詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岡井隆「関口涼子さんへの、お答え」

2014-05-02 10:38:20 | 詩(雑誌・同人誌)
岡井隆「関口涼子さんへの、お答え」(共同詩「注解するもの、翻訳するもの」)(「現代詩手帖」2014年05月号)

岡井隆「関口涼子さんへの、お答え」は共同詩「注解するもの、翻訳するもの」のなかの一篇であり、なおかつ関口涼子の質問「岡井さんにとって、詩とは何なのでしょうか」に答える形で書かれたもの。でも、私はそういう経緯は気にせず、今回読んだことばについての感想を書く。

 岡井は、ここで歌人と詩人の違いについて書いている。その答えに入る部分から引用してみる。(かなり長い引用になるが……。)

 日記作家といふ言葉からよみがへるのだが、ジュール・ルナール(一八六四-一九一〇年)といふフランスの作家に『ルナール日記』(岸田國士訳)がある。かねてからわたしの愛読して来た日記文学だが、例へばその一八八七年九月十三日にはこんなことが書いてある。

「最も芸術的なのは、例へば小説の製作といふやうな、何か大きな、仕事に取りつくことではあるまい。さういふ仕事では、全精神は自ら選んだ集中的な主題の要求に従わねばなるまい。最も芸術的なのは、不意に現れる百の事物について、小刻みに書くこと、謂わば自分の思想を細かく引き裂くことであらう。さういふ風にすれば、少しも強いられるところがない。すべてがわざとらしくないもの、自然なものの魅力を帯びて来る。こちらから挑んだりはしない。待つてゐるのだ。」
 当時、二十三歳のルナール青年のいふやうに「自分の思想を細かく引き裂くこと」がうまくできるかはまた別の話だ。多くの歌人の書きものが平凡で、読むに耐へない結果になつてゐるやうに「不意に現れる百の事物について、小刻みに書くこと」によつて、尚、詩性を保つことは容易ではあるまい。しかし、歌人であるわたしは、それをして来た。
「詩とはなにか」「詩人であるとは、どういふことか」「書いてゐるものが詩の高さに達してゐるか」といつた、沢山の疑念を初めから封殺した上で書くのが、歌人の習性なのだつた。

 詩とは何かなんて考えない。それが「歌人の習性」と岡井は言いきっている。うーん、これはすごいと思った。「不意に現れる百の事物について、小刻みに書くこと」をしてきたと言い切っているのがすごいと思った。それが「歌人の習性」であるかどうか、私は短歌を書くというようなことはないので、自分から判断のしようがないのだが、でも、なるほどなあ、とも思う。
 「詩とは何か」を考えなくても、岡井には「短歌」というか、「和歌」がある。日本には「和歌」の伝統があり、それが「詩」なのだ。詩は何かということは考えなくていい。「詩は何か」を考えず、そこにある「短歌(和歌)」について小刻みに書く--これもまた伝統なのだ。作法といってもいい。身につけた和歌のしつけ。
 「和歌」の伝統から比べると「現代詩」ははじまったばかり。そこで「詩とは何か」を考えざるを得ないということなのだろう。

 でも。(私は、ここから脱線する。)
 私のきわめて個人的な思いなのだが、「詩とは何か」ということは他人に問いかけることなのだろうか。
 私は「これは詩だ」と思うことがあっても、何が詩かは考えない。そして、「これが詩だ」と思うとき、それは「現代詩」のことばとは限らない。短歌でも小説でも、私は、あることばの運動がいいなあと思ったら、それを「詩」と呼ぶことがある。
 まあ、こんなことは関係がないか。

 詩にもどる。(もどれるかどうか、よくわからないが。)
 長々と岡井のことばを引用したのは、しかも岡井自身のことばではなくルナールのことばをそのまま孫引きしたのは。
 「芸術的」であるかどうかわからないが、私は最近、何でもいいから思いついたことを、そのときそのとき書いていくしかないなあと思っているからである。あ、ルナールもそんなふうに思っていたのか、とふと思った。(私はルナールを読んだことがない。読んだことがないが、岡井の引用を読んで、共感したのだ。)
 私はまた「思想」を、何か積み上げていくもの、構築していくものではないと感じている。「全精神は自ら選んだ集中的な主題の要求に従」い、何かをつくりあげる。たとえば「意味」を。私は最近、そういう「意味」を「嘘」だと感じはじめている。むしろ「意味」を壊していく、自分で思想だと思っているものを次々に壊していくしかないなあと感じている。「思想を細かく引き裂く」というのはどういう「意味」なのかわからないが、私なら、わかっていると思っていることを少しずつ壊していくことと言うだろうなあ、と思った。「意味」を壊していって、残った何かで、そのときそのときに応じて動いていく。つくっていくではなく、自分が動いていく--ということばの動かし方しかないなあと感じている。
 「詩とは何か」という問題について言えば、「詩は何々である」という答えはない。「あ、これは詩だ」と感じたものに対して、どうしてそれを詩だと感じたのか、その「感じ」を「感じ」が生まれてきた場まで解きほぐしていく--ということをしたいなあ、と思っている。

 で、うまくつながらないのだが。
 岡井が関口に「答える」かわりに引用している詩があって、それがとてもおもしろい。こういうことばの動かし方を自分のものにしたい、と思う。真似したい。真似して、その先へいけたらどんなにおもしろいだろうと思う。

