詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

樋口武二『異譚集Ⅱ』

2014-05-18 11:02:27 | 詩集
樋口武二『異譚集Ⅱ』(「詩的現代叢書」4)(書肆山住、2014年05月05日)

 樋口武二『異譚集Ⅱ』の「石を投げる」という作品は、樋口の意識のなかでどんな位置を占めているのかわからないが、「譚」になるまえの一瞬が描かれていて、私は、気に入っている。

誰かが
裏の河原で
石を投げている

ゆうぐれの
薄暗がりの風景のなかで
向こう岸にむかって
力一杯に
誰かが
石を投げている

投げても
投げても
石は届かない
それでも
投げやすい石をさがし
思い切り力を入れて
投げつづけている

そんな姿をみていると
私も外に出て
一緒に投げてみたくなる
向こう岸にむかって
届かなかもしれない石を
力一杯に
投げてみたいのだ
夜あけまで

 3連目の「投げやすい石をさがして」の「投げやすい」が、なんとも不思議で、そこにふっつまずき、すいと引き込まれた。
 石を投げているのは「誰か」であって「私(樋口)」ではない。その誰かが向こう岸へ石を投げるのだが、その石が投げやすいかどうか、どうして樋口にわかるのか。ほんとうに「投げやすい」石をさがしたのか。「投げやすい」と感じるのは大きさゆえなのか。重さゆえなのか。--それが「わかる」のは投げている「誰か」だけであって、樋口ではない。樋口にとって「投げやすい」石であっても、誰かにとって「投げやすい」とは限らない。それなのに、樋口は「投げやすい」ということばをつかっている。
 で、そういうことが気になって、ふっと「つまずいた」感じになるのだが、すぐに、すいと「吸い込まれていく」。
 「投げやすい」ということばをつかった瞬間、樋口は「誰か」になってしまっている。あるいは樋口が「誰か」になってしまった瞬間「投げやすい」ということばが肉体のなかからあらわれてきた。--どっちが先か、というのは、わからない。きっと「同時」にそういうことは起きたのだと思うが、この「私(樋口)」と「誰か」が突然「一体」になってしまう感じが、とてもいいと思った。
 難しいことばではなく「投げやすい」という簡単なことばのなかで、まったく違う人間が一瞬のうちに重なり、「ひとり」になる。
 こういうことが起きるのは、石には「投げやすい」石と「投げにくい」石があることを樋口は(あるいは私たちは、といった方がいいのかもしれない)おぼえていて、他人(誰か)のことなのに、自分の「肉体」で「他人」の思い(感覚/感情/精神)をわかってしまうからだ。
 これは道に誰かがうずくまっていて、腹を抱えて唸っているのを見ると、「あ、この人は腹が痛いのだ」とわかるのに似ている。自分の痛みでもないのに、その人が「腹が痛い」といったのでもないのに「腹が痛い」とわかる。そのわかるは、もしかすると実は腹ではなく心筋梗塞で苦しんでいるのを誤解しているかもしれないけれど、そういう「間違い」を超越して「わかる」ということ。自分の「肉体」のなかに、何か、自分が体験しておぼえていることがあって、それが蘇ってきて、自分の「感覚(こころ/ことば)」になってあらわれるということ。
 こういうことは、あるときは「共感」というような表現で呼ばれるのだけれど。
 こういう「共感(自他の混同)」が起きるということは、私は、とてもおもしろいことだと感じている。
 で、詩にもどると。
 そんなふうにして「投げやすい」ということばのなかで「誰か」と「樋口」が重なって「ひとり」になってしまうと、自然に、

そんな姿をみていると
私も外に出て
一緒に投げてみたくなる

 と、思うのでである。
 3連目に「投げやすい」ということばがなかったら、きっと4連目はぎくしゃくする。なんとなく、しっくりこない。3連目の「投げやすい」が、「誰か」というまったく知らない人をとても身近な存在に変える。
 「投げやすい」という「肉体」をとおったことばで「誰か」と「一体」になったために、「私」は「誰か」の思いを正確につかみとる。なぜ、向こう岸に石を投げているかが、「わかる」。

届かなかもしれない石を
力一杯に
投げてみたいのだ
夜あけまで

 届かなくてもいいのだ。「力一杯」に投げること、肉体を動かすこと、動かしつづけること--そうしないではいられない何か、ことばにならない何かをしてみたいのだ。



 この作品の「誰か」(あるいは巻頭の「創世記」の握り拳をみている「人」)が「誰か」ではなく「少年」とか「男」になってことばが動くと、それは「譚」になろうとして、ことばを統一しはじめるが--うーん、そうなると、ことばが窮屈になる。「物語」の論理が優先し、自他の感覚(肉体)の融合が仕組まれてしまうので、私は、おもしろみを感じることができなくなってしまう。
 樋口のやりたいこととは違うかもしれないけれど、私は「譚」になる前の一瞬の方が詩の不思議に触れていると感じる。



異譚集―詩集 (詩的現代叢書)
樋口武二
書肆山住
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中井久夫訳カヴァフィスを読む(57)

2014-05-18 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(57)          

 「それらが生きて訪れてくれる時は」は、カヴァフィスが自分自身に向けて書いたことばである。

詩人よ、きみのエロス的な幻影を
取っておこうとしろよ。
いくら数が少なくてもいい。まだやれるか。やってみろよ。
そっと詩の行間に隠しておけよ。
残そうとしろよ、詩人よ、
生きてきみのこころを訪れるまぼろしを、
その時が夜であろうと、真昼のまぶしい陽ざかりであろうと--。

 二行目の「取っておこうとしろよ。」が少し曲折している。歪んだことば運びではないだろうか。ふつうは「取っておけよ。」と言ってしまいそうである。「おこうとしろよ」には何か「未来」というものが含まれている。いま、取っておくのではなく、そういう機会が未来に訪れた時は取っておけるように準備(こころがけ)しておけよ、と言っているように聞こえる。
 なぜ、こういう言い方をするのだろう。「いま」それがないからだ。
 「いま」詩的エロスがない。欠如している。そのことを自覚している--そう読んでみると、次の「まだやれるか。やってみろよ。」が肉体に生々しく跳ね返ってくる。まだやれるか、不安である。やってみろよ、とこころの奥底でもうひとりの自分がけしかけている。でも、やれなかったら? そういう不安は直接書いてはいないが、「まだやれるか。やってみろよ。」の間髪をおかないことばの掛け合いが、それを感じさせる。

 終わりから二行目の「生きてきみのこころを訪れるまぼろしを、」の「生きて」が、やはりことばとしてねじまがっていて、そこに不思議な何かがある。
 「きみのこころを訪れるまぼろしを、」なら自然に読めるが、わざわざ「生きて」書いているのはなぜか。多くの「まぼろし」が死んでしまったからなのか。たとえば、その「まぼろし」を恋人と考えるなら、恋人の多くが死んでしまったということはなかなか考えにくい。想像しにくい。「死んでしまった」のではなく、「去ってしまった」のだろう。だから、去るのではなく、いまからやってくる「未来の」恋人については、彼が完全に去ってしまわないようにしろよ、ということなのかもしれない。
 どんなふうに? 「行間に隠しておけよ。」ということばが教えてくれる。何もかもすべてを書くのではなく、あるものを行間に隠しておく。わからないようにしておく。生き延びさせておく。もし恋人が去ってしまっても、その隠しておいた幻影を呼び出し、そっと思い出のなかで出会うことができるように。行間から「生きて」動きだすように。
 行間は、読みたいひとだけが読む。読みたいものだけを読む。そのために、存在する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする