詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジェイソン・ライトマン監督「とらわれて夏」(★★★★)

2014-05-05 09:48:24 | 映画
監督 ジェイソン・ライトマン 出演 ケイト・ウィンスレット、ジョシュ・ブローリン、ガトリン・グリフィス

 いちばん印象的なシーンは、ピーチパイをつくるシーンである。脱走してきた男、夫と離婚してひとりで息子を育てる母、そして中学生の息子。その三人がいっしょになってピーチパイをつくる。見方によっては非現実的なシーンである。なぜ、三人でピーチパイをつくらなければならないのか。それも、つくり方を教えるのは囚人である。なぜ、殺人を犯し、脱走するような男が、そんなもののつくり方を知っているのか。--という疑問は、まあ、「流通概念」で脱走した殺人者を見るからかもしれないが。殺人者がピーチパイのつくり方を知っていて悪いわけではないが。この男は、ほかにも家庭的なことはすべてできる。料理がうまいだけではなく、車のタイヤの交換もするし、こわれたブロック塀(?)もなおすし、雨樋にたまった枯れ葉もとりのぞく。野球もできる。
 あ、脱線した。
 なぜピーチパイをつくるシーンが印象的かというと、まるで料理番組のようにつくり方が丁寧なだけではなく、そのつくり方に「肉体」がしつこくからんでくるからである。手の動きがアップで克明に描かれる。粉をこねる。バターをまぜる。シートをのばす。だれの手であってもいいのだけれど、だれの手であるかわかるように、手に他の肉体の部分をおりこみながらアップが繰り返される。その手の動きの中でも、特に印象的なのが、切ったピーチをボウルのなかでかき混ぜるシーン。三人の手が交錯する。三人でひとつの作業をしている。三人でする必要はないかもしれない。けれど三人でする。そのとき三人の手はボウルのなかで、何に触れているのだろう。ピーチに触れているのはもちろんだが、その周辺の果汁、さらには他人の手にも触れている。他人と意識せずに触れている。
 このとき三人は「家族」になる。三人でつくったものを三人で食べる。誰が、どれをつくったのか、わからない。上にかぶせたパイシートはケイト・ウィンスレットがつくったと言えるかもしれない。最後にパイシートをかぶせたのはケイト・ウィンスレットだから。でも、ボウルのなかでかき混ぜられたピーチは、誰がどのピーチを切ったかということがわからない。だれのかき混ぜ方がよくて、ピーチパイがおいしくなったのか、わからない。
 そして、わからないことが、ピーチパイのおいしさの秘密でもある。
 同じように、「家族」というものも、だれが何をするという分担が決まっているときよりも、それが崩れて、だれが何をするかがあいまいになり、混じりあったときの方が「味」が出る、味がよくなるということがある--というのは、まあ、先走りした「解釈」になってしまうけれど……。分担の境界線がわからなくなり、互いに手をさしのべあうとき、家族に「なる」という変化が生まれる。夫婦がいて、子供が産まれれば「家族」が誕生するが、それがほんとうに「家族」になるには、もっとほかのことが必要なのだ。ただいっしょにいるのではなく、互いを必要とし、互いに手をさしのべ、その手が触れるとき、ひとは「家族」になる。

 物語の最初、脱走囚は脱走囚であり、母親と息子は、いわば「人質」である。ところが、その関係は崩れ、脱走囚は魅力的な男、母親は寂しい女、息子は父親にあこがれるこどもになり、男は女を愛し生きる希望を燃え上がらせ、こどもに野球を教える父親になる。男は脱走囚ではなくなってしまう。ひとは、人と出合い、それまでとは違った人間に「なる」。その変化した人間を受け入れるとき、そこから人間関係が「家族」に「なる」。
 この「なる」は、しかし、複雑である。
 「頭」では男が脱走囚であると知っているから、友人が家にやってくると、母親と息子は男を匿うのに必死になるが、それ以外のときは男は恋人であり、父親である。いや、男を匿うときも、実は脱走囚でありながら恋人であり、父親である。単なる脱走囚ではないからこそ、恋人であり、父親だからこそ、必死になってかくまう。
 何をしているか、母親も息子も、実は、わからない。わからないまま、男にひきずられてというよりも、男といっしょになって、動いてしまう。ボウルのなかで混ざってしまうように、男とまじってしまう。境目がなくなる。
 いや、そんなことはありえない。人間なんだから、ピーチのように見分けがつかないということはありえない。
 --たしかに、そうなのだ。男はどうしても自分がやってしまったことを思い出してしまう。そのとき、男はケイト・ウィンスレットのことを思っているわけではない。息子は、別れた父親と会う。そのとき少年は、ほんとうの父親も父親として愛していることを思い出す。ケイト・ウィンスレットも不幸な過去(何度も流産したこと、死産もあったこと)を忘れることができない。三人を「分離」してしまう何事かを、三人とも抱え込んでいる。
 だからこそ、なのかもしれない。三人は、さらに混じりあって見分けがつかないものになりたい、ほんとうの「家族」になりたいという気持ちが強くなる。

