中井久夫訳カヴァフィスを読む(70)
「イグナチオスの墓」。これも墓碑銘。
中井久夫は注釈で「修道院にはいると戒名するのは当時の習慣であった」と書いている。クレオンという人物が修道院に入り、イグナチオスと戒名した。そのイグナチオスが死んだのだが、まず「われ、(略)クレオンならず」と言わなければならないほど、クレオンは有名だったということだろう。
クレオンという名前は、表記の上では二回出てくるが、実際はそれ以上に出てきている。「その館……」で繰り返される「その」。「その」は「クレオンの」と同じ意味である。というよりも、逆に考えた方がいいかもしれない。「クレオンの館、クレオンの庭……」ではなく、「その館がクレオン、その庭がクレオン」という具合に主客が逆なくらいに館や庭や馬がすばらしい。そして、クレオンが修道院に入ってしまっても、そこにはクレオンがいつづけている。つまり、切り離せない存在、一体になっている。クレオンという名前を聞いて、「その庭」を思い浮かべるのか、「その庭」に行けばクレオンを思い浮かべるのか--その区別がないくらいになっている。
「その」の繰り返しによって、中井の訳は、そういう「事実」を強調している。中井の訳は、「その」を定冠詞以上に強く迫ってくるものにしている。たぶん、こういう「その」の繰り返しをふつうはしないからだろう。「その」の繰り返しによって、ことばの動きが詩に高まっているといえる。
この強烈な印象のクレオン像のあとに、静かなイグナチオスが登場する。
聖職について十月。その期間が短いから、何も言うべきことはなく、その結果、それ以前のクレオンのことが多く書かれてしまうのかもしれないが、これは墓碑銘としてはかなり、風変わりとはいえないだろうか。イグナチオスのことを尊重するなら、クレオンのことは書かなくてもいいのではないだろうか。
それを書いてしまうのは、書いた人がイグナチオスよりもクレオンの方をいとおしんでいるからだろう。大事に思っているからだろう。「われ、クレオンにならず」と始まっているが、書いた人は、「ここに眠るのはクレオンであって、それはアレクサンドリアのあのクレオンだ」と主張している。
人は死んで、それを見送った人のなかで生き続ける。その生き続ける人は、故人の意思とは関係なく、思い出す人の嗜好にあわせて生き続ける。この矛盾の中に詩がある。
「イグナチオスの墓」。これも墓碑銘。
われ、ここにてはかのアレクサンドリアに名高きクレオンならず、(なかなかに眼肥えたるアレクサンドリアびとの中にありても)その館、その庭、その馬、その戦車、その宝石と絹の衣によりて知られたるクレオンならず。
中井久夫は注釈で「修道院にはいると戒名するのは当時の習慣であった」と書いている。クレオンという人物が修道院に入り、イグナチオスと戒名した。そのイグナチオスが死んだのだが、まず「われ、(略)クレオンならず」と言わなければならないほど、クレオンは有名だったということだろう。
クレオンという名前は、表記の上では二回出てくるが、実際はそれ以上に出てきている。「その館……」で繰り返される「その」。「その」は「クレオンの」と同じ意味である。というよりも、逆に考えた方がいいかもしれない。「クレオンの館、クレオンの庭……」ではなく、「その館がクレオン、その庭がクレオン」という具合に主客が逆なくらいに館や庭や馬がすばらしい。そして、クレオンが修道院に入ってしまっても、そこにはクレオンがいつづけている。つまり、切り離せない存在、一体になっている。クレオンという名前を聞いて、「その庭」を思い浮かべるのか、「その庭」に行けばクレオンを思い浮かべるのか--その区別がないくらいになっている。
「その」の繰り返しによって、中井の訳は、そういう「事実」を強調している。中井の訳は、「その」を定冠詞以上に強く迫ってくるものにしている。たぶん、こういう「その」の繰り返しをふつうはしないからだろう。「その」の繰り返しによって、ことばの動きが詩に高まっているといえる。
この強烈な印象のクレオン像のあとに、静かなイグナチオスが登場する。
わが二十八年まさに消去さるべし。われはイグナチオス、読師、下から二位の聖職者。目覚めたるはいと遅きも、キリスト護りたもうて心安けく、十月がほどはこの道にありて幸せなりき。
聖職について十月。その期間が短いから、何も言うべきことはなく、その結果、それ以前のクレオンのことが多く書かれてしまうのかもしれないが、これは墓碑銘としてはかなり、風変わりとはいえないだろうか。イグナチオスのことを尊重するなら、クレオンのことは書かなくてもいいのではないだろうか。
それを書いてしまうのは、書いた人がイグナチオスよりもクレオンの方をいとおしんでいるからだろう。大事に思っているからだろう。「われ、クレオンにならず」と始まっているが、書いた人は、「ここに眠るのはクレオンであって、それはアレクサンドリアのあのクレオンだ」と主張している。
人は死んで、それを見送った人のなかで生き続ける。その生き続ける人は、故人の意思とは関係なく、思い出す人の嗜好にあわせて生き続ける。この矛盾の中に詩がある。