LLのうす茶のベストを妻は提げて
Lはありませんか LLぢやあ脇がすこし
たるむみたい
「もう一度着てみて!」
通路には大きな立て鏡にわたしの全身が映つてゐるが わたしの意識はベストではなくベストを提げた妻にばかり向いてゐて
(脚がだるい 坐りたい)
だけどこらへる
係の若い女人の意見を聞きながら どのみちその女人の笑顔なんか越えてゐるのだ
妻はLLを持ちながら(この人には)LがぴつたしとLを求めるがLはない

 妻の美意識(?)というか、岡井への思いというか、その思いと、岡井の気持ち(坐りたい)、店員の気持ちが交錯し、妻の気持ちがいちばん勝っている(現実を支配している)という感じ。この気持ちのぶつかりあいというか、すれ違いの感じ、「いま」という時間がその瞬間だけにある。
 これ、いいなあ、と思う。
 こういう感じをそのままつかみとって投げ出したもの、それが詩だなあ、と思う。
 この、いまここにあるものをつかみ取って投げ出す、というのは「意識の垂れ流し」(あったことをそのままだらだら書く)ということは簡単そうに見えるかもしれないが、難しい。意識を「垂れ流す」というようなことは誰にでもできることではない。だいたい、垂れ流すだけの「意識」というものがないといけないからね。
 で、実際に、それが「垂れ流され」てみると、うーん、垂れ流しじゃないね。何か揺るぎないものがある。そねの揺るぎないものというのは「文体」だ。
 そうか。私はいまさっきき、「感じをそのままつかみとって投げ出したもの、それが詩だ」と書いたのだが、それは間違い。ほんとうは、そんなふうに投げ出しても「垂れ流し」と感じさせない「文体」が詩なのだ。ないようではなく、ことばの運動、ことばの動かし方が詩なのだ。
 詩とは何か、詩とは文体である。
 これを「短歌(和歌)」に引きつけて言えば、五七五七七という「定型」が詩である。その「定型」を外れると短歌ではない。あるいは、その定型とことばの闘いが詩。
 だからこそ、これは個別の作品(短歌)について、一種ずつ(小刻みに)、何かを語るしかない。「五七五七七」は決まっていて、その決まりと向き合いながらそれでも動いていくことば、五七五七七でありながらその五七五七七を忘れさせることばの衝突。その衝突する力、衝突のさせ方。それが詩なのだ。

 「詩とは何か」という問いは「普遍的な答え」を求めていると思うけれど、私はその問題は「普遍」では答えられないと思う。
 何が詩であるかは、そのとき、そのとき、としかいいようがない。
 何が詩であるか、というより、何が詩になるか、ということかもしれない。そのとき、そのときで「なる」は変わってくる。

 今回の岡井の詩にしても、たまたま関口とのやりとりのなかで引用されているのでおもしろいとおもったのであって、ほかの場所で読んだらおもしろいと思わないかもしれない。おもしろいと思っても、そのおもしろさに対して動くことば--ここがおもしろいと指摘するときの細部は違ってくると思う。
 私は「正解」をひとつ探すよりも、あたっているような外れているようなぼんやりした感じのことを、その場その場でことばにしていけばいいと思っている。
ヘイ龍(ドラゴン)カム・ヒアといふ声がする(まつ暗だぜつていふ声が添ふ)―岡井隆詩歌集2009‐2012
岡井 隆
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(41)

2014-05-02 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(41)          

 「没入した」は、やはり男色の世界を描いている。

おのれを縛らなかった。完全に没入した、
快楽に、半ばは現実だが
半ばはわが脳裡のくるめきである快楽に。
きらびやかな夜に没入して
強い酒を飲んだ、
快楽の英雄のやり方で。

 「快楽」ということばが三回出てくるが、その「意味」は三回とも違う。
 最初の快楽は「現実」の方に属している。ひとが一般にいう快楽、肉体が感じる快楽である。
 次の快楽は肉体が感じる快楽というよりも脳裡が感じる快楽である。一種の幻想である。それはほんとうは快楽ではなく、苦悩かもしれない。苦悩かもしれないけれど、脳裡が快楽と判断しているもの。
 あるいは、能裡が妥協している快楽かもしれない。
 いや、そうではない。まだ手に入らない快楽を能裡が追い求めている。あるに違いないと信じている快楽である。肉体は快楽を感じている、けれど脳はもっと快楽があるはずだと信じてそれを追いかけている。
 この追い求めているという感じがなくならないと、ほんとうの快楽とは言えないかもしれない。「完全に没入した」とは言えないだろう。
 最後の快楽は「快楽の英雄」という形で書かれている。絶対的な快楽、理想としての快楽。彼は、それを真似る。ただし、快楽そのものをではない。それは真似られない。だから、せめて「快楽の英雄」の酒の飲み方を真似る。肉体でなぞる。
 この三回の快楽の繰り返しで、彼が実は快楽を手に入れていないこと、忘我、エクスタシーに達してはいないことがわかる。エクスタシーに達していれば、快楽を求めるとは書くはずがない。だから、「完全に没入した」と書いてはいるけれど、彼は没入などしていないのだ。没入できずに苦悩している。
 快楽ということばが三回出てくるが、それがどんな快楽なのか、肉体を刺戟することばが書かれていないのはそのためである。また肉体がいっさい出て来ないのもそのためである。そのとき眼は何を見たのか、耳は何を聞いたのか、手は何に触ったのか、声はどんなふうにのどを駆け抜けたのか。快楽という限りは、せめて、そういうことを書かないと快楽の描写にならない。
 カヴァフィスは、苦悩をまぎらわせるために、彼は「強い酒」を飲んでいる。求めている快楽のかわりに、酒の酔いのなかで、苦悩を忘れようとしている。「英雄」のふりをして、快楽を知っているふりをして。その「ふり」のなかに没入している。
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