詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(64)

2014-05-25 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(64)          

 「宵闇」は恋人と別れたあとのことを書いている。「お互いの身体に与えあった喜びよ。」というような、いつもの「流通言語」の描写の一連目につづいて、

奔放だった日の残響。
あの日々から返って来るこだま。
わかちあった若い命の燃えた日のなごり。
もう一度手紙を手にとって、
宵闇の迫るまで繰り返し読んだ。

 二連目も最初の三行は一連目に似ている。「お互いの身体に与えあった喜びよ。」と「わかちあった若い命の燃えた日」は同じことを言い換えているに過ぎない。このまま、同じ調子がつづくのかと思ったら、「もう一度」から突然、精神的になる。
 手紙にどんな愛のことばが書いてあるのか。与え合った肉体の喜びのことが書いてあるのか。そうかもしれない。そうであっても、手紙は肉体的ではない。ことばなのだから。それなのに、なぜか、奇妙に肉体を刺戟して来る。なぜだろう。

手にとって

 「手」という具体的な肉体が出て来るからだ。手紙を手にとって読むというのは特にかわったことではない。「流通言語(流通表現/常套句)」である。だから、意識されることは少ない。しかし、もし「手にとって」がなかったら、どうだろう。「意味」は変わらない。けれど、印象ががらりと変わる。
 カヴァフィスは手紙を読んでいるだけではない。手紙に触れることで、去って行った恋人に触れている。手紙は恋人の肉体なのだ。それをしっかり「手にとって」、恋人の肉体のなかで動いていたことばを読んでいる。一度読めば「意味」はわかる。けれど「手紙」を読むのは「意味」を知るためではない。だから「繰り返す」。繰り返すと、そのたびに想いが増えて来る。感情が増えて、カヴァフィスから溢れだす。
 一連目には「幕引きもいささか慌ただしかったな。」というような、いつもの口語の響き(調子)が出て来るが、「手紙」以降は口語は消える。
 カヴァフィスは、ここでは珍しく「沈黙」を、「沈黙の声」を書いている。

それからこころ悲しくてバルコンに出た。
出て愛するこの市を見て、
通りや店の小さな動きを見て、
せめて思いを散じたかった。

 「沈黙の声」は街のこまごまとした「もの/こと」に所有される。それは、そしていつの日かカヴァフィスによって再び集められて、出会いのための「声」になるのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする