樋口武二『異譚集Ⅱ』(「詩的現代叢書」4)(書肆山住、2014年05月05日)
樋口武二『異譚集Ⅱ』の「石を投げる」という作品は、樋口の意識のなかでどんな位置を占めているのかわからないが、「譚」になるまえの一瞬が描かれていて、私は、気に入っている。
3連目の「投げやすい石をさがして」の「投げやすい」が、なんとも不思議で、そこにふっつまずき、すいと引き込まれた。
石を投げているのは「誰か」であって「私(樋口)」ではない。その誰かが向こう岸へ石を投げるのだが、その石が投げやすいかどうか、どうして樋口にわかるのか。ほんとうに「投げやすい」石をさがしたのか。「投げやすい」と感じるのは大きさゆえなのか。重さゆえなのか。--それが「わかる」のは投げている「誰か」だけであって、樋口ではない。樋口にとって「投げやすい」石であっても、誰かにとって「投げやすい」とは限らない。それなのに、樋口は「投げやすい」ということばをつかっている。
で、そういうことが気になって、ふっと「つまずいた」感じになるのだが、すぐに、すいと「吸い込まれていく」。
「投げやすい」ということばをつかった瞬間、樋口は「誰か」になってしまっている。あるいは樋口が「誰か」になってしまった瞬間「投げやすい」ということばが肉体のなかからあらわれてきた。--どっちが先か、というのは、わからない。きっと「同時」にそういうことは起きたのだと思うが、この「私(樋口)」と「誰か」が突然「一体」になってしまう感じが、とてもいいと思った。
難しいことばではなく「投げやすい」という簡単なことばのなかで、まったく違う人間が一瞬のうちに重なり、「ひとり」になる。
こういうことが起きるのは、石には「投げやすい」石と「投げにくい」石があることを樋口は(あるいは私たちは、といった方がいいのかもしれない)おぼえていて、他人(誰か)のことなのに、自分の「肉体」で「他人」の思い(感覚/感情/精神)をわかってしまうからだ。
これは道に誰かがうずくまっていて、腹を抱えて唸っているのを見ると、「あ、この人は腹が痛いのだ」とわかるのに似ている。自分の痛みでもないのに、その人が「腹が痛い」といったのでもないのに「腹が痛い」とわかる。そのわかるは、もしかすると実は腹ではなく心筋梗塞で苦しんでいるのを誤解しているかもしれないけれど、そういう「間違い」を超越して「わかる」ということ。自分の「肉体」のなかに、何か、自分が体験しておぼえていることがあって、それが蘇ってきて、自分の「感覚(こころ/ことば)」になってあらわれるということ。
こういうことは、あるときは「共感」というような表現で呼ばれるのだけれど。
こういう「共感(自他の混同)」が起きるということは、私は、とてもおもしろいことだと感じている。
で、詩にもどると。
そんなふうにして「投げやすい」ということばのなかで「誰か」と「樋口」が重なって「ひとり」になってしまうと、自然に、
と、思うのでである。
3連目に「投げやすい」ということばがなかったら、きっと4連目はぎくしゃくする。なんとなく、しっくりこない。3連目の「投げやすい」が、「誰か」というまったく知らない人をとても身近な存在に変える。
「投げやすい」という「肉体」をとおったことばで「誰か」と「一体」になったために、「私」は「誰か」の思いを正確につかみとる。なぜ、向こう岸に石を投げているかが、「わかる」。
届かなくてもいいのだ。「力一杯」に投げること、肉体を動かすこと、動かしつづけること--そうしないではいられない何か、ことばにならない何かをしてみたいのだ。
*
この作品の「誰か」(あるいは巻頭の「創世記」の握り拳をみている「人」)が「誰か」ではなく「少年」とか「男」になってことばが動くと、それは「譚」になろうとして、ことばを統一しはじめるが--うーん、そうなると、ことばが窮屈になる。「物語」の論理が優先し、自他の感覚(肉体)の融合が仕組まれてしまうので、私は、おもしろみを感じることができなくなってしまう。
樋口のやりたいこととは違うかもしれないけれど、私は「譚」になる前の一瞬の方が詩の不思議に触れていると感じる。
樋口武二『異譚集Ⅱ』の「石を投げる」という作品は、樋口の意識のなかでどんな位置を占めているのかわからないが、「譚」になるまえの一瞬が描かれていて、私は、気に入っている。
誰かが
裏の河原で
石を投げている
ゆうぐれの
薄暗がりの風景のなかで
