たなかあきみつ「(皿の、まっさらな色)」、青山かつ子「ウサギ」(「repure」18、2014年04月19日発行)
きのう小川三郎「黄金色の海」の感想を書く前に、たなかあきみつ「(皿の、まっさらな色)」について書くつもりでいた。けれど「repure」を最後まで読んでしまったら、書きたい気持ちが小川の作品に移ってしまった。で、きょう、たなかの作品にもどってきたのだが。
困ってしまった。
何を書こうとしていたのか思い出せない。(書き込みメモがない。--のは、きのう、すぐに感想を書くつもりでいたので、何も残さなかったのだ。)
小川の作品について書くことで、私の気持ちが変わってしまったのだ。
頭の中に、何が残っているかなあ……。
ここに書いてあるのは「しりとり」のようなことばあそび。「皿」「まっさら(皿)」というだじゃれ(?)からはじまり、「空身」「身空」というような奇妙なことばの動き、「引っ掻く(ひっかく)」「筆触(ひっしょく)」という脚韻、「よもや」「ヨーグルト」という頭韻--まあ、よりどりみどりの感じでことばが交錯する。
私は、ある行が気に入って、その行について書きたかったのだが、どの行だったのか、読み返してもわからない。(空身--を、どう読めばいいのか、そのことも気になる。)
この行の「み」の繰り返しだったのか、あるいは
この行の「風」あるいは「ぶ/ふう」の揺らぎだったのか、
この行の「クル(ー)」「クール」の音のいれかわり、だったのか。
どうにも、わからなくなった。
小川の「ふるふるとした」という奇妙な1行の音にすべてかき消されてしまった。なぜかき消されたかというと、「空身--を、どう読めばいいのか」ということをちょっと書いたが、たぶん、そのことと関係がある。
たなかは「音」を利用してイメージを交錯させ、交錯させることで音が存在しなかったときにはなかった「出会い/融合」を書いているのだが、そのなかに読めない音があるので、私は、そこでつまずいているのだ。
きのうは「読めない」ことが何かきっかけになって、詩の世界へ飛びこんで行くことができた。読める音と読めない音があって、その読めない部分(のどが反応しない/耳が反応しない部分)の空白を利用して、「いま/ここ」ではない「どこか」へ肉体ごとずれていく感じがしたのだ。
それが、きょうは、その「空白」に邪魔されている。空白が「すきま」になりきれずに、向こう側をふさいでいる。
*
青山かつ子「ウサギ」は無料の飼っているウサギのために千切りキャベツを貰って、電車に乗ると……。
うーん、連想の透き間が多い。(笑い)
これじゃあ、わからんぞ、と言いたいのだけれど、変に「わかってしまう」。「あちら(あの世)」から「向山のじいちゃん」がウサギ狩りにこの世にもどってくるということはないけれど、ふと思い出したのだ。
知らない誰かを見て、知っている誰かを思い出す--ということはよくあるかどうかはわからないが、まあ、あるな。かけ離れたものが、なぜか、結びつく。その瞬間、それは手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いではないけれど、ふっとこころがさわぐ。結びつきと、結びつかない「透き間」が交錯し、その「流通言語」にならないもののなかに、「肉体がおぼえていること」がふっと浮かび上がってくる。
あ、この瞬間が、詩なのかも。
で、この詩は、
あれっ、ウサギを飼っているというのは嘘? キャベツをただで貰うために言っただけなのかな?
そうじゃないかもしれない。
実際にウサギを飼っている。ウサギにキャベツをやっていると、キャベツを食べながら、夫が「「とんかつ屋のキャベツはうまかったがなぁー」と言ったことを思い出したのだ。夫はいない。向山のじいちゃんのように「あちら」にいる。(生きていたら、ごめんなさい。)「あちら」にいるけれど、ウサギがキャベツを食べるたびに、青山のもとへもどってくる。
ウサギ小屋というのは、ほんとうのウサギのケージであるのだろうけれど、日本の小さな住宅を「ウサギ小屋」と呼んだ外国人もいるから、まあ、なつかしいマイホームでもある。いま暮らしているのに「なつかしい」というのは変かもしれないけれど、夫を思い出しなつかしいのだ。
いまと過去、現実と思い出が、互いをひっかく。つながっていないようで、つながっていて、つながっているようで、不思議な隙間がある。その透き間から「なつかしい」が見える。
青山は夫が好きだったんだなあ、ということが「なつかしい」感じで見えてくる。青山が見えてくる。
何が書いてあるのかわからない(夫が生きているのか、亡くなったのかもわからない)のだけれど、そこに「青山がいる」ということが「わかる」。意味はわからないのに、青山がいるということが、わかってしまう。
で、私はその青山を何度も見つめ直すために(覗き見してるみたいだけれど)、何度も読み直してしまうなあ、この詩を。
きのう小川三郎「黄金色の海」の感想を書く前に、たなかあきみつ「(皿の、まっさらな色)」について書くつもりでいた。けれど「repure」を最後まで読んでしまったら、書きたい気持ちが小川の作品に移ってしまった。で、きょう、たなかの作品にもどってきたのだが。
困ってしまった。
