寺岡良信『亀裂』(まろうど社、2014年03月25日発行)
寺岡良信『亀裂』の「亀」はもっと難しい漢字である。私のワープロでは表記できないので簡略字にした。この詩集は「歴史的仮名遣い」で書かれており、寺岡は漢字にもこだわりを持っていると思う。で、そのこだわりが、「亀裂」では次のように展開する。
私はかなりとまどってしまう。
私は、文字の表記は簡略字よりも昔ながらの漢字の方が美しいと思う。また歴史的仮名遣いは、動詞と名詞の関係が密接になるし、活用が正確にわかるのでとても優れた表記だと思う。寺岡は表記に関しては、正道を貫いていると思う。
私が不思議に思うのは、そういうふうに「歴史(文化)」というものをきちんと受け継いでいる人間に見える「いま」というものが、果たしてこんな世界なのか、ということである。私は、そこにとまどう。
「牛飼ひ」が登場するが、寺岡はほんとうに高原で、牛の放牧(たぶん)を見て、それか牛を飼育している人に出会ったのか。
詩は現実をそのまま書かなければならないというものではないけれど、どうも納得がいかない。
複雑な正字体の漢字をつかい、旧仮名遣いを書く人間が、秋の高原で牛を飼育している人に出会ったとき、簡単に(?)相手の瞳の奥をのぞくだろうか。牛の飼育者は、寺岡と正面切って向き合い、何か話すだろうか。瞳の奥をのぞく(そこに自分の姿を見る)ようになるには、ちょっと出会ったくらいではなかなかできない。かなりの時間がかかる。つまり、互いが互いの時間をある程度共有して、初めて可能なことである。
そのようになるまで(それまでの時間)、寺岡と牛の飼育者は、どんな具合にことばをかわしてきたのか。それが、私にはさっぱりわからない。長いといわなくても、あるていどの付き合い、対話(会話)の果てに、誰かの瞳の奥に自分の姿をまさぐるということが出てくると思うのだが、その「過去」がぜんぜん見えない。
これは、「動詞」が見えない、ということでもある。言い換えると、寺岡が、あるいは牛の飼育者が、どんなふうに動いているか見えないということである。旧仮名遣いの「動詞」では、他人との関係はどう違ってくるのか--それが見えないなら、旧仮名遣いにしても意味はないように思う。「動詞」の「活用」が、自分と他人との関係のなかに、どう反映しているか--それを書かないことには、旧仮名遣いで「動詞」を活用させる意味がないように思う。
他者との関係(旧仮名遣いの動詞活用)を、自分自身のことばの運動として取り込むことができず、ことばをもたない「動物」の方へ意識をずらして行ってしまってはいなだろうか。
2連目に、「白鳥」が簡単に登場してしまう(牛がどこかへ消えてしまう)のは、そのせいだろう。1連目も、「牛飼ひ(人)」ではなく、牛の瞳の奥に自分をみていたのではないか、という印象がする。
「いま/ここ」という現実があって、さらに「現実のもの」があって、そこからことばが動いていく。そのとき伝統的な漢字(表記)、仮名遣い(表記)が現実とぶつかり、そこに、いまの私たちが見落としていた「運動」の可能性を展開して見せるというよりも、なにやら昔風の表記にあうように、架空の風景を作り上げているように思える。
寺岡のことば(表記)が現実を遠ざけて、ことばのなかにある風景をひっぱりだしてきているようである。
そういうやり方がないとは言わない。
いわゆる「メタ詩」は、そういうものである。表記にあわせて、表記の中での世界を作り上げる。ことばがことばを呼び寄せ、ことばの時空間を作り上げる。
寺岡のことばは、そこまで展開するのか。どうも、そこまで徹底はしていない。たが、過去をなつかしがっている。正しい漢字、正しい仮名遣いなら、こんな「正しい風景(正しい美しさ)」を引き出すことができると言うだけのために書いているような気がする。その「正しい美しさ」が私の知らないものだったら、それはそれでおもしろいけれど、その美しさは「流通概念としての美しさ」にとどまっている。
