詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

彦坂美喜子「小さい詩篇」

2014-05-21 10:37:16 | 詩(雑誌・同人誌)
彦坂美喜子「小さい詩篇」(「イリプスⅡnd」13、2014年05月20日発行)

 彦坂美喜子「小さい詩篇」の書き出し。

声もなく音もなく風もなく
いつも死は突然にやってきて
時間をうばう

 これは、書かれたことばを読むと「そうだなあ、そういうものだなあ」と思うが、いま思ったその「そういうもの」というのが明確なことばにならない。私の中の何が仁子かのことばに触れて動いたのか、その動きがどんなものなのか、自分でもよくわからない。
 私は死んだことがないから、死が私から時間を奪っていくかどうかわからない。また他人の死を見て、そのひとの「未来(これからの時間)」というのはもうないのだとわかるけれど、それは、どちらかというと「他人の時間」であって、自分の時間ではない。時間を奪われたという感じはならないだろうなあ。
 でも、死んでいった人がとても大切な人で、「ああ、もうその人と一緒にいる時間は、これから先にはないのだ」と思うと「奪われた」という感じがするなあ。そういうことを書こうとしているのかな?
 うーん、そうすると「いつも」が落ち着かない。大切な人が「いつも」なくなるくらい、彦坂には大切な人がたくさんいる?
 ごちゃごちゃと書いていると「揚げ足取り」をしているようで、奇妙な気持ちになってしまうが……。この書き出しの三行には、何か、私の知っていることと知らないことがごっちゃになって動いていて、とても気になるのだ。

それ以後の空白を埋めるすべなく無言を強いる
透明なガラス室におしこめた古い人形のように
真四角な柩は永遠を保障する

 つづく三行でも、何かよくわからない。このわからなさは「主語」と「述語」が不明確で、比喩もそれが比喩なのか、それとも比喩にみせかけた「現実」なのか、よくわからない。
 「無言を強いる」は「死」が「死者」に無言を強いる? わかるけれど、そう思うかなあ? 誰か大切な人が死ぬ。そのとき、「なぜ、もうひとこと、何か言ってくれないのか」と思うことはあっても、そう思うとき、死は彼(彼女)に「無言を強いている」というような客観的(?)な観察(?)は、ことばとして動かない。
 死の客観的事実を書いている? うーん。でも、死の客観的事実って、ある? 自分にとって関係があるひとの死ならば、どうしたって主観的事実の方が先に動く。つまり、いま書いたように「なぜ、もうひとこと言ってくれない」というようなことばは動くけれど、「死は無言を強いる」とはならない。
 あ、また揚げ足取り?
 そういうつもりはないのだけれど。
 さらに、そのあとの「古い人形のように」という直喩(比喩)の動きが微妙だなあ。死が柩の中の人物を「古い人形のように」してしまい、そのことによってその人が「永遠」になる、という意味かな? そうではなくて、「古い人形」が死の「永遠を保障する」と読むとどうなるのだろう。
 「古い人形」は「生きている」。生きているから「保障する」という能動的なことができる。
 論理的に考えると、そういうことはありえないのだけれど、何か、そう思いたい気持ちの動きがある。論理を逸脱して動いていくことば--それについていくことで、何か知らなかったものに出会えるような気がしてしかたがない。

 こういうことは、書きつづけてもしようがないなあ。
 飛躍してしまう。途中を端折ってしまおう。
 あれこれ、まとまりきらないことばに動かされながら詩を読んでいて、次の部分で私は「どきっ」とした。「あっ」と思った。

谷川のせせらぎはさらさらおんがく
海でおぼれるみずのあぶくにつつまれて
沈んでいった

 これは、雨の日の長靴の思い出を描写した部分だが、「谷川のせせらぎはさらさらおんがく」というノーテンキ(?)な明るさ、軽さと、「海でおぼれるみずのあぶくにつつまれて/沈んでいった」の「意味」の重さが不釣り合い(?)でひきつけられる。
 谷川のせせらぎは「さらさら」、書いていなけれど沈むあぶくは「ぶくぶく」かな? 音を付け加えると、その「さらさら」と「ぶくぶく」が流れと沈滞(滞留)、流動間と粘着感のぶつかりあいが、何か、「遊んでいる」感じがして、とても楽しい。

