詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

小川三郎「黄金色の海」

2014-05-08 09:41:50 | 詩(雑誌・同人誌)
小川三郎「黄金色の海」(「repure」18、2014年04月19日発行)

 小川三郎「黄金色の海」は何を書いているのだろう。「黄金色の海」というのは朝焼け、あるいは夕焼けの海か。あるいは真昼の輝き渡る海か。

あたり一面
黄金色の海だ。

そのなかにひまわりが
ただ一輪だけ
咲いている。

ひまわりだけが
ただしいかたちをしている。

手を伸ばして触れてみると
ひまわりは風に吹かれて
ふるふるとした。

それではまるで
私のことでは
ないようなのだ。

黄金色の海では
すべてが輝いている。

ひとにまつわる痛みなど
ここではどうでもいいことだった。

 「黄金の海」はひまわりの咲き誇る畑かとも思った。でもそうすると二連目が非論理的。一面のひまわりのなかに、「ただ一輪だけ/咲いている。」というのは奇妙な論理になる。黄金の海を背景にして、ひまわりが一輪咲いているのか。
 いや、二連目の表現が非論理的だとしても、私は、なおこの「黄金の海」をひまわりの畑と感じたい。(ソフィア・ローレンの出た「ひまわり」の畑を思い出している。)そのなかで、小川は、ある一輪が気になった。何万本あったとしても、その一本が特別に見えた。「これは、私だ」という感じで一本のひまわりが目に飛び込んできたということではないのだろうか。
 こういうことは、雑踏を歩いていて「あ、あの人」と思う感じに似ている。ほかの人から見れば他の人とまったく区別がないただの女(男)なのだが、ふとその人が気になる。そういう感覚。
 自分に似ている、と小川は一本のひまわりに感じる。その一本だけが「ただしいかたち」をしている。--それは、自分は正しいと言い聞かせること。何があったのかわからないが、小川はいま自分は正しいと言い聞かせている。
 その「ただしさ」をいとおしむように、手を伸ばす。すると「ふるふるとした」。これは震えた? それとも何かの返答?

それではまるで
私のことでは
ないようなのだ。

 これが、非常に気になる。こころに響いてくる。 
 「それでは」が気にかかる。「それでは」は、そんなふうに「ふるふる」とされては、という意味だろうか。何かしら、小さな「抗議」のようなものがある。この正しい形をしているひまわり、それを私は私だと思いたい。けれど、ひまわりは私を拒むように「ふるふるとした」。そんなふうにされたのでは「ただしい」はどこへ行ってしまうのか。私の「ただしい」はどこにあるのか。
 でも、そういう「小さな抗議」をしたあと、小川は、その「ふるふる」から静かな答えを受けとっている。

ひとにまつわる痛みなど
ここではどうでもいいことだった。

 人の世界、そのなかでの「ただしい」とか「ただしくない」とかは、どうでもいい。「ただしくない」と否定されるときの「痛み」などどうでもいい。そういうこととは関係なしに、たとえばひまわりは咲く。海は黄金に輝く。それが、ひまわり、海、つまり自然の「ただしさ」である。
 これでは、答えにならないだろうか。
 答えにならなくて、いい。
 自分が納得できれば、それが「答え」であろうとなかろうと関係がない。

黄金色の海が
私の背中に
ざんぶと波を
押し寄せる。

それで私も
私の心も
いちだんとまた
ふるふるとした。

 さっき「それでは」だったものが、ここでは「それで」にかわっている。「小さな抗議」は消えて、小川は一輪のひまわりになって「ふるふるとした。」ただ「ふるふるとした」のではなく「いちだんとまた」ふるふるとした。
 この「いちだんとまた」は小川にしかわからない。つまり「流通言語」で書き換えることができないことばである。

もうこれ以上
光はいらない。
私はじゅうぶん透明であり
じゅうぶん
価値が
失われていた。

ただひまわりだけが
ただしいかたちを

ただ
かたちだけをしている。

あたり一面
黄金色の海だ。

 「じゅうぶん」ということばの切実さ。「価値が/失われていた。」というが、それは「他人」が基準とする「価値」であって、小川の基準とする価値ではない。だから、それが「じゅうぶん」に失われるというとこは、このとき、小川は純粋に「個人(孤独)」であるということ、孤立している、独立しているということを意味する。
 ひまわりが人間の基準の「ただしい」とは無関係に「ただしい」ように、小川も他人とは無関係に「ただしい」。そひて、そのことを確認するときひまわりと小川は一体になる。「一輪のひまわり」になる。もし「ただしい」もいらない。ただ「ひまわり」という形になる。
 その瞬間「ひまわり畑」は「黄金色の海」になる。
 「一輪のひまわり」と「他の一万本のひまわり」は「ひまわり」ということばではくくれない。私(小川)と他の人々が「人間」ということばでくくれないように。


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小川 三郎
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(47)

2014-05-08 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(47)          

 「テオドトス」は中井久夫の注釈によれば、「アレクサンドリアに在住のギリシャ人弁論述教師でカエサルに敗れてアレクサンドリアに亡命してきたポンペイウスの殺害を市民に説いて実行させた(前四八年)。」しかし、

テオドトスが血塗れの皿に載せて
哀れなポンペイウスの首を
アレクサンドリアのきみに持ってくるのが潮の変わり目だ。

 と詩に書いてあるのは虚構だという。ポンペイウスの「首をカエサルに持っていった事実はない」という。カヴァフィスは事実と虚構をまぜて書いている。「しかし賢人はまさに起ころうとすることを認知する」には先人の文章を換骨奪胎してつかっていた。これも事実と虚構の結合である。
 このときカヴァフィスの書きたいのは何か。もちろん虚構である。ただ最初から虚構を書くのではなく、「事実」を利用して、ことばを動かす。これは虚構のことばを「事実」を借りて補強するということなのか。
 そうではなく、虚構の部分でつかっていることばへの偏愛があるのだ。あることばをつかいたい。その欲望を満たすためにカヴァフィスは「事実」を利用する。
 「血塗られた皿」の上の「首」。これは「サロメ」ではないか。そこには歪んだ愛がある。ただの憎しみから首を切るのではない。血と殺人への甘い誘惑、甘い官能がある。

きみの人生は散文的。規則で縛られ、身動きならぬ。
だからといってないと限らぬ、
今みたいなこと、恐ろしい目覚ましいことが。

 カヴァフィスは、詩へ誘惑しているのだ。カエサルを? そうではなく、読者を。人は誰かを殺し、その首を皿に載せて誰かに届けるということなどできない。でも、それができたら、官能はきっと震えるだろう。青ざめた生首ではなく、血塗られた生首。皿にあふれる血には顔が映っているだろう。それは恐ろしい光景だが、そして非日常的な光景だが、非日常だから詩なのだ。
 「恐ろしい目覚ましい」というふたつのことばの結合。切り離せない錯乱。「恐ろしく目覚ましい」ということばでは不可能な何か。
 そういうことを補強する--というよりも、鏡の朱泥となって浮かびあがらせるために、わざと「散文的」ということばを含む、散文ぽいことばを続けている。
 詩的ではないことばで、詩的なことばを挟むと、その挟まれたことばはよりあざやかになる。ひきずられて「潮の変わり目」というような常套句さえ、何か輝かしい比喩のことばに見えてくる。実際「潮の変わり目」というのは比喩のひとつではあるのだが、ふつうは無意識につかわれる比喩が、大事なことを知らせるための重要なことばとして屹立してくる比喩に生まれ変わっている。
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