詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

常木みや子『星の降る夜』

2014-05-06 12:19:26 | 詩集
常木みや子『星の降る夜』(思潮社、2014年03月31日発行)

 常木みや子『星の降る夜』は最初に短い詩がある。「壁画」あたりから詩が長くなっている。その長い詩がおもしろい。
 「壁画」。

サーミア・ハラビー 一九三六年生まれ
あなたは ニューヨーク在住の美術家
黒く太い眉を持つ アメリカ国籍のパレスチナ人
一九四八年まで 家族は代々エルサレムに住んでいた

彼女の絵は 吊るされている壁画
時間の彼方の一点に 堅く留められている
まっすぐに強靱な糸 意図と化した時間が
彼女の意思の重さを
今 に向かって
吊り下げる
留められつつ宙吊りの不透明なその絵は
吊られて在る時間の内部をはみ出して動き回る

 一連目は簡単な素描。わからないことばはない。「黒く太い眉を持つ」という特徴だけが「個性」として浮かび上がる。
 二連目は「彼女の絵」(彼女の描いた絵)についての説明だが、非常に抽象的である。「時間」ということばと「宙吊り」ということばが交錯する。それは「彼女の描いた絵」というよりも、常木には「彼女自身の絵(自画像)」に見えたので、そこに描かれているものと彼女を結びつけようとして、抽象的になったし待ったのだろう。「絵」は女を描いていない。けれど、常木はそこにサーミア・ハラビーという女の姿を見てしまう。「絵」の形(色)と常木の認識が、そのままではつながらない。
 何を見ているのか。何が見えるのか。そう問いかけたとき、常木にはサーミア・ハラビーの「時間(歴史)」が見えたということだろう。「時間」がサーミア・ハラビーの「自画像」なのだ。
 その時間の「起点」は遠くである。ニューヨークではなくエルサレムである。エルサレムとニューヨークを「空間」ではなく「時間」がつなぐ。いや、サーミア・ハラビーがニューヨークとエルサレムを「時間」としてつなごうとしている、と言うべきなのか。
 遠く離れたもの、しかもその遠いは一般的には「距離」なのだが、それを「時間(歴史)」としてつなごうとしている。そのとき、まだどこにも属さないサーミア・ハラビーの肉体の内部の時間が「はみ出し動き回る」。その「動き」そのものとして、常木はサーミア・ハラビーの絵を見たのだ。
 絵は固定していない。絵の内部で時間が動いている。そして、その動く時間がサーミア・ハラビーの「自画像」なのだ。
 絵は動く。

やがて絵は起き上がり
混ざり合った油絵具から
一本の パレスチナの
オリーヴの巨木が
姿を表す

 ここまで読んで来て、絵に「オリーヴ」が描かれていることがわかる。そのオリーブの気を見て、常木は、そのオリーブがサーミア・ハラビーに見えたということだ。

私は オリーヴの
深く捩じれた太い幹と静かに向き合い
サーミアのうたう詩を聞く

 オリーブがサーミア・ハラビーはわかったとき、絵は、もう一度変化する。絵ではなく、詩(声)になる。音楽かもしれない。常木は見ていない。聞いている。見ること(視覚)が耳を刺戟して、聴覚が目覚めたのである。

オリーヴの樹の縦糸 サーミアの紡ぐ横糸
この豊穰の大地に
神より前に人は住み
降る星の下 人は睦み合った
うねる歴史の中の 人々の声が聞こえる
人々の魂に 深い皺となって刻まれる歳月と祈りを
サーミアは紡ぎ出す

 サーミアの声はしだいに「人々の声」に変わる。ひとりの声ではなく複数の人間の声。それも「特定の短い時間」の、つまりある時代に限定した「人々」ではなく、長い時間、「歴史の中の」、延々とつながる人々の声、民族の声である。
 オリーブの生える大地で、星の降る大地で生きてきた人々。サーミア・ハラビーは、その人々の声を引き受けて、いま、自分の声として語っているのである。
 2連目で書こうとしていた宙吊りの時間」というものが、ここで言いなおされている。土地を奪われ、放浪するパレスチナ人。土地を奪われ、追放されても、魂は故国を忘れない。「場所」としてつながるのではなく「時間」としてつなぐ。「歴史」を語るとき、そこに「祈り」が動き出す。パレスチナ人の祈り、故国に対する思いがあふれ出す。
 その声に触れたとき、やっと、絵は絵になる。つまり、そこに描かれているものが静かに見えてくる。

