詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ウッディ・アレン監督「ブルージャスミン」( ★★★★)

2014-05-15 10:28:42 | 映画
監督 ウッディ・アレン 出演 ケイト・ブランシェット、サリー・ホーキンス、アレック・ボールドウィン、ピーター・サースガード

 この映画の感想はとても書きにくい。理由は簡単である。ケイト・ブランシェットの演じている女が、とても嫌な女だからである。共感できない。主人公が男であれ、女であれ、それを見ながら「主人公になってみたい」という気持ちを起こさせるのが映画の基本。主人公に限らずほかの登場人物でもいいのだか、あ、いまの演技(行動)を真似してやってみたいと思った瞬間、その映画が楽しく、おもしろいものになる。
 ケイト・ブランシェット、やってみたい? 
 いやあ、こんな、誰からも好かれないような役を、よく引き受けたもんだなあ。「私、こんな人間じゃありません。どうして私がこんな役をやらなければいけないんですか?」と怒り出しそうなものだけれどなあ。まあ、そういう役を引き受けて演じきる--それが役者の醍醐味なのかもしれないけれど……。
 で。
 その「役者根性」丸出しで、役と格闘するケイト・ブランシェット。これは、まあ、すごい。こんな嫌な女(登場人物のなかで、ただひとり彼女だけが、嫌な人間を演じている)と簡単に思わせ、ぜんぜん同情を引き起こさないなんて、これは、とってもすごいことだ。
 そのなかで、特に引きつけられたのが、彼女が妹の紹介で、妹の恋人の友達といっしょにデートするところ。ブラインドデート(?)の一種だね。ケイト・ブランシェットは、あらわれた男にぜんぜん関心を示さない。こんな男とデートなんかするわけがない、と露骨に顔に「思い」が出ている。そのとき、いろんな話が出るのだけれど、げんなりして意識が上の空という段階のとき、例の男が「いま、宙を見つめていなかった?」とケイト・ブランシェットに言う。
 このときのケイト・ブランシェットの「宙を見つめる」演技がすごい。顔のアップではなくて、体の力がぬけた感じを全身(上半身)で演技しているのが少し映るだけなのだが、いやあああああ、
 「おいおい、ぼんやりしていないで演技しろよ」
 と叱りたくなるような、だらしない力のぬけ方なのだが、
 そうか、人間が「宙を見つめる」ときは、こんな感じかあ。言われるまで気がつかなかったなあ、という感じ。
 映画の中の登場人物の反応によって、主人公の姿が、それまで以上にくっきりしてくるというのは、すごいことだなあ。その「脇役」になって、その映画のなかにはいり込んでしまった気持ちになる。映画ではなく、現実の場で、嫌なケイト・ブランシェットを直に見ている感じ。
 同じようなシーンが随所にある。
 冒頭の飛行機の中のお喋り、空港に着いてからのお喋りも、実は、それ。話しかけられつづけていた女が困惑している。迎えにきた夫が「あれは、だれ?」と聞く。「知らないわ。聞いてもいないのにずーっと話しかけてくる。それも自分のことばっかり」。ね、そばにいて、ケイト・ブランシェットの自己中心的なお喋りを聞かされつづけた感じ、こんな嫌な女はたしかにいるな、と感じるでしょ?
 ケイト・ブランシェットが「理想の男」に出会うパーティ。その男が見つかる前、ひとりでぶつぶつ言っている。すると、近くにいた老人が「私に話しかけているのか」と聞く。ケイト・ブランシェットは自分の思いで頭の中がいっぱいで、まわりがまるで見えていない。そういう人間を、ちょっと離れた場所で覗き見している感じ。覗き見しながら「変な女、嫌な女」と見ている感じ。
 さらに、ラストシーン。やっと手に入れることができたと思った「理想の男」を取り逃がし、息子にも、妹にも見捨てられて……。シャワーを浴びて、すっぴんのまま、街をうろつく。ベンチにおばさんが座っている。そのとなりに腰かけ、ぶつぶつ、ぶつぶつ。おばさんが、そおーっと、気づかれないようにベンチを離れる。「この女、変だ。かかわりあいになると面倒。逃げよう……」そう思っていることが、台詞もなんにもないのだけれど、つたわってくる。このとき、私は、その「おばさん」になっている。「おばさん」の視線でケイト・ブランシェットを見ている。「おばさん」になることで、映画のなかに組み込まれている。

