詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三田洋「悲の舞」

2014-05-11 23:27:55 | 詩(雑誌・同人誌)
三田洋「悲の舞」(「この場所 ici」10、2014年04月25日発行)

 三田洋「悲の舞」は、音が美しく感じられる。繊細すぎるかもしれない。現代的ではないかもしれないが……。

悲は斜めうしろから
すくうのがよい

 音だけでなく、文字のバランス(漢字とひらがなの組み合わせ)もいいのかもしれない。私は音読はしないのだが、音読を誘われる感じがする。「悲しみ」ではなく「悲」と書くときに消える「しみ」がいいのかなあ。「しみ」と書いたが「しみ」ではなく、私の耳からは「しい」が消えていく。

悲(しい)の舞

 こういうことばの形、「形容詞(終止形)+の」という日本語はないから「悲(名詞?)+の」という形になっているのだと思うけれど、黙読するとき動く音は、三田には申し訳ないが、私の場合「ひのまい」という形をとらない。いや、「ひのまい」という音も存在するのだけれど、私は「悲(ひ)」ということばを単独ではつかった習慣がないので、「ひのまい」と意識では思うけれど、耳は「悲しいの舞」から「しい」が消えて、その緒とが消えることが影響して「かな」が「ひ」に変わっていくような……うまく言えないが、そこに「音の化学変化」のようなものを感じてしまう。
 その言いようのない「音の化学変化」と「斜めうしろから/すくうのがよい」の漢字とひらがなの組み合わせ、さらに音の組み合わせが、なんとなく気持ちがいい。美しいと感じる。

悲はすくえなかった小さな喉の
白すぎる紙の指で
呼吸をほどこすように
すくうのがよい

 「喉」という「肉体」が「指」よりも先に出てくるのも、「音」の感覚を刺戟する。「声」の感覚を刺戟する。「指」のあとに「呼吸」が出てきて、また「喉」にもどる感じが複雑だけれど、とても自然に感じる。
 三田はことばを「喉(音)」で書いている、「喉」が手を動かしている。目に働きかけているという印象がある。
 こういうことは「感覚の意見」であって、説明はしにくいのだが……。

 いろいろことばが動いて、最終連。

そのとき
悲はひかりの粒子にくるまれて
必然のつれあいのように
すくいのみちをめざしながら
秘奥の悲の舞を
ひそかに演じるのでしょうか
だれもいない開演前の舞台のように

 抽象的になりすぎて、少しつらい(?)のだけれど、音の交錯が軽やかで美しい。「ひ」は「ひ」か「り」の「り」ゅうしに、ひ「つ」ぜんの「つ」れあい、「ひ」おうの「ひ」のまい、複数の行にわたる「悲(ひ)」、「ひ」つぜん、「ひ」おう、「ひ」そかの、その「音」。
 三田の書こうとした「意味(内容)」は、私にはわからないけれど、この音へのこだわりが作品を支えている。美しくしていると思った。
仮面のうしろ
三田 洋
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(50)

2014-05-11 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(50)          

 「一夜」は数十年前の夜を思い出し、そのことを書いている。「数十年たった今、独り居の我が家で書いている私が/情熱でもう一度悪酔いしているではないか。」という最後の二行の、「悪酔い」という表現がとてもおもしろい。しかし、それ以上に、数十年前の記憶がおもしろい。「官能の唇の毒を知った」というような官能の描写よりも、その前に書かれたそっけない(?)描写がいい。

部屋は安っぽく薄汚かった。
曖昧宿の階上の隠れた小部屋だった。
窓から汚い路地が見えた。
労働者の声が立ち上って来た。
愉快そうにトランプをする声だった。

 愛とは不似合いな部屋。それは愛ではなく、欲望なのだ。つまり、カヴァフィスは自分のこころのことだけではなく、相手のこころのことも考えていない。愛は場所を選ぶかもしれないが、欲望は場所を選ばない。「安っぽい」「薄汚い」「汚い」ということばが交錯する。そういうものによって欲望は汚れなかった。欲望は、身の回りの汚れを押し退けてがむしゃらに動いている。
 その一方で、カヴァフィスの欲望とは無関係な「声」を聞いている。ここに「声」が登場するところがカヴァフィスの特徴である。カヴァフィスは窓からトランプをする労働者の姿を見ているのかもしれない。見ていなくて、声だけを聞いているのかもしれない。声を聞いて想像しているのかもしれない。どちらでもいいのだが、カヴァフィスは声を書かずにはいられない。彼の欲望とはまったく無関係の、そこにあった声を。
 それはカヴァフィスの欲望とは無関係であるがゆえに、カヴァフィスの欲望を輝かせる。それは、まわりにある「汚れ」を隠してしまう。労働者の声は、愉快な声である。欲望も、汚れも知らない。いや、そこがどんな場所であるということを知っているかもしれないが、いまは、無関係にトランプをして遊んでいる。その「断絶」が、その場所の汚れを洗い流していく。
 耳に入ってくる声、音の純粋さが、カヴァフィスを一瞬、純粋にする。
 その瞬間をこそ、カヴァフィスは忘れられない。