絵には いつか
月が懸かっている

 この「いつか」がいい。「いつか」は常木には言うことができない。絵を見ていたら、知らず知らず、絵が訴えている「時間(歴史)」とそのなかで動いている人々の声が聞こえ、何が描いてあるのか一瞬忘れる。聴覚に神経が集中してしまう。そして、その声を聞きとったとき、聴覚が一休みし、視覚がまた動き出す。「いつ」という時間を特定はできない。一秒もかからない瞬間かもしれないし、三時間かもしれない。その「時間」には「長さ」がない。「いつ」であるかは、特定できない。--その特定できない時間の長さのなかに、常木の感じたすべてがある。
 絵のなかにある月--それはきょうの月かもしれない。サーミア・ハラビーがエルサレムを終われた一九四八年の月かもしれない。いや、もっと昔、神といっしょに生きていた時代の月かもしれない。どの「時代」の月であろうと、月が照らすのは「いま」である。すべての「歴史(過去)」は、「いま」となってつきに照らされている。
 そのことを常木は、こんなふうに書く。

月光が
オリーヴの畑を照らしている
見よ
時間の裂け目が
オリーヴ畑一面に
亀裂となって走っている

 「時間の裂け目」とは「いま」と「歴史」を結びつける「視点」である。
 あとは、私の余分なことばいらないだろう。

月は
一本のオリーヴを
時間の裂け目に落とされた
一人一人を
浩々と照らし出す

占領
根こそぎにされるオリーヴ樹
破壊され、消される村
うばわれるいのち

月は
浩々と歳月を照らし出す

奪われた人々が繋がっていく
オリーヴ樹の太い幹の内側で

人々は忘れない鍵を持つ
生まれた土地に帰還すること

吊るされたまま
至上の願いたずさえ
サーミアは 描き続ける
一途に
蘇生する
パレスチナの時間を




星の降る夜
常木 みや子
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(45)

2014-05-06 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(45)          

 「はるかな昔」も男色の詩。この詩の声は非常にロマンチックである。甘く揺らぐい声である。

この記憶をぜひ話したい。
だが今はもうひどく色あせて--消えて尽きたかのよう--
はるかな昔だから、私の青春時代だから。

 ことばが少しずつ多い。両端を切って捨てるような、剛直なリズムのカヴァフィスに馴染んでいるとカヴァフィスとは思えない。
 二行目の「もう」「ひどく」はなくても意味は同じ。それでも「もう」「ひどく」ということばを書くのは、ほんとうは「もう」「ひどく」をこそ書きたいからだ。「もう」というとき、「ひどく」というときに動く「主観」。その動きをつたえたい。
 「はるかな」も「昔」を修飾することばというよりも「はるかな」という意味を「昔」が支えている感じだ。「青春時代」も「はるかな」を彩る音楽である。青春時代がはるかなのではなく、「青春時代」という「意味(流通概念)」で、「はるかな」という軽い音を美しいメロディーに変える。
 前後するが「消えて尽きたかのよう」という「直喩」がロマンチックなのである。「よう」と言わずにおれない主観の動きが、この詩の生命である。「暗喩」では主観が隠されてしまう。

ジャスミンの肌--
あの八月の夕べ--はたして八月だったか?--
眼だけは思い出せる--青--だったと思う。

 わざと「不確か」をよそおう。「はたして」ということばで補強する。「思う」という動詞をつかって、思うときに動く「こころ」を強調する。それもこれも「主観」をあざやかにするための技巧である。
 最終行。

そう、青--サファイアの青だったね。

 これは誰に言い聞かせているのか。誰に念おししているのか。カヴァフィス自身に対してである。主観が客観に対して、念おししている。客観を主観がリードして整えているのである。ふつうは逆だ。主観の暴走を客観が抑えるのが、ことばの運動である。
 カヴァフィスは客観の枠を叩き壊し、主観を解放する。甘く甘く、さらに甘く輝かしいものにする。
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