「みづうみ」「白鳥」「悔い」「忘却」「漂ふ」。「流通抒情」の語彙がただ集められいてるだけという感じではないか。
1連目の「牛」は「白鳥」を経て「羊」になっている。夕日の赤い色と羊の白い色の対比、そこから血の赤が連想され、羊は「生贄の羊」にかわる。
ことばの「流通連想」に支配されすぎている。寺岡のことばというものがまったく見えない。伝統的な漢字も旧仮名遣いもの、寺岡のことばの肉体にはなりきれていない。寺岡自身の肉体を鍛え上げるという作用もしていない。
これでは、おもしろくない。
短い詩の場合は、肉体の動きをはじまる前におわってしまうから、違和感は少ない。
「遺棄」の全行。
最終行の「抜糸」にふいにあらわれる「肉体」感覚がおもしろい。「抜糸」は「名詞」だが、そこには「抜糸する」(糸を抜く)という「動詞」がしっかりとからみついている。切り口が塞がってしまったら、傷をふさいでいた糸はいらなくなり抜かれる。そのときの皮膚が感じる「疼き」に似た触覚。ひとつひとつことばにしていこうとするとかなり面倒くさいことが「抜糸」ということばのなかにある。その複雑なものを「やうに」という視覚的な「文字」がおおうように隠している。閉じ込めている。
ここは、効果的だなあ。
「抜糸のように」だと「抜糸」のもっている世界が熟考される前に「ように」という音に破られてしまって、「あ、今のは比喩だな」くらいの印象しか残らない。「抜糸」が見えない。「やうに」だから「抜糸」が「もの/こと」として、ゆっくり浮かび上がってくる。
これは、旧仮名遣いを書かない私の錯覚かもしれないけれど。
寺岡良信『亀裂』の「亀」はもっと難しい漢字である。私のワープロでは表記できないので簡略字にした。この詩集は「歴史的仮名遣い」で書かれており、寺岡は漢字にもこだわりを持っていると思う。で、そのこだわりが、「亀裂」では次のように展開する。
高原に秋がきた
牛飼ひの鳶色の瞳の奥に
私は私自身の姿をまさぐる
私は使ひふるされた甕
みづうみに悔いを曳きながら
忘却へ漂ふ白鳥よ
私はかなりとまどってしまう。
私は、文字の表記は簡略字よりも昔ながらの漢字の方が美しいと思う。また歴史的仮名遣いは、動詞と名詞の関係が密接になるし、活用が正確にわかるのでとても優れた表記だと思う。寺岡は表記に関しては、正道を貫いていると思う。
私が不思議に思うのは、そういうふうに「歴史(文化)」というものをきちんと受け継いでいる人間に見える「いま」というものが、果たしてこんな世界なのか、ということである。私は、そこにとまどう。
「牛飼ひ」が登場するが、寺岡はほんとうに高原で、牛の放牧(たぶん)を見て、それか牛を飼育している人に出会ったのか。
詩は現実をそのまま書かなければならないというものではないけれど、どうも納得がいかない。
複雑な正字体の漢字をつかい、旧仮名遣いを書く人間が、秋の高原で牛を飼育している人に出会ったとき、簡単に(?)相手の瞳の奥をのぞくだろうか。牛の飼育者は、寺岡と正面切って向き合い、何か話すだろうか。瞳の奥をのぞく(そこに自分の姿を見る)ようになるには、ちょっと出会ったくらいではなかなかできない。かなりの時間がかかる。つまり、互いが互いの時間をある程度共有して、初めて可能なことである。
そのようになるまで(それまでの時間)、寺岡と牛の飼育者は、どんな具合にことばをかわしてきたのか。それが、私にはさっぱりわからない。長いといわなくても、あるていどの付き合い、対話(会話)の果てに、誰かの瞳の奥に自分の姿をまさぐるということが出てくると思うのだが、その「過去」がぜんぜん見えない。
これは、「動詞」が見えない、ということでもある。言い換えると、寺岡が、あるいは牛の飼育者が、どんなふうに動いているか見えないということである。旧仮名遣いの「動詞」では、他人との関係はどう違ってくるのか--それが見えないなら、旧仮名遣いにしても意味はないように思う。「動詞」の「活用」が、自分と他人との関係のなかに、どう反映しているか--それを書かないことには、旧仮名遣いで「動詞」を活用させる意味がないように思う。
