季村敏夫「色身」(「イリプスⅡnd」13、2014年05月20日発行)
季村敏夫「色身」は前後に散文形式のことばがあり、真ん中に行分けの詩がある。その行分けの部分に、ふと、ひっぱられた。
なぜ、ひかれたのだろう。
水のない川。いや、水は少しはあるのだけれど、石が浮き立って目だつだけの、名前だけの川。川が水が流れるところという意味だとしてだが。
そういう川を私も見たことかある。そして、石ばっかりと思ったことがある。
それだけのことが、妙にくっきり思い浮かんだのである。
石の間を水が流れている。石と接している部分、ちょっと水が変形する部分が「ひかり」になって反射してくる。
ところによっては水が石の上をおおって、石の形にふくらみながら流れていくところがある。川の水は「水平」であるはずだが、その部分は凹凸があるなあ、あれも「さかまくもの」のひとつなのかなあ。
そうかもしれないなあ。「浅瀬」か。そうか、あれが「浅瀬」か……。
そのときの、見たものと思いの「リズム」が、この詩にあるのだろうか。なんの「無理」もなく、川が思い浮かぶ。
そして、そのなんでもない川が、
の「畏れよ」から、微妙に変わる。「畏れ」というのは、「定義」がむずかしいが、そのむずかしいことをとっぱらって、わかることを書くと……。「畏れ」というのは「風景」そのもの、「具体的なもの」ではない。川のなかの「石」や「水」そのものではない。何か、こころの動きに属する「こと」である。
「さかまく」という水の運動にあわせて、こころのなかに何かが動く。その動きの「共鳴」のなかに「畏れ」がある
それは季村の感覚では「地の上をおおう」もの、その「うすいひろがり」に、何か似たところがあるのだろう。それをさらに凝視すると、
が見える。「限界を超えた」何か。限界を超えているから「畏怖」を呼び起こす。「畏れ」なければならない。「限界を超えた」というのは、自分のできること(限界)を超えたということ、自分の力のおよばないということ。自分の力がおよばない(下回る)から、「おそれ」というものがうまれる。
でも、この「畏れ」は限界を超えた「もの」に対してではなく、限界を超えた「こと」(運動)に対しての動き。
「ふりそそぎ」ということば自体は「名詞」だが、そこには「ふりそそぐ」という動詞がある。何かが限界を超えてふりそそいでいる。--ではなくて、「ふりそそぐ」ということ自体が限界を超えて「ふりそそぎ」ではなくなってしまっている。過剰な何かが「ふりそそぎ」を内部から、そのエネルギーで破壊している。
それを季村は感じ取っている。感じ取って、それをことばにしているように思える。季村のことばを読むと、そういうものを感じ取った遠い肉体の記憶が蘇る。
それは真昼のことが、あるいは真夜中の月の光のなかでのことか。季村の書いているのは、真昼だろうか。満月の夜のことだろうか。--わからないが、いずれにしろ、その「場」にある光が、もう光ではなくなっている。どこかからふりそそいでいるのだが、ふりそそぐをやめてしまって、その「場」のなかで、内部からあふれかえっている。
私の書いていることは、いつものように、とんでもない「誤読」かもしれない。季村はそういうことは書いていないのかもしれない。けれど、私は、そういうことを感じてしまった。
で、行分けの最後の部分。
繰り返される「同じ」ということばのなかで、私のことばはまたまた暴走する。
季村が書いていることと、私が読み取ったものは「同じ」か。
「同じ」ことばが、ふたつを結びつけている。
けれど、それはきっと「同じ」ではない。「同じもの(こと)」はどこにも存在しない。しかし、ことばが「同じ(一致)」ということが、「一瞬」だけ起きている。その「一瞬」から始まるビッグバンで、季村と私は、まったく別な方向へ飛び散っていくということかもしれない。
詩なのだから、それでいいのかも。
私は、ふいに、夜、会社の帰りに川まで行ってみようかな、と思っている。きょうは雨だから月の光はないか……。石が見える川も近くにはないのだけれど、「畏れ」が別の形で何かを動かしているかもしれない。
自分を超える何か、「限界を超える」なにかに接して「畏れ」の「一瞬」と「一致」してみたい--そういう気持ちにさせられる。
季村敏夫「色身」は前後に散文形式のことばがあり、真ん中に行分けの詩がある。その行分けの部分に、ふと、ひっぱられた。
川といっても石
石ころばかりの
浅瀬のひかり
さかまくものを畏れよ
地の上をおおう
うすいひかりのなかで