向こう岸にむかって
力一杯に
誰かが
石を投げている
投げても
投げても
石は届かない
それでも
投げやすい石をさがし
思い切り力を入れて
投げつづけている
そんな姿をみていると
私も外に出て
一緒に投げてみたくなる
向こう岸にむかって
届かなかもしれない石を
力一杯に
投げてみたいのだ
夜あけまで
3連目の「投げやすい石をさがして」の「投げやすい」が、なんとも不思議で、そこにふっつまずき、すいと引き込まれた。
石を投げているのは「誰か」であって「私(樋口)」ではない。その誰かが向こう岸へ石を投げるのだが、その石が投げやすいかどうか、どうして樋口にわかるのか。ほんとうに「投げやすい」石をさがしたのか。「投げやすい」と感じるのは大きさゆえなのか。重さゆえなのか。--それが「わかる」のは投げている「誰か」だけであって、樋口ではない。樋口にとって「投げやすい」石であっても、誰かにとって「投げやすい」とは限らない。それなのに、樋口は「投げやすい」ということばをつかっている。
で、そういうことが気になって、ふっと「つまずいた」感じになるのだが、すぐに、すいと「吸い込まれていく」。
「投げやすい」ということばをつかった瞬間、樋口は「誰か」になってしまっている。あるいは樋口が「誰か」になってしまった瞬間「投げやすい」ということばが肉体のなかからあらわれてきた。--どっちが先か、というのは、わからない。きっと「同時」にそういうことは起きたのだと思うが、この「私(樋口)」と「誰か」が突然「一体」になってしまう感じが、とてもいいと思った。
難しいことばではなく「投げやすい」という簡単なことばのなかで、まったく違う人間が一瞬のうちに重なり、「ひとり」になる。
こういうことが起きるのは、石には「投げやすい」石と「投げにくい」石があることを樋口は(あるいは私たちは、といった方がいいのかもしれない)おぼえていて、他人(誰か)のことなのに、自分の「肉体」で「他人」の思い(感覚/感情/精神)をわかってしまうからだ。
これは道に誰かがうずくまっていて、腹を抱えて唸っているのを見ると、「あ、この人は腹が痛いのだ」とわかるのに似ている。自分の痛みでもないのに、その人が「腹が痛い」といったのでもないのに「腹が痛い」とわかる。そのわかるは、もしかすると実は腹ではなく心筋梗塞で苦しんでいるのを誤解しているかもしれないけれど、そういう「間違い」を超越して「わかる」ということ。自分の「肉体」のなかに、何か、自分が体験しておぼえていることがあって、それが蘇ってきて、自分の「感覚(こころ/ことば)」になってあらわれるということ。
こういうことは、あるときは「共感」というような表現で呼ばれるのだけれど。
こういう「共感(自他の混同)」が起きるということは、私は、とてもおもしろいことだと感じている。
で、詩にもどると。
そんなふうにして「投げやすい」ということばのなかで「誰か」と「樋口」が重なって「ひとり」になってしまうと、自然に、
そんな姿をみていると
私も外に出て
一緒に投げてみたくなる
と、思うのでである。
3連目に「投げやすい」ということばがなかったら、きっと4連目はぎくしゃくする。なんとなく、しっくりこない。3連目の「投げやすい」が、「誰か」というまったく知らない人をとても身近な存在に変える。
「投げやすい」という「肉体」をとおったことばで「誰か」と「一体」になったために、「私」は「誰か」の思いを正確につかみとる。なぜ、向こう岸に石を投げているかが、「わかる」。
届かなかもしれない石を
力一杯に
投げてみたいのだ
夜あけまで
届かなくてもいいのだ。「力一杯」に投げること、肉体を動かすこと、動かしつづけること--そうしないではいられない何か、ことばにならない何かをしてみたいのだ。
*
この作品の「誰か」(あるいは巻頭の「創世記」の握り拳をみている「人」)が「誰か」ではなく「少年」とか「男」になってことばが動くと、それは「譚」になろうとして、ことばを統一しはじめるが--うーん、そうなると、ことばが窮屈になる。「物語」の論理が優先し、自他の感覚(肉体)の融合が仕組まれてしまうので、私は、おもしろみを感じることができなくなってしまう。
樋口のやりたいこととは違うかもしれないけれど、私は「譚」になる前の一瞬の方が詩の不思議に触れていると感じる。
![]() | 異譚集―詩集 (詩的現代叢書) |
樋口武二 | |
書肆山住 |