 この映画は、ふつうの映画と違って、主人公、あるいは魅力的な脇役になることで映画に吸い込まれるのではなく、なんでもないひと(ただの通りすがり?)になって映画の世界のなかにはいり込み、「わっ、嫌なおんな、面倒な女、近づかないようにしよう、気づかれないようにしよう、話しかけられないようにしよう」と思う映画。そして、「関わり合いにはなりたくないけれど、覗き見してやろう。こんな嫌な女がどんなふうに惨めになっていくか見届けて、やっぱりね」と言ってみたいという気持ちにさせる映画。とっても意地悪な映画なのだ。
 こんな映画を考えるウディ・アレンもウディ・アレンだけれど、その意図(?)を完璧に把握して、嫌な女を「これが私です」みたいにさらけだして見せるケイト・ブランシェットもケイト・ブランシェットだなあ。偉い! 
                       (2014年05月11日、KBCシネマ2)
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(54) 

2014-05-15 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(54)          

 「マグネシアの戦い」は、「マケドニア王フィリポス五世の独白である」と中井久夫が注釈で書いている。カヴァフィスは「他人の声」を聞き取り、自分の声として動かす。ほんとうにフィリポスが言ったかどうかは問題ではない。ある状況のとき、ひとはどんな声を出すか。そのことにカヴァフィスは関心がある。

テーブル一杯にバラを撒け! アンチオコス大王が
マグネシアで負けたからって、それがどうした?

あいつの精鋭陸軍全滅というが、少し話が大きくなってるだろ。
全部が全部ほんとってこたぁない。

とにかくそう望む。敵じゃあるけど同人種だもんな。
だが望むのは一回でいい。多すぎるくらいさ。

 「望む」ということばがある。ひとは、何かを望む。そして、それを声にする。その声にカヴァフィスは共鳴しているのだが、それはカヴァフィスにそういう経験があるからだ。戦争で負けた、という経験ではなく、何か取りかえしがつかなくなったときに「それがどうした?」と開き直った経験が。あるいは、そういう具合に開き直りたいと思った経験があるのだろう。
 戦争に負けた経験がなくても、「それがどうした?」といいたい気持ちは誰もが経験する。気持ち、本音--それが動けば、それでいい。「史実」は本心を動かすための「舞台装置」である。カヴァフィスは「史実」を書きたいのではなく、その瞬間に動いただろう「こころ」を書きたい。
 開き直りたい欲望。それから「全部が全部ほんとってこたぁない。」という欲望。
 日本語の場合、「欲望」ということばのなかには「望む」がある。「欲張って/望む」のか。いや、「欲(本能)」そのものが「望む」のだろう。
 中井の訳は、口語、俗語を取り入れている。口調をふんだんに生かしている。そうすることで、その「欲望」の生々しさを表現している。生々しいというのは、誰にでもわかるということ、自分でも経験し、思わず口にしたかもしれないことばであるということだ。本能が、口語のなかで共通なのだ。本能という共通語が、口語になっている。
 ほんとうは別なことをしなければいけないのかもしれない。しかし、義務としてしなければならないことではなく、義務を放り出して、ただ自分のためだけに時間をついやしたい。無駄なことをしたい。そして、ほんとうのことを忘れたい。--これは、本能を傷つけたくない。本能を無垢のままにしておきたいという「甘え」かもしれない。
 しかし、この「甘え」が美しい。自分を甘やかすことを知っているというのは、何か、俗人を超越している。俗人は心配性で、自分を甘やかすことを知らない。

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