詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

中井久夫訳カヴァフィスを読む(63)

2014-05-24 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(63)          

 男色家にとって美男子は「神」である。「かの神々の一柱」は、男色家ではない市民が美男子に驚く声を書いている。

一柱の神が通り抜けた、セレウキアの市のアゴラを、
時はあたかもたそがれ時--、
姿は青年、すらりと背高く、完璧な美、
かおる黒髪、
不死なることの悦びを眼に湛えつつ--、
すれ違った者は皆みつめて、
あれはだれだとささやきあった--、
シリアのギリシャびとか夷か、と、
子細に見たものははっとわかって道を避けた。

 カヴァフィスの美男子の描き方はいつものとおり、「流通言語」をはみ出さない。個人的な好みを出さずに、世間で言われる「美」をそのまま踏襲して、スケッチをしてしまう。「形」はあくまで理想として流通している姿。それにひとことだけ、特徴を付け加える。ここでは「不死なることの悦びを眼にたたえつつ」。眼が、ふつうの人とは違っている。その違いによって、美男子が一層引き立つ。
 その人が男色家かどうかは、どうやって判断するのか。「子細に見たものははっとわかって道を避けた」と書いてあるが、きっと「はっとわかる」ことであり、根拠はないのだろう。その「神」が柱廊に入って、「あらゆる色と欲の世界に向かった」ので、

皆は首を傾げた、ありゃどの神さまだ、
どんないかがわしい悦びが欲しくて
セレウキアの市に降りてきなすったのか、
天の壮麗な館から。

 市民に(男色家ではない、ふつうの市民)の声で、「いかがわしい悦び」と男色を定義させる。しかし、それを味わうのは「神」である。そう書くことで、カヴァフィスは自分を「神」にたとえている。その「いかがわしい悦び」の場所が、そのとき天にある「壮麗な館」と同じものになる、と言っている。
 自分の声ではなく、市民の声をとおすことで、間接的に、男色家を「神」にすりかえる。このとき、カヴァフィスは「不死なることの悦びを眼に湛え」る姿となる。カヴァフィスが不死になるのではなく、「いかがわしい悦び」が「不死なるよろこび」、けっしてなくならない悦びになる。
 だれが禁じても、それは禁じることができない。
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