 この矛盾が、ピーチパイをつくっているときの手のように、不思議な「アップ」の感覚でスクリーンにあふれてくる。(肉体のアップのシーンが多いことが、その印象を強めるかもしれない。)全体が見えなくて、局所局所の「充実」が見える。ピーチをかき混ぜているときはかき混ぜるということだけが大切で、その大切な充実がないと全体も完成しないように、この映画では、三人の行動のそれぞれの瞬間が充実するばかりで、全体像は見えない。将来どうなるか、三人の完成像(家族)はどこで、どんなかたちになるのか、わからないまま、何かをしている瞬間だけが暴力的に充実してしまう。
 舞台はどこだっけ。アメリカの、暑い田舎町。そこじピーチが熟れるように、夏休みの停滞した時間が、停滞したまま、果てしなく充実していく。局所的充実である。それが、まるで熟れすぎて、くさっていくピーチそのもののように、匂ってくるようでもある。ケイト・ウィンスレットのボリューム感あふれる肉体と汗の感じが、それに追い打ちをかける。
 物語は、その、究極的な充実をそこでは維持できなくて、カナダへ三人で逃げようとすることをきっかけに破綻するのだけれど、これはもう、破綻しかない。局所の充実というのは、時間がないということ。そこにストーリー(物語の新しい展開)の時間が割り込むと、どうしても充実は充実のままではいられない。動きだしたときに向き合わなければならないもの--そこに「新しい充実」を要求してくるものがあるからだ。銀行で預金を引き出そうとすれば、なぜ、全額引き出す必要があるのかという質問に答えなければならないというようなことが。「細部」が突然、目の前に現れてくるからだ。こういう「他人との接触という細部」と「家族三人の密接な充実の時間」は、ぜったいに相いれない。だから、破綻へ向かって動くしかない。
 あ、余分なことを書いてしまったなあ。
 その破綻へ向かう細部は、まあ、映画なのだから描くしかないものである。結末がつかないからね。大切なのは、そのピーチパイをつくって食べるという「細部の充実」、そのときの手のふれあい。
 で、この映画、ストーリーが破綻したあと、もう一度ピーチパイの充実にもどる。そこが非常に美しい。ものをていねいにつくるということは、それをつくった人間を変えるし、また世界をもかえていく。その変化は、ピーチパイをつくることで三人が家族になったときの「なる」に似ていて、なかなか見えにくいけれど、確実な変化である。その変化を、この映画は静かに静かに語っている。
 


 ジョシュ・ブローリンは、うまいなあ。こんなにうまい役者だったっけ。殺したくて殺したのではない。偶然、殺してしまったのだ--ということが、「わかる」演技をしている。ケイト・ウィンスレットの肉感的な演技とは対照的に、何か、非常に精神的な感じがする。がっしりした肉体があって、その奥に抑制のきいた精神が動いている。けっして暴走しない、という感じのなかに、一種の悲しみがある。ケイト・ウィンスレットを「人質」にするためにロープで縛るシーンの手つき(またしても手なのだが)がいいなあ。足に触れるときの指がいいなあ。手が、顔になっている。
 顔といえば、顔つきがデビューしたてのころのニック・ノルティに似ているかなあ。黒い髪を金髪にすれば、ニック・ノルティになるのかも。そのニック・ノルティの「サウスカロライナ」(バーブラ・ストライザンド監督)の演技をふと思い出したが……。


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中井久夫訳カヴァフィスを読む(44)

2014-05-05 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(44)          

 「シャンデリア」はシャンデリアの描写からはじまり、「官能」ということばをとおり、比喩になる。シャンデリアと書かれているが、カヴァフィスはシャンデリアを描いたのではないことは明らかだ。

美しいシャンデリアが燃えている。すべてが火。
その炎の一つ一つが埋み火を燃え上がらせる、
官能を熱病を、放蕩の誘いを。

 シャンデリアは若い男である。それがカヴァフィスの「埋み火」を燃え上がらせる。若い男の輝きを見ながら、官能の熱病に苦しんでいるのはカヴァフィスである。放蕩の誘いに苦悩しているのはカヴァフィスである。

シャンデリアの熱い火の
輝きがくまなく照らすために
ありきたりの光は小部屋に入れない。
この官能の熱は臆病な身体には縁がない。

 ここではカヴァフィスはほかの男を牽制している。豪華なシャンデリアのような輝きの男--その男と拮抗できる、その男の相手をできるのは自分だけだと言っている。ありきたりの人物では、豪華な光に打ちのめされるだけである。
 官能におぼれても生き残れる自信のあるものだけが、その官能を味わうことができる。カヴァフィスは、自分の身体はそれに立ち向かうことができると明言している。自分は臆病ではない。どんな官能もむさぼり食ってやると言っている。
 この強い自信が、シャンデリアの輝きをいっそう美しくする。その自信がなければシャンデリアを見ることすらできない。

 あるいは立場を逆に読んでみるのもおもしろいかもしれない。「埋み火」から、その「埋み火」の持主を年をとった男(カヴァフィス)と考えてしまったが、カヴァフィスがシャンデリアで、それに群がる若い男たちが「ありきたりの光」かもしれない。
 官能は若いだけが取り柄ではない。若い火はすぐに燃え上がるが、すぎに燃え尽きる。焼尽しないうちに、「埋み火」になってしまう。その若い男たちに「もう一度、その官能の火を燃え上がらせて見せてやろう」と自信たっぷりに誘っているかもしれない。自分が味わってきた官能、放蕩のすべてを豪華に身にまとっているカヴァフィス。
 カヴァフィスのはち切れるようなリズム、剛直な響きには、後者の方が似つかわしい。カヴァフィスは一九六三年生まれ。この作品が書かれたのは一九一四年だからカヴァフィス五一歳の時である。「埋み火」を肉体に抱えているというほどの高齢ではない。

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