何を書こうとしていたのか思い出せない。(書き込みメモがない。--のは、きのう、すぐに感想を書くつもりでいたので、何も残さなかったのだ。)
小川の作品について書くことで、私の気持ちが変わってしまったのだ。
頭の中に、何が残っているかなあ……。
皿の、まっさらな色
まっさらな空身よよもやヨーグルトの身空で
のどの影むやみに引っ掻くヌンチャクばりの筆触だ
ここに書いてあるのは「しりとり」のようなことばあそび。「皿」「まっさら(皿)」というだじゃれ(?)からはじまり、「空身」「身空」というような奇妙なことばの動き、「引っ掻く(ひっかく)」「筆触(ひっしょく)」という脚韻、「よもや」「ヨーグルト」という頭韻--まあ、よりどりみどりの感じでことばが交錯する。
私は、ある行が気に入って、その行について書きたかったのだが、どの行だったのか、読み返してもわからない。(空身--を、どう読めばいいのか、そのことも気になる。)
動力学的には未完の緑のに柔毛かあるいは緑のそれともミトンの手袋か
この行の「み」の繰り返しだったのか、あるいは
空無のいわば銀屏風のように着地がゆらいで、破傷風の
この行の「風」あるいは「ぶ/ふう」の揺らぎだったのか、
鶴のクルルィーによりかかればもっぱら細心にクールダウン
この行の「クル(ー)」「クール」の音のいれかわり、だったのか。
どうにも、わからなくなった。
小川の「ふるふるとした」という奇妙な1行の音にすべてかき消されてしまった。なぜかき消されたかというと、「空身--を、どう読めばいいのか」ということをちょっと書いたが、たぶん、そのことと関係がある。
たなかは「音」を利用してイメージを交錯させ、交錯させることで音が存在しなかったときにはなかった「出会い/融合」を書いているのだが、そのなかに読めない音があるので、私は、そこでつまずいているのだ。
きのうは「読めない」ことが何かきっかけになって、詩の世界へ飛びこんで行くことができた。読める音と読めない音があって、その読めない部分(のどが反応しない/耳が反応しない部分)の空白を利用して、「いま/ここ」ではない「どこか」へ肉体ごとずれていく感じがしたのだ。
それが、きょうは、その「空白」に邪魔されている。空白が「すきま」になりきれずに、向こう側をふさいでいる。
*
青山かつ子「ウサギ」は無料の飼っているウサギのために千切りキャベツを貰って、電車に乗ると……。
目の前になつかしい顔
ウサギ獲りの名人だった向山のじいちゃんだ
麻袋の中で動いている
あれはウサギに違いない
ちかごろジビエという野生の獣の料理が流行っている
ほまち稼ぎにあちらからもどってきたのだ
家のウサギが気になって気づかれないうちに
あわてて次の駅で降りる
うーん、連想の透き間が多い。(笑い)
これじゃあ、わからんぞ、と言いたいのだけれど、変に「わかってしまう」。「あちら(あの世)」から「向山のじいちゃん」がウサギ狩りにこの世にもどってくるということはないけれど、ふと思い出したのだ。
知らない誰かを見て、知っている誰かを思い出す--ということはよくあるかどうかはわからないが、まあ、あるな。かけ離れたものが、なぜか、結びつく。その瞬間、それは手術台の上のミシンとこうもり傘の出会いではないけれど、ふっとこころがさわぐ。結びつきと、結びつかない「透き間」が交錯し、その「流通言語」にならないもののなかに、「肉体がおぼえていること」がふっと浮かび上がってくる。
あ、この瞬間が、詩なのかも。
で、この詩は、
急いで返ってあれやこれや話しているうちに
夫は返事もせず
「とんかつ屋のキャベツはうまかったがなぁー」
と 山盛りのキャベツを食べている
ウサギ小屋で
あれっ、ウサギを飼っているというのは嘘? キャベツをただで貰うために言っただけなのかな?
そうじゃないかもしれない。
実際にウサギを飼っている。ウサギにキャベツをやっていると、キャベツを食べながら、夫が「「とんかつ屋のキャベツはうまかったがなぁー」と言ったことを思い出したのだ。夫はいない。向山のじいちゃんのように「あちら」にいる。(生きていたら、ごめんなさい。)「あちら」にいるけれど、ウサギがキャベツを食べるたびに、青山のもとへもどってくる。
ウサギ小屋というのは、ほんとうのウサギのケージであるのだろうけれど、日本の小さな住宅を「ウサギ小屋」と呼んだ外国人もいるから、まあ、なつかしいマイホームでもある。いま暮らしているのに「なつかしい」というのは変かもしれないけれど、夫を思い出しなつかしいのだ。
いまと過去、現実と思い出が、互いをひっかく。つながっていないようで、つながっていて、つながっているようで、不思議な隙間がある。その透き間から「なつかしい」が見える。
青山は夫が好きだったんだなあ、ということが「なつかしい」感じで見えてくる。青山が見えてくる。
何が書いてあるのかわからない(夫が生きているのか、亡くなったのかもわからない)のだけれど、そこに「青山がいる」ということが「わかる」。意味はわからないのに、青山がいるということが、わかってしまう。
で、私はその青山を何度も見つめ直すために(覗き見してるみたいだけれど)、何度も読み直してしまうなあ、この詩を。
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