかろうと関係がない。
さっき「それでは」だったものが、ここでは「それで」にかわっている。「小さな抗議」は消えて、小川は一輪のひまわりになって「ふるふるとした。」ただ「ふるふるとした」のではなく「いちだんとまた」ふるふるとした。
この「いちだんとまた」は小川にしかわからない。つまり「流通言語」で書き換えることができないことばである。
「じゅうぶん」ということばの切実さ。「価値が/失われていた。」というが、それは「他人」が基準とする「価値」であって、小川の基準とする価値ではない。だから、それが「じゅうぶん」に失われるというとこは、このとき、小川は純粋に「個人(孤独)」であるということ、孤立している、独立しているということを意味する。
ひまわりが人間の基準の「ただしい」とは無関係に「ただしい」ように、小川も他人とは無関係に「ただしい」。そひて、そのことを確認するときひまわりと小川は一体になる。「一輪のひまわり」になる。もし「ただしい」もいらない。ただ「ひまわり」という形になる。
その瞬間「ひまわり畑」は「黄金色の海」になる。
「一輪のひまわり」と「他の一万本のひまわり」は「ひまわり」ということばではくくれない。私(小川)と他の人々が「人間」ということばでくくれないように。
小川三郎「黄金色の海」は何を書いているのだろう。「黄金色の海」というのは朝焼け、あるいは夕焼けの海か。あるいは真昼の輝き渡る海か。
あたり一面
黄金色の海だ。
そのなかにひまわりが
ただ一輪だけ
咲いている。
ひまわりだけが
ただしいかたちをしている。
手を伸ばして触れてみると
ひまわりは風に吹かれて
ふるふるとした。
それではまるで
私のことでは
ないようなのだ。
黄金色の海では
すべてが輝いている。
ひとにまつわる痛みなど
ここではどうでもいいことだった。
「黄金の海」はひまわりの咲き誇る畑かとも思った。でもそうすると二連目が非論理的。一面のひまわりのなかに、「ただ一輪だけ/咲いている。」というのは奇妙な論理になる。黄金の海を背景にして、ひまわりが一輪咲いているのか。
いや、二連目の表現が非論理的だとしても、私は、なおこの「黄金の海」をひまわりの畑と感じたい。(ソフィア・ローレンの出た「ひまわり」の畑を思い出している。)そのなかで、小川は、ある一輪が気になった。何万本あったとしても、その一本が特別に見えた。「これは、私だ」という感じで一本のひまわりが目に飛び込んできたということではないのだろうか。
こういうことは、雑踏を歩いていて「あ、あの人」と思う感じに似ている。ほかの人から見れば他の人とまったく区別がないただの女(男)なのだが、ふとその人が気になる。そういう感覚。
自分に似ている、と小川は一本のひまわりに感じる。その一本だけが「ただしいかたち」をしている。--それは、自分は正しいと言い聞かせること。何があったのかわからないが、小川はいま自分は正しいと言い聞かせている。
その「ただしさ」をいとおしむように、手を伸ばす。すると「ふるふるとした」。これは震えた? それとも何かの返答?
それではまるで
私のことでは
ないようなのだ。
これが、非常に気になる。こころに響いてくる。
「それでは」が気にかかる。「それでは」は、そんなふうに「ふるふる」とされては、という意味だろうか。何かしら、小さな「抗議」のようなものがある。この正しい形をしているひまわり、それを私は私だと思いたい。けれど、ひまわりは私を拒むように「ふるふるとした」。そんなふうにされたのでは「ただしい」はどこへ行ってしまうのか。私の「ただしい」はどこにあるのか。
でも、そういう「小さな抗議」をしたあと、小川は、その「ふるふる」から静かな答えを受けとっている。
ひとにまつわる痛みなど
ここではどうでもいいことだった。
人の世界、そのなかでの「ただしい」とか「ただしくない」とかは、どうでもいい。「ただしくない」と否定されるときの「痛み」などどうでもいい。そういうこととは関係なしに、たとえばひまわりは咲く。海は黄金に輝く。それが、ひまわり、海、つまり自然の「ただしさ」である。
これでは、答えにならないだろうか。
答えにならなくて、いい。
自分が納得できれば、それが「答え」であろうとなかろうと関係がない。
黄金色の海が
私の背中に
ざんぶと波を
押し寄せる。
それで私も
私の心も
いちだんとまた
ふるふるとした。
さっき「それでは」だったものが、ここでは「それで」にかわっている。「小さな抗議」は消えて、小川は一輪のひまわりになって「ふるふるとした。」ただ「ふるふるとした」のではなく「いちだんとまた」ふるふるとした。
この「いちだんとまた」は小川にしかわからない。つまり「流通言語」で書き換えることができないことばである。
もうこれ以上
光はいらない。
私はじゅうぶん透明であり
じゅうぶん
価値が
失われていた。
ただひまわりだけが
ただしいかたちを
ただ
かたちだけをしている。
あたり一面
黄金色の海だ。
「じゅうぶん」ということばの切実さ。「価値が/失われていた。」というが、それは「他人」が基準とする「価値」であって、小川の基準とする価値ではない。だから、それが「じゅうぶん」に失われるというとこは、このとき、小川は純粋に「個人(孤独)」であるということ、孤立している、独立しているということを意味する。
ひまわりが人間の基準の「ただしい」とは無関係に「ただしい」ように、小川も他人とは無関係に「ただしい」。そひて、そのことを確認するときひまわりと小川は一体になる。「一輪のひまわり」になる。もし「ただしい」もいらない。ただ「ひまわり」という形になる。
その瞬間「ひまわり畑」は「黄金色の海」になる。
「一輪のひまわり」と「他の一万本のひまわり」は「ひまわり」ということばではくくれない。私(小川)と他の人々が「人間」ということばでくくれないように。
コールドスリープ | |
小川 三郎 | |
思潮社 |