他者との関係(旧仮名遣いの動詞活用)を、自分自身のことばの運動として取り込むことができず、ことばをもたない「動物」の方へ意識をずらして行ってしまってはいなだろうか。
2連目に、「白鳥」が簡単に登場してしまう(牛がどこかへ消えてしまう)のは、そのせいだろう。1連目も、「牛飼ひ(人)」ではなく、牛の瞳の奥に自分をみていたのではないか、という印象がする。
「いま/ここ」という現実があって、さらに「現実のもの」があって、そこからことばが動いていく。そのとき伝統的な漢字(表記)、仮名遣い(表記)が現実とぶつかり、そこに、いまの私たちが見落としていた「運動」の可能性を展開して見せるというよりも、なにやら昔風の表記にあうように、架空の風景を作り上げているように思える。
寺岡のことば(表記)が現実を遠ざけて、ことばのなかにある風景をひっぱりだしてきているようである。
そういうやり方がないとは言わない。
いわゆる「メタ詩」は、そういうものである。表記にあわせて、表記の中での世界を作り上げる。ことばがことばを呼び寄せ、ことばの時空間を作り上げる。
寺岡のことばは、そこまで展開するのか。どうも、そこまで徹底はしていない。たが、過去をなつかしがっている。正しい漢字、正しい仮名遣いなら、こんな「正しい風景(正しい美しさ)」を引き出すことができると言うだけのために書いているような気がする。その「正しい美しさ」が私の知らないものだったら、それはそれでおもしろいけれど、その美しさは「流通概念としての美しさ」にとどまっている。
「みづうみ」「白鳥」「悔い」「忘却」「漂ふ」。「流通抒情」の語彙がただ集められいてるだけという感じではないか。
空が流れ
落日が火刑の生贄に
従順な羊たちをつらねた
記憶の破片を
危ふく繋ぎとめてゐるのも
私に刻まれた
幾筋もの亀裂だ
1連目の「牛」は「白鳥」を経て「羊」になっている。夕日の赤い色と羊の白い色の対比、そこから血の赤が連想され、羊は「生贄の羊」にかわる。
ことばの「流通連想」に支配されすぎている。寺岡のことばというものがまったく見えない。伝統的な漢字も旧仮名遣いもの、寺岡のことばの肉体にはなりきれていない。寺岡自身の肉体を鍛え上げるという作用もしていない。
これでは、おもしろくない。
短い詩の場合は、肉体の動きをはじまる前におわってしまうから、違和感は少ない。
「遺棄」の全行。
海は巨きな沈黙の手でわたしを置き去りにした
時が絶え果てる蒼い崖に
石となつた巻貝のこころにも疼く
官能のかそけさ-
忘れられた抜糸のやうに
最終行の「抜糸」にふいにあらわれる「肉体」感覚がおもしろい。「抜糸」は「名詞」だが、そこには「抜糸する」(糸を抜く)という「動詞」がしっかりとからみついている。切り口が塞がってしまったら、傷をふさいでいた糸はいらなくなり抜かれる。そのときの皮膚が感じる「疼き」に似た触覚。ひとつひとつことばにしていこうとするとかなり面倒くさいことが「抜糸」ということばのなかにある。その複雑なものを「やうに」という視覚的な「文字」がおおうように隠している。閉じ込めている。
ここは、効果的だなあ。
「抜糸のように」だと「抜糸」のもっている世界が熟考される前に「ように」という音に破られてしまって、「あ、今のは比喩だな」くらいの印象しか残らない。「抜糸」が見えない。「やうに」だから「抜糸」が「もの/こと」として、ゆっくり浮かび上がってくる。
これは、旧仮名遣いを書かない私の錯覚かもしれないけれど。
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谷内 修三 | |
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