詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

季村敏夫「色身」

2014-05-20 11:11:14 | 詩(雑誌・同人誌)
季村敏夫「色身」(「イリプスⅡnd」13、2014年05月20日発行)

 季村敏夫「色身」は前後に散文形式のことばがあり、真ん中に行分けの詩がある。その行分けの部分に、ふと、ひっぱられた。

川といっても石
石ころばかりの
浅瀬のひかり

さかまくものを畏れよ
地の上をおおう
うすいひかりのなかで

青い空気にひたされた
あきらかに限界を超えたふりそそぎ

風化花崗岩
同じかたち
同じ色
同じひびきは一度とてなく
一致は一瞬でしかない

 なぜ、ひかれたのだろう。
 水のない川。いや、水は少しはあるのだけれど、石が浮き立って目だつだけの、名前だけの川。川が水が流れるところという意味だとしてだが。
 そういう川を私も見たことかある。そして、石ばっかりと思ったことがある。
 それだけのことが、妙にくっきり思い浮かんだのである。
 石の間を水が流れている。石と接している部分、ちょっと水が変形する部分が「ひかり」になって反射してくる。
 ところによっては水が石の上をおおって、石の形にふくらみながら流れていくところがある。川の水は「水平」であるはずだが、その部分は凹凸があるなあ、あれも「さかまくもの」のひとつなのかなあ。
 そうかもしれないなあ。「浅瀬」か。そうか、あれが「浅瀬」か……。
 そのときの、見たものと思いの「リズム」が、この詩にあるのだろうか。なんの「無理」もなく、川が思い浮かぶ。
 そして、そのなんでもない川が、

さかまくものを畏れよ

 の「畏れよ」から、微妙に変わる。「畏れ」というのは、「定義」がむずかしいが、そのむずかしいことをとっぱらって、わかることを書くと……。「畏れ」というのは「風景」そのもの、「具体的なもの」ではない。川のなかの「石」や「水」そのものではない。何か、こころの動きに属する「こと」である。
 「さかまく」という水の運動にあわせて、こころのなかに何かが動く。その動きの「共鳴」のなかに「畏れ」がある
 それは季村の感覚では「地の上をおおう」もの、その「うすいひろがり」に、何か似たところがあるのだろう。それをさらに凝視すると、

青い空気にひたされた
あきらかに限界を超えたふりそそぎ

 が見える。「限界を超えた」何か。限界を超えているから「畏怖」を呼び起こす。「畏れ」なければならない。「限界を超えた」というのは、自分のできること(限界)を超えたということ、自分の力のおよばないということ。自分の力がおよばない(下回る)から、「おそれ」というものがうまれる。
 でも、この「畏れ」は限界を超えた「もの」に対してではなく、限界を超えた「こと」(運動)に対しての動き。

ふりそそぎ

 「ふりそそぎ」ということば自体は「名詞」だが、そこには「ふりそそぐ」という動詞がある。何かが限界を超えてふりそそいでいる。--ではなくて、「ふりそそぐ」ということ自体が限界を超えて「ふりそそぎ」ではなくなってしまっている。過剰な何かが「ふりそそぎ」を内部から、そのエネルギーで破壊している。
 それを季村は感じ取っている。感じ取って、それをことばにしているように思える。季村のことばを読むと、そういうものを感じ取った遠い肉体の記憶が蘇る。
 それは真昼のことが、あるいは真夜中の月の光のなかでのことか。季村の書いているのは、真昼だろうか。満月の夜のことだろうか。--わからないが、いずれにしろ、その「場」にある光が、もう光ではなくなっている。どこかからふりそそいでいるのだが、ふりそそぐをやめてしまって、その「場」のなかで、内部からあふれかえっている。

 私の書いていることは、いつものように、とんでもない「誤読」かもしれない。季村はそういうことは書いていないのかもしれない。けれど、私は、そういうことを感じてしまった。
 で、行分けの最後の部分。

風化花崗岩
同じかたち
同じ色
同じひびきは一度とてなく
一致は一瞬でしかない

 繰り返される「同じ」ということばのなかで、私のことばはまたまた暴走する。
 季村が書いていることと、私が読み取ったものは「同じ」か。
 「同じ」ことばが、ふたつを結びつけている。
 けれど、それはきっと「同じ」ではない。「同じもの(こと)」はどこにも存在しない。しかし、ことばが「同じ(一致)」ということが、「一瞬」だけ起きている。その「一瞬」から始まるビッグバンで、季村と私は、まったく別な方向へ飛び散っていくということかもしれない。

 詩なのだから、それでいいのかも。
 私は、ふいに、夜、会社の帰りに川まで行ってみようかな、と思っている。きょうは雨だから月の光はないか……。石が見える川も近くにはないのだけれど、「畏れ」が別の形で何かを動かしているかもしれない。
 自分を超える何か、「限界を超える」なにかに接して「畏れ」の「一瞬」と「一致」してみたい--そういう気持ちにさせられる。





日々の、すみか
季村 敏夫
書肆山田
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(59)

2014-05-20 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(59)          

 「エンデュミオンは人間の中でもっとも美しい若者。月の神セレナが恋をし、神は最高神ゼウスに願い、永遠にその姿で眠らせた。」と中井久夫は注釈に書いている。「エンジュミオンの像を前にして」はその像を見た「私」の感想を書いている。

これがエンデュミオンの像か。
世に知られたエンデュミオンの美しさよ。
私はみつめて驚くばかり。

 しかし、この三行からは具体的な美しさはわからない。どこかが、どのように美しかったのか。その具体的な描写がなければ、それは詩ではないのではないか。
 その具体的な描写をするかわりに、カヴァフィスは少し手の込んだことをしている。この三行の前に、像を見るために「私」はどんなふうにしてそこへやってきたかを書いている。その様子を具体的に書くことでエンデュミオンの美しさを語る。「私」がしてきた準備をはるかに上回る美しさがある。それはことばでは言えない。自分のしてきたことはことばになるが、エンデュミオンの美しさはことばにならない。

白いラバ四頭に銀の牽き具をつけ、
純白の戦車を駆って、
ミレトスの港からトモスに着いた、

 「白」の強調。それは「銀色」に輝く白である。そこに金属が含まれるから「戦車」の強さと直結する。「白いラバ」の白はほんとうの白ではないが、「銀」の白をへて「戦車」に結びつくことで、あらゆる白が「純白」へと昇華する。その豪華な運動。それを上回る美しさ。ただし、「白」は「喪の色」でもある。死ぬことによって完結し、完結することによって二度と失われることのなくなった美--それが強調される。

犠牲獣を焼き、酒を地に注ぐ儀式のために、
緋色の三段櫂船で
アレクサンドリアから海をわたってきた私--。

 その旅は、最初から「白」で統一されていたわけではない。出発のときは「緋色(生)」に満ちていた。「犠牲獣」も血の色、儀式に流されるのも血の赤。さらに緋色の豪華な「三段櫂船」。それは「私」が生きている証拠でもある。
 その生の緋色と、エンデュミオンの死の白が対照的に描かれている。
 旅の順序としてはアレクサンドリアからミレトスが船、ミレトスからトモスが陸になり、詩に書いてある順序と前後するが、これはあえて逆に書いてある。死(白)→生(緋)→像(死)と進むことで、間にはさまった生(緋)が死と像を逆に強調する。緋→白→死(像)では、美にであったときの不思議な混乱と躍動がなくなってしまう。




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