 カヴァフィスは、そのとき相手の肉体のことは書いていない。唇ということばは出てくるが、相手が何歳だったか、どんな体つきをしていたか書いていない。欲望にとっては、そういうことの方が大事だろうけれど、無視している。
 忘れてしまったのか。「唇の毒」「悪酔い」ということばから想像すると、忘れているとは思えない。けれど、それを書かない。
 カヴァフィの欲望とは無関係に存在した声が、あの一夜を特徴づけている。
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ドゥニ・ビルヌーブ監督「プリズナー」(★★★★)

2014-05-11 00:07:07 | 映画
監督 ドゥニ・ビルヌーブ 出演 ヒュー・ジャックマン、ジェイク・ギレンホール

 うーん、映像がしつこくて冷たい。
 雨が降っていて、フロントガラスを雨が流れる。当然、見える世界は限られていて、しかも不鮮明。私は車の運転をしないのでわからないのだが、こういうときの運転はどうするのだろう。目と耳できちんと状況を判断して運転するというより、それまで肉体で覚えてきたことに無意識に頼るのではないだろうか。知らない土地ではなく、なじみのある土地ならなおさら肉体の覚えていることに頼る。あと少し行ったら信号、そこを左折……とか。
 こういう肉体の記憶頼みというのは、いろんなところで行われる。そして、それはだいたい「当たっている」。これはすごいことなのか、恐ろしいことなのか。
 映画を見ている間、その「肉体の覚えていること(肉体の記憶)」の不気味さが、ずーと体に張り付いて、困った。なぜ、不気味かというと、肉体が何かを覚えるとき、それはあくまで個人的な感覚だからである。車の運転に戻っていうと、あと少しで信号と思う時、ある人はスタバを見て思い、ある人はアメリカスズカケをみて思うという具合に、目印が違うからである。で、その個人的感覚が延々とつづくと、しつこいなあ、と思う。自分になじみがない感覚だと、そのしつこさになじめず、あ、いやだな、この冷たい感じ――と私は感じてしまう。
 映画は子供を誘拐された男と刑事が、それぞれの「肉体の記憶(直感のように肉体にしみついてしまっている意識)」を手掛かりに事件に向き合う。個人的な直感を優先するので、同じ事件なのにぜんぜん協力しない。自分の主張の正しさ、自分の問題解決の方法の正しさに固執する。相手の主張は、「勝手にそうしたら」というと大げさだが、何かしらそういう感じがする。なぜ、自分のスタイルを尊重してくれないんだという怒りを含んだものが、つねに肉体のまわりににじみだしている。これが、不気味さと冷たさに拍車をかける。
 ヒュー・ジャックマンの暴走する父親の演技が評判だけれど、暴走する父親、自分で解決しようとする父親はアメリカ映画ではありふれたヒーロー。怖いのは、その暴走する父親のそばに刑事と親友がいて、刑事は刑事で一匹オオカミということ。強力し合わないということ。
 で、その父親は配管工(?)か何か仕事はよくわからなけれど、これがまた自分で何でもしてしまう派というのもこわい。自分の生活(自由)を自分の手で守っているものだから、他人なんか気にしない。自分の娘さえ救い出せれば、犯人とにらんだ男を平気で拷問してしまう。こんな日本人いないよなあ、と私はまた恐怖にとらわれる。
 刑事も刑事で、かつては少年院(?)に入っていた。前科を引き合いに出すのはよくないのだけれど、この場合、重要。ある程度、犯罪心理(加害者心理?)がわかる。それがジェイク・ギレンホールの強み。それで、これまでは事件を解決してきた。いわば、敏腕刑事になっている。その彼が、不良時代の名残のタトゥーを首筋にのぞかせている。でも、見える範囲を少なくさせるために、シャツのボタンを一番上まで止めている。ネクタイはしていないくせに。さらに妙に肥満体の体を、不格好な白いシャツで包み込む。この辺の過去の隠し方が、いやあ、気持ち悪いねえ。自分に閉じこもっている感じがする。
 二人に限らず、登場人物全員が、「個人」に閉じこもっている。何度も書くが、それが雨の日の車に乗って、見えにくい風景の中を動いている感じ。他人と接触しても、ほんの一部で接触している。これがアメリカの個人主義? 自由主義? フランスともイギリスとも違うね。だいたい誘拐が頻繁にあって、解決されていないというのが恐ろしい。無関心(自己中心主義、非干渉主義)と広い国土のせいかなあ……。
 というようなことを書いていると、私は、だんだんこの映画が好きになってくる。こんなしつこく冷たい質感の映画はアメリカには珍しい。とても貴重。ここにはファーストネームで呼べばみんな友達--などという感覚はまったくない。個人個人が自分のできる最大限のことをして協力しあえば不可能はないというような、明るい合理主義(民主主義?)はまったくない。こわい、こわい、こわいアメリカがあるばかり。
 ストーリーなんかは、映画には関係ないんだなあ。画面が伝える空気、人間の質感がスクリーンからあふれてくるのがいい映画だね。こんなアメリカ映画はないぞ。
 で、いやあな感じに敬意をこめて★4個。
                        (2014年05月07日、中洲大洋4)




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