詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高柳誠『月の裏側に住む』

2014-05-14 22:36:04 | 詩集
高柳誠『月の裏側に住む』(書肆山田、2014年04月30日発行)

 私は昔から苦手なことがある。語呂合わせ。よく歴史の年号をおぼえるのに、なんとかかんとか、○○年「×××」というもの。具体的な例を書こうと思ったが、何も思い出せない。だいたい○○年「×××」だけでもおぼえるのがいやなのに、なぜその前になんとかかんとかをおぼえなければならないのか。記憶にとってこんな不経済なことはない。それと似ているかもしれないが、同音異義のことば遊び、いわゆるだじゃれの類。これもぜんぜん思いつかない。私はきっと耳が悪いのだろう。(とんでもない音痴である。)
 で、高柳誠『月の裏側に住む』。これが、だじゃれと呼んでいいのか、語呂合わせと呼んでいいのか、よくわからないのだけれど--ワープロの誤変換のような「文字」が頻繁に出てくる。私は、もう、しょっぱなからつまずく。苦手だなあ。いやだなあ。感想が書けるかなあ……。
 「柔らかい梨」は、書き出しは、語呂合わせ(だじゃれ)の気配がないまま始まる。

柔らかい梨があるとする。いや、現に今、柔らかい梨がここにある。実際にあるれにかかわらず、「あるとする」という一種の仮定法で語ろうとするのは、むろんそのことに意味があるからだ。

 論理的にしつこい。あるいは、うるさい。でも、私は、こういう面倒くさい論理を追うというのはわりあいに好きである。考えなくてすむから。非論理的な文章は、飛躍やねじれのたびに、何がどうなっているのか読み返さないといけないけれど、論理的な文章ならそれを読み流せば、書いてある「意味」がわかる。さらに論理が論理でしかたどりつけないところまで進んでしまうと、何だか自分がとっても頭がよくなったような気分になり、うれししくなるから。それを考えたのは私ではないのだけれど、ことばを追うことで自分が考えたと錯覚できる。その錯覚の瞬間が好きなんだなあ。
 でも、この作品は、そういう具合には進まない。
 書き出しの「梨があるとする」のなかに存在する「なし」「ある」の対立から出発して、しばらくすると「意味がなくなってしまう」ということばが出てくる。「意味/なし」。それが、

柔らかい梨自身が存在の意味を失い、梨くずし的に崩壊していくのを私たちは見守るしかないのだ。

 という具合に、変化していく。「なしくずし」は「梨くずし」とは書かないけれど、「梨くずし」と書くことで、「意味/なし」を「無意味」を越えて「ナンセンス」(脱/意味)にしてしまう。こういうのが、私は、どうも好きになれない。
 また、高柳も、こういう語呂合わせが得意な詩人には、私には感じられない。それは「梨くずし」とすぐに書くのではなく、いったん「存在の意味を失い」と前置きしていることろにあらわれている。「論理」をていねいに書かないと気がすまないのだ。この文はもっと簡単に、「存在の意味を失い」を省略して、

柔らかい梨自身が梨くずし的に崩壊していくのを私たちは見守るしかないのだ。

 と書いた方が「語呂合わせ」の意味を読者に考えさせるからおもしろいのに、そういうことを高柳はできない。どうしても「梨くずし」の「意味」を「存在の意味を失い」という具合に説明しないと気がすまない。落ち着かない。
 私は「語呂合わせ」の類は苦手だが、こういう「論理の補強」をしないと気がすまない人間は「だじゃれ」に手を染めない方がいいだろうと思う。
 で、その「なし」が

本質の保持を梨とげる

行為に意味のある梨にかかわらず

身をもって実にかぶりつくなどまったくの梨にしてほしく、結局、やわらかい梨自体、洋梨と見なされてゴミ箱に放棄されるしかないのだ。

 となると、うーん、うるさいばっかりだなあ。
 こういう語呂合わせ(だじゃれ)遊びというのは平田俊子が得意だが、彼女は、「洋梨と見なされて」「ゴミ箱に放棄される」というような意味のくりかえしをしない。意味の透き間を残しておく。「洋梨=用なし(ゴミ箱に放棄される)」は「洋梨」と書いたところでおわっていることを知っている。
 語呂合わせ(だじゃれ)と散文的説明を組み合わせたところが高柳の「個性」なのかもしれないけれど、これは水と油のように、どうにもあわない。火に油のように、暴走していかない。
 詩はいつでも暴走しないとおもしろくない。
 詩は、ことばの暴走なのだ。

 不満をさらに。「濡れる裾」という作品の書き出し。

昨日の今日なのに、また裾が濡れた。それも、ずぶずぶにである。素人の裾が濡れるとこわい。栗とリスも濡れてしまうからである。

 「裾が濡れる」はエロチックである。「素人の裾」なら、なお、濡らしてみたい欲望をそそるだろう。けれど、それが「栗とリス」ということばで「クリトリス」をひっぱりだしてくると、あとは読む気がしなくなってしまう。「栗鳥巣」「庫裡鳥巣」「繰り鳥巣」などと言い換えてみても、単なる「迂回」(引き延ばし)に見えてしまう。「クリトリス」を出した段階で、この詩はエロチックを「流通概念」の枠にとじこめてしまった。
 これではつまらない。

 ところが。
 詩集のタイトルになっている「月の裏側に住む」。
 あ、これはおもしろい。

その男は、月の裏側に住んでいる。まさかその男にしたって、生まれたときから月の裏側に住んでいたはずはない。月の裏側に住むことになるような、どんな運のつきに男が襲われたかは知らない。

