中井久夫訳カヴァフィスを読む(67)
「イアシスの墓碑」。ギリシャでは墓碑銘にどのようなことを書くのか。私は知らないのだが……。詩は三つの部分から成り立っている。
最初の二文は、死んだという事実と称賛。
次の「賢者」からはじまる長い一文は、称賛の「中身」。ただし、そこには純粋な称賛だけではなく、多少の妬みも入っている。美貌をたたえられたが、美貌ゆえに身を崩して、美貌を使い果たして死んでしまった。
これはほんとうに墓碑銘に書かれていることなのか。墓碑に、こういう批判(嫉妬)を書くのは、ギリシャではあたりまえのことなのか。
たぶんカヴァフィスの「創作」だろう。
あるいは、それは妬みというよりも自分もそうありたいという願望かもしれない。
賢者と凡人ということばが出てくるが、人間の智恵にいろいろな違いがあるように、その「声(主観)」にもいろいろある。落差がある。生きているときはだれもがイアシスの美貌をたたえる。そのおこぼれに預かれるかもしれないからだ。けれど死んでしまえば、その美貌の恩恵を味わえなかった人は、批判を口にする。程度の差はあるかもしれないが、それは賢者も凡人も同じだろう。
カヴァフィスのおもしろいのは、こういう「差」をそのまま詩に持ち込むことである。矛盾した「声」をひとつの詩に取り込んでしまうことである。称賛と批判がぶつかりあうから、そこに生前のイアシスがいきいきと蘇る。
そして、「生前」のイアシスの「声」というのか、死んでしまったイアシスが生きていたならこう言うであろうということばが書かれる。「そこ行く人よ、」以下である。イアシスは死んでいるから、これはカヴァフィスの「代弁」になる。「われを責むるな。」と「われ」が主語になっているが、イアシスのほんとうの声ではない。
カヴァフィスは「代弁」をするふりをして自分の「主観(主張)」を語る。
美に溺れ、美を使い果たして死んで行く--それがアレクサンドリア人(ギリシャ人)の「生きざま」である。これは、ある意味では、「私がのたれ死んでも、私を責めるな。私はギリシャの生きざまを体現しただけなのだ」というカヴァフィスの「遺言」でもあるし、現在の弁明でもあるだろう。
「そこ行くひとよ、」と呼び掛けられていた人の「人称」が最後に「きみ」という形であらわれるが、「きみ」に注目するならば、これは「いま/ここ」にいるカヴァフィスの恋人へのことば、誘惑のことばになるかもしれない。アレクサンドリアの熱狂と快楽に身も心も捧げつくそう、と誘いかけていることになる。
「イアシスの墓碑」。ギリシャでは墓碑銘にどのようなことを書くのか。私は知らないのだが……。詩は三つの部分から成り立っている。
イアシスここに眠る。この大都にみめよきをうたわれし者。賢者の賛美をも凡人の渇仰をもほしいままにせしが、ヘルメスよ ナルシスよ と愛でらるるも度重なれば、ついに限りを越え、擦り切れて死にき。そこへ行く人よ、アレクサンドリアびとならば われを責むるな。わがまちの熱狂を知り、快楽に身も心も捧げつくす その民の生きざまを知らむきみなれば。
最初の二文は、死んだという事実と称賛。
次の「賢者」からはじまる長い一文は、称賛の「中身」。ただし、そこには純粋な称賛だけではなく、多少の妬みも入っている。美貌をたたえられたが、美貌ゆえに身を崩して、美貌を使い果たして死んでしまった。
これはほんとうに墓碑銘に書かれていることなのか。墓碑に、こういう批判(嫉妬)を書くのは、ギリシャではあたりまえのことなのか。
たぶんカヴァフィスの「創作」だろう。
あるいは、それは妬みというよりも自分もそうありたいという願望かもしれない。
賢者と凡人ということばが出てくるが、人間の智恵にいろいろな違いがあるように、その「声(主観)」にもいろいろある。落差がある。生きているときはだれもがイアシスの美貌をたたえる。そのおこぼれに預かれるかもしれないからだ。けれど死んでしまえば、その美貌の恩恵を味わえなかった人は、批判を口にする。程度の差はあるかもしれないが、それは賢者も凡人も同じだろう。
カヴァフィスのおもしろいのは、こういう「差」をそのまま詩に持ち込むことである。矛盾した「声」をひとつの詩に取り込んでしまうことである。称賛と批判がぶつかりあうから、そこに生前のイアシスがいきいきと蘇る。
そして、「生前」のイアシスの「声」というのか、死んでしまったイアシスが生きていたならこう言うであろうということばが書かれる。「そこ行く人よ、」以下である。イアシスは死んでいるから、これはカヴァフィスの「代弁」になる。「われを責むるな。」と「われ」が主語になっているが、イアシスのほんとうの声ではない。
カヴァフィスは「代弁」をするふりをして自分の「主観(主張)」を語る。
美に溺れ、美を使い果たして死んで行く--それがアレクサンドリア人(ギリシャ人)の「生きざま」である。これは、ある意味では、「私がのたれ死んでも、私を責めるな。私はギリシャの生きざまを体現しただけなのだ」というカヴァフィスの「遺言」でもあるし、現在の弁明でもあるだろう。
「そこ行くひとよ、」と呼び掛けられていた人の「人称」が最後に「きみ」という形であらわれるが、「きみ」に注目するならば、これは「いま/ここ」にいるカヴァフィスの恋人へのことば、誘惑のことばになるかもしれない。アレクサンドリアの熱狂と快楽に身も心も捧げつくそう、と誘いかけていることになる。