青い空気にひたされた
あきらかに限界を超えたふりそそぎ
風化花崗岩
同じかたち
同じ色
同じひびきは一度とてなく
一致は一瞬でしかない
なぜ、ひかれたのだろう。
水のない川。いや、水は少しはあるのだけれど、石が浮き立って目だつだけの、名前だけの川。川が水が流れるところという意味だとしてだが。
そういう川を私も見たことかある。そして、石ばっかりと思ったことがある。
それだけのことが、妙にくっきり思い浮かんだのである。
石の間を水が流れている。石と接している部分、ちょっと水が変形する部分が「ひかり」になって反射してくる。
ところによっては水が石の上をおおって、石の形にふくらみながら流れていくところがある。川の水は「水平」であるはずだが、その部分は凹凸があるなあ、あれも「さかまくもの」のひとつなのかなあ。
そうかもしれないなあ。「浅瀬」か。そうか、あれが「浅瀬」か……。
そのときの、見たものと思いの「リズム」が、この詩にあるのだろうか。なんの「無理」もなく、川が思い浮かぶ。
そして、そのなんでもない川が、
さかまくものを畏れよ
の「畏れよ」から、微妙に変わる。「畏れ」というのは、「定義」がむずかしいが、そのむずかしいことをとっぱらって、わかることを書くと……。「畏れ」というのは「風景」そのもの、「具体的なもの」ではない。川のなかの「石」や「水」そのものではない。何か、こころの動きに属する「こと」である。
「さかまく」という水の運動にあわせて、こころのなかに何かが動く。その動きの「共鳴」のなかに「畏れ」がある
それは季村の感覚では「地の上をおおう」もの、その「うすいひろがり」に、何か似たところがあるのだろう。それをさらに凝視すると、
青い空気にひたされた
あきらかに限界を超えたふりそそぎ
が見える。「限界を超えた」何か。限界を超えているから「畏怖」を呼び起こす。「畏れ」なければならない。「限界を超えた」というのは、自分のできること(限界)を超えたということ、自分の力のおよばないということ。自分の力がおよばない(下回る)から、「おそれ」というものがうまれる。
でも、この「畏れ」は限界を超えた「もの」に対してではなく、限界を超えた「こと」(運動)に対しての動き。
ふりそそぎ
「ふりそそぎ」ということば自体は「名詞」だが、そこには「ふりそそぐ」という動詞がある。何かが限界を超えてふりそそいでいる。--ではなくて、「ふりそそぐ」ということ自体が限界を超えて「ふりそそぎ」ではなくなってしまっている。過剰な何かが「ふりそそぎ」を内部から、そのエネルギーで破壊している。
それを季村は感じ取っている。感じ取って、それをことばにしているように思える。季村のことばを読むと、そういうものを感じ取った遠い肉体の記憶が蘇る。
それは真昼のことが、あるいは真夜中の月の光のなかでのことか。季村の書いているのは、真昼だろうか。満月の夜のことだろうか。--わからないが、いずれにしろ、その「場」にある光が、もう光ではなくなっている。どこかからふりそそいでいるのだが、ふりそそぐをやめてしまって、その「場」のなかで、内部からあふれかえっている。
私の書いていることは、いつものように、とんでもない「誤読」かもしれない。季村はそういうことは書いていないのかもしれない。けれど、私は、そういうことを感じてしまった。
で、行分けの最後の部分。
風化花崗岩
同じかたち
同じ色
同じひびきは一度とてなく
一致は一瞬でしかない
繰り返される「同じ」ということばのなかで、私のことばはまたまた暴走する。
季村が書いていることと、私が読み取ったものは「同じ」か。
「同じ」ことばが、ふたつを結びつけている。
けれど、それはきっと「同じ」ではない。「同じもの(こと)」はどこにも存在しない。しかし、ことばが「同じ(一致)」ということが、「一瞬」だけ起きている。その「一瞬」から始まるビッグバンで、季村と私は、まったく別な方向へ飛び散っていくということかもしれない。
詩なのだから、それでいいのかも。
私は、ふいに、夜、会社の帰りに川まで行ってみようかな、と思っている。きょうは雨だから月の光はないか……。石が見える川も近くにはないのだけれど、「畏れ」が別の形で何かを動かしているかもしれない。
自分を超える何か、「限界を超える」なにかに接して「畏れ」の「一瞬」と「一致」してみたい--そういう気持ちにさせられる。
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