 「月」は空にある「月」。同じ音の「つき」。ひとつは「運がいい」というときの「つき」(つきがまわってきた)、さらにひとつは「運がなくなる(つきる)」というときの「つき(る)」がある。あるとき「つき」がまわってきても、あるときそれが「つきる」。ここには矛盾(?)のようなものがある。それがおもしろい。
 「どんな運のつきに男が襲われたかは知らない」を、高柳は「つき(運)がつきた」という意味でつかっているのだと思う。「襲われた」ということばが「悪いこと」を意味するから。
 でもね。
 信じられない「つき(運)」が突然やってきて(まるで、襲われたように感じる)、あまりにびっくりして「運」の「つき」と二重に言ってしまうことだってあるかもしれない。
 月の裏側に住むって、どっちだろう。悪いこと? いいこと? 「まさか男にしたって」という書き方からすると「悪いこと」になるかもしれないけれど、ひとは自分の好運を「悪いこと」のように言って一人占めすることだってあるからね。
 わからないね。
 このわからないことが、たぶん詩にとって大事なのだ。どっちに読んだって、読者の自由じゃないか、というのが楽しいのだ。

 この詩は「月の裏側に住む男」を書きながら、途中から、その男を観察(?)している「ぼく」が主役になる。そして、

つきが回ってくれば、

 月の裏側が見え、男の影が見えるのではと期待する。そして、それを待っている。毎日、男が「秘密の通信」をしてくるのを聞いている。

それは、ぼくに宛てられたものだというひそかな確信がある。

 あ、まるでギャンブルにのめりこんで、「あれがサインだ。今度こそ、自分につき(うん)が回ってきた」と思う感じだね。その感じこそ「運の尽き」かもしれないけれど、のめりこんでいるひとはぜったいにそう思わない。逆に

月の鼓動だけが夜空に響きわたる。そのとき、ぼくの心臓も、月にあわせて鼓動を打ち始めるのだ。

 これは「月」ではなく「つき(好運)」のことである。こんなふうに自分に都合よく世界(運)は動かないものだけれど、自分にだけはその「運(つき)」があると思うのがギャンブラーだ。

その男は毎夜、月の裏側からぼくに通信してくる。しかも、その内容は、日に日に過激になってくる。とてもぼく一人では抱えきれないような宇宙の神秘をつきつけられて、思わず、頭がビッグバンをおこしそうになる。そんなときは、ぼくも、月の裏側の神秘を未知の天体に向けて発信するのだ。

 キャリーオーバーで宝くじの賞金がどんどん膨れあがり、その額をみながら勝手に消費しきれない夢を見るような感じで、わくわくするなあ。
 いいなあ、この作品。

 で、振り返ってみるに。
 なぜ、この作品が成功しているのか。
 語呂合わせが「もの」と「もの」の同音異義だけではなく、そこに「こと」(動詞)が絡み合っているからだ。「梨」にも「洋梨(用なし/用がない)」という「用言」がからみあっていたけれど、その「ない」は用言の力があまり強くなかった。「ない」は動詞として動くよりも「状態」をあらわすことばで終わっていた。
 ことばあそびは、名詞と動詞を組み合わせるに限る。
 谷川俊太郎も「かっぱらっぱかっぱらった」と名詞「河童」「ラッパ」と動詞「かっぱらう」を組み合わせている。名詞と動詞が交錯すると、世界がいきいきする。名詞だけだと窮屈になるということだろう。


月の裏側に住む
高柳 誠
書肆山田
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(53)

2014-05-14 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(53)          

 「オロフェルネス」。中井久夫の注釈に「カッパドギア王アリアラテス四世の子」とある。四ドラクマの貨幣に描かれている。「美しい、優しい美貌」であった。カッパドギアに侵入したシリア軍によって王にされたが、カッパドギア人によって追放され、シリアに幽閉され、「ぶらぶら暮らしていたそうな。」

ところが、ある日、思いもよらぬ考えが
彼の完璧に怠惰な生活に侵入した。
自分も、母のアンティオスと
祖母の老ストラトニケを辿れば
シリアの王位に繋がると気づいた。
自分もセレウコス家といってよいんだ、と。
しばらく酒色を慎んで、
おっかなびっくり陰謀を始め、
何かしでかそうと案を立ててはみたが、
あわれ、失敗。それっきり。

 人生が波乱に富んでいた。その波乱を漢語(漢字熟語)と口語(俗語)を交錯させて中井は訳出している。この、ことばの乱調が波乱の人生を不思議な音楽にしている。
 「完璧に怠惰な生活」という表現の「完璧」と「怠惰」の結びつきは、手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いのように斬新だ。それだけで詩がある。カヴァフィス(あるいいは中井)は、それだけではなく「おっかなびっくり」と「陰謀」を結びつけることもしている。陰謀というものは周到に仕組むものだけれど、「おっかなびっくり」という陰謀にふさわしくないことばがついてまわるのは、その陰謀がひとの口にのぼったということだろう。もちろん失敗したあとでのことだが、人は「おっかなびっくり」ということばでオロフェルネスを自分たちに近い存在にしたのだ。それだけ、彼に、一種の親近感をおぼえたということだ。「あわれ、失敗、それっきり」も「歴史」を語ることばではなく、歴史からこぼれた庶民の感覚のあらわれである。
 市民が、「オロフェルネス王」を望んでいたかどうかではなく、そういう失敗をする人間に共感するという「本音」(主観)がくっきりと現れている。ある考えが「完璧な怠惰な生活に侵入した」という硬いことばとの対比で、その「主観」がいっそう際立つ。
 カヴァフィスは、どこかに消えてしまった歴史は捨てて、再び美貌にもどる。この男色という主観は、カヴァフィスの思想、肉体である。

四ドラクマ貨幣の像。
若い魅力はいまもかおる、
詩的な美は--。
このイオニアの少年の官能的な像は、
アリアラテスの子オロフェルネスだよ。
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