詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たなかあきみつ「(皿の、まっさらな色)」、青山かつ子「ウサギ」

2014-05-09 10:56:44 | 詩(雑誌・同人誌)
たなかあきみつ「(皿の、まっさらな色)」、青山かつ子「ウサギ」(「repure」18、2014年04月19日発行)

 きのう小川三郎「黄金色の海」の感想を書く前に、たなかあきみつ「(皿の、まっさらな色)」について書くつもりでいた。けれど「repure」を最後まで読んでしまったら、書きたい気持ちが小川の作品に移ってしまった。で、きょう、たなかの作品にもどってきたのだが。
 困ってしまった。
 何を書こうとしていたのか思い出せない。(書き込みメモがない。--のは、きのう、すぐに感想を書くつもりでいたので、何も残さなかったのだ。)
 小川の作品について書くことで、私の気持ちが変わってしまったのだ。
 頭の中に、何が残っているかなあ……。

皿の、まっさらな色
まっさらな空身よよもやヨーグルトの身空で
のどの影むやみに引っ掻くヌンチャクばりの筆触だ

 ここに書いてあるのは「しりとり」のようなことばあそび。「皿」「まっさら(皿)」というだじゃれ(?)からはじまり、「空身」「身空」というような奇妙なことばの動き、「引っ掻く(ひっかく)」「筆触(ひっしょく)」という脚韻、「よもや」「ヨーグルト」という頭韻--まあ、よりどりみどりの感じでことばが交錯する。
 私は、ある行が気に入って、その行について書きたかったのだが、どの行だったのか、読み返してもわからない。(空身--を、どう読めばいいのか、そのことも気になる。)

動力学的には未完の緑のに柔毛かあるいは緑のそれともミトンの手袋か

 この行の「み」の繰り返しだったのか、あるいは

空無のいわば銀屏風のように着地がゆらいで、破傷風の

 この行の「風」あるいは「ぶ/ふう」の揺らぎだったのか、

鶴のクルルィーによりかかればもっぱら細心にクールダウン

 この行の「クル(ー)」「クール」の音のいれかわり、だったのか。
 どうにも、わからなくなった。
 小川の「ふるふるとした」という奇妙な1行の音にすべてかき消されてしまった。なぜかき消されたかというと、「空身--を、どう読めばいいのか」ということをちょっと書いたが、たぶん、そのことと関係がある。
 たなかは「音」を利用してイメージを交錯させ、交錯させることで音が存在しなかったときにはなかった「出会い/融合」を書いているのだが、そのなかに読めない音があるので、私は、そこでつまずいているのだ。
 きのうは「読めない」ことが何かきっかけになって、詩の世界へ飛びこんで行くことができた。読める音と読めない音があって、その読めない部分(のどが反応しない/耳が反応しない部分)の空白を利用して、「いま/ここ」ではない「どこか」へ肉体ごとずれていく感じがしたのだ。
 それが、きょうは、その「空白」に邪魔されている。空白が「すきま」になりきれずに、向こう側をふさいでいる。



 青山かつ子「ウサギ」は無料の飼っているウサギのために千切りキャベツを貰って、電車に乗ると……。

目の前になつかしい顔
ウサギ獲りの名人だった向山のじいちゃんだ
麻袋の中で動いている
あれはウサギに違いない
ちかごろジビエという野生の獣の料理が流行っている
ほまち稼ぎにあちらからもどってきたのだ
家のウサギが気になって気づかれないうちに
あわてて次の駅で降りる

 うーん、連想の透き間が多い。(笑い)
 これじゃあ、わからんぞ、と言いたいのだけれど、変に「わかってしまう」。「あちら(あの世)」から「向山のじいちゃん」がウサギ狩りにこの世にもどってくるということはないけれど、ふと思い出したのだ。
 知らない誰かを見て、知っている誰かを思い出す--ということはよくあるかどうかはわからないが、まあ、あるな。かけ離れたものが、なぜか、結びつく。その瞬間、それは手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いではないけれど、ふっとこころがさわぐ。結びつきと、結びつかない「透き間」が交錯し、その「流通言語」にならないもののなかに、「肉体がおぼえていること」がふっと浮かび上がってくる。
 あ、この瞬間が、詩なのかも。
 で、この詩は、