 死は楽しいことではない。
 そうかもしれない。けれど、死が楽しいものではなくても、死を語ることは「楽しい」。ことばが動くことは「楽しい」。長靴が川に流れ、それが流れ流れて海までたどりついて、海に沈んでゆく。それに合わせて、川の水も一緒に流れ、一緒に沈んでいく。沈んでしまって、川の水か海の水かわからなくなる--じゃなくて、海の水になってしまう。
 この、変な変化。
 そういうことが死そのもののようにも思えてくる。
 「死は突然にやってきて/時間をうばう」よりも、死の感覚(?)を刺戟する。死はそういうものか、と納得させられる。
 この変なことばの動きのあと、彦坂のことばは軽くさまざまな色の花畑の中へ動いていくが、それは天国の花園へことばが動いていくようで、何か、こころをうきうきさせるものがある。
 こういうことばの運動だけで死を描けばおもしろいのかも。
 前半の堅苦しいことばの動きは、ある意味で「流通言語」なので、そこに「借り物」が進入してきて、「主観」と「客観」がごちゃごちゃになってしまっている。それはそれで不思議な刺戟があるけれど。


詩を読む詩をつかむ
谷内 修三
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(60)

2014-05-21 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(60)          

 「オスネロの町にて」。オスネロは「メソポタミアにある小国」と中井久夫が注釈に書いている。その町で、

昨夜、そう、深夜、仲間のレモンがかつぎこまれた。
酒場の乱闘の怪我だった。
開け放った窓から月の光が射して、
寝台にねる美しい身体を明るませた。

 「酒場の乱闘」は、ただ酒場の乱闘と書かれるだけで、具体的には書かれていない。どうでもいいからである。書きたいのはレモンの身体の美しさ。美にはしばしば血が似合う。血が美を強調する。
 それを強調するように、月の光が射している。ただ射しているだけではなく「開け放った窓から」射している。窓が開け放たれることで、窓の外の広い世界、宇宙と身体の美が向き合う。レモンの美しさを宇宙と結びつけるために窓は開かれてある。月の光で傷を見るために窓を開いたのではない。
 さらに、「寝台にねる」がいい。「横たわる」ではなく「ねる」。ねるとき、人は夢を見る。レモンは現実を離れている。死んだというのではない。現実のわずらわしさを離れて、ひとり夢の世界にいる。だれも、レモンに傷を負わせた男も、もうレモンには手が届かない。
 その「身体を明るませた。」まるで、夢の世界の明るさがレモンの身体の奥から、おのずと発光してきているようだ。月の光が照らすのではなく、月の光が身体の奥の美しい輝きを表面に誘い出している。身体が明るむのである。
 身体の奥には、何があるのか。

月がその官能のかんばせを照らしたとき、
わしらの想いはおのずとプラトンのカルメデスに還ったな--。

 カルメデスはプラトンの伯父。ソクラテスは若いカルメデスの身体を完全であると語っている。その美しさを、つまり、ギリシャの奥に生きている美を「わしら」は思い出したというのだが、これはギリシャ人の血のつながりを思い出したということ。
 なぜギリシャの血を思い出したかというと、引用は前後するが、「月が--」の前に

ここのわしらは混血もいいとこ。
シリアのギリシャ移民にアルメニア、メディア。

 という行がある。混血だけれど、その源はギリシャにあると自覚している。その自覚があって、レモンの美しさが輝く。この二行は「起承転結」の「転」のような効果を上げている。「エンデュミオンの像を前にして」の「緋色の三段櫂船」のように。
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