急いで返ってあれやこれや話しているうちに
夫は返事もせず
「とんかつ屋のキャベツはうまかったがなぁー」
と 山盛りのキャベツを食べている
ウサギ小屋で

 あれっ、ウサギを飼っているというのは嘘? キャベツをただで貰うために言っただけなのかな?
 そうじゃないかもしれない。
 実際にウサギを飼っている。ウサギにキャベツをやっていると、キャベツを食べながら、夫が「「とんかつ屋のキャベツはうまかったがなぁー」と言ったことを思い出したのだ。夫はいない。向山のじいちゃんのように「あちら」にいる。(生きていたら、ごめんなさい。)「あちら」にいるけれど、ウサギがキャベツを食べるたびに、青山のもとへもどってくる。
 ウサギ小屋というのは、ほんとうのウサギのケージであるのだろうけれど、日本の小さな住宅を「ウサギ小屋」と呼んだ外国人もいるから、まあ、なつかしいマイホームでもある。いま暮らしているのに「なつかしい」というのは変かもしれないけれど、夫を思い出しなつかしいのだ。

 いまと過去、現実と思い出が、互いをひっかく。つながっていないようで、つながっていて、つながっているようで、不思議な隙間がある。その透き間から「なつかしい」が見える。
 青山は夫が好きだったんだなあ、ということが「なつかしい」感じで見えてくる。青山が見えてくる。
 何が書いてあるのかわからない(夫が生きているのか、亡くなったのかもわからない)のだけれど、そこに「青山がいる」ということが「わかる」。意味はわからないのに、青山がいるということが、わかってしまう。
 で、私はその青山を何度も見つめ直すために(覗き見してるみたいだけれど)、何度も読み直してしまうなあ、この詩を。

詩集 あかり売り
青山 かつ子
花神社



ピッツィカーレ―たなかあきみつ詩集
たなか あきみつ
ふらんす堂
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(48)

2014-05-09 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(48)          

 「カフェの扉にて」は美貌の若い男がカフェの扉を開けて入ってきた瞬間の、カフェのどよめきを書いている。

そばでざわめきが起こった。
カフェの扉のほうを見ると--、
見えた。何と美しい身体か。

 美の発見の瞬間、あるいはそれに先立ちというべきなのか、感覚の刺戟が「ざわめき」という聴覚からはじまっているのがカヴァフィスらしいと思う。聴覚は四方に開かれている。どの方向のものでも、それをそのままつかみとることができる。逆に言えば聴覚は、起きていることの「正体」が何かわからないままでも、何かをつかむ。「正体」がわからないから、視覚が聴覚のつかみとったものを追いかける。「見ると--、見えた。」という克明な瞬間の変化がいい。瞬間なのに、「見る」という動詞のなかに違いを導入せずにはいられないほどの「美しさ」がカヴァフィスを捉えたのだ。
 美しい身体「が」見えた、ではなく、「見えた」と自分の肉体に起きた変化を言ったあとで、感嘆文「何と美しい身体か」がやってくる。この倒置法のリズムもも生き生きしている。見えたものを「美しい」と言うまでに時間が必要だった。「何と」という余分(?)なことばも必要だった。「美しい」は即座にはことばにならないほど衝撃的だった。
 この衝撃を再現する中井久夫の訳が、ダイナミックで力強い。
 この美しさは「エロスが技巧の限りを尽くして作ったのではないか。」と驚いたあと、ことばは次のように動く。

エロスは、美しい肢体(てあし)を楽しく揃え、
すんなりと伸びた背丈の型をこね、
やさしいかんばせを整え、
さて、眉と眼と唇に指先を触れて
特別の触れ跡を残したのではないか。

 カヴァフィスは視力の詩人ではない。美貌の男を「見て」描写しているのではない。エロスそのものになって、美青年をつくりあげている。想像力ではなく、肉体で、手で、指で、その肌に触りながら形を整えている。
 見ることは触ることでもある。視線で触るだけではなく、カヴァフィスの場合、そのときほんとうに肉体の指が相手の肉体に触っている。視覚と触覚、眼と指が区別できずにつながっている。 美貌をつくりあげながら、カヴァフィスは、自分自身の指を(肉体を)、その男の肉体に刻印したいと欲望している。
 最初の三行の、短いことば、倒置法の断絶と飛躍に比べると、後半は、ことばが持続したままぐいぐいとつながっていく。それは指で男の肌をなぞりつづける欲望のように、はてなく、長く持続する。ことばが、そのまま肉体の動きになっている。
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