詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「指ざわり」

2014-05-12 11:35:40 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「指ざわり」(「生き事」8、2014年春発行)

 岩佐なを「指ざわり」は鞄の取っ手に巻かれたガムステープと、それに触りつづける指のことを書いている。列車に乗って、することがないので、なんとなく触ってしまったのだ。

鞄の取っ手にはぐるぐると
ガムテープが巻かれ時を経て
端っこが幾分はがれかけている
ねばねば、ねばねば
利き手の親指のはらで
ねばねばをたしかめる
必ず何度も親指の指紋を
ガムテープにおしつける
ぬちぬち、ぬちぬち
はがれた部分は次第に汚れ
そのうちねばねばも渇いていくだろう

 テープにしろ、シールにしろ、はがれかけた部分というのは触りたくなる。触るように誘っている。でも、なぜかな? 「ねばねば、ねばねば」が好きなのかもしれない。人間というのは、何か接着してくるものが好きなのかもしれない。
 この「ねばねば、ねばねば」が「ぬちぬち、ぬちぬち」に変わってしまうところに、岩佐の触覚の「肉体」があって、あ、この微妙なものをしっかりことばにするところが岩佐の思想なんだなあ、と書きたいのだが。
 うーん、うまくことばにならない。
 「ねばねば、ねばねば」はガムテープそのものの粘着力なのかな。「ぬちぬち、ぬちぬち」はガムテープの方の感触ではなく、指の方の印象かな? 触覚というのはふたつのものが接して生まれるものだから、そのふたつに印象の違いがあってもいいのかもしれないけれど、ふつうは区別しないなあ。
 でも、ほんとうは違いがある。
 たとえばサンドペーパー。触ると「ざらざら」している。ざらざらはサンドペーパーの凹凸に原因(?)があるのだけれど、触ってわかることなので「ざらざら」と言って、それですべてがわかったつもりになるけれど。
 「じゃあ、そのとき指はどんなふうに感じる?」
 「ちくちく刺される感じ。強くこすると痛いよ」
 「でも、そっと触るとなんだかくすぐられてこそばゆい感じ」
 ほら、違いがある。
 粘着力のときは、粘着してくるものが「接点」をひろげてしまうので、「ねばねば、ねばねば」を指がどう感じるかを言いなおすのは難しいのだけれど。その難しいところを、岩佐は、何でもないかのように書いている。何でもないように書きながら、その世界へ「ぐい」とことばの全体を動かしていく。

くりかえしねばねばをたしかめながら
行き先を迷っている
今の世のなか
行き先までの切符など買わなくとも
乗車することは簡単だ
もう到着する先など
どこでもいい
(タトエアノヨデモ)
ああいいさ。

 粘着力から逸脱して、ちょっととんでもない動きなのだが、そういうとんでもない逸脱を必要とするくらいの変化が岩佐のなかで起きたのだ。「ねばねば、ねばねば」を「ぬちぬち、ぬちぬち」と書くことで。
 そういう変なことを、もう少し書いたあとで、詩は次のようになる。

また指のはらでガムテープの
ねばねばをいじくっている
行くあてはないのに
電車は勝手にどんどん進んでいく
時間に似ているね
と思いながら利き手の指を見ると
どの指先からも細かい神経が
生えだして鬚根のようだ
白い糸状の根が特にねばねばと遊んだ
親指のはらからはわさわさと生え

 指が変化している。「ぬちぬち、ぬちぬち」は指紋がほどけて白い根にかわるときの、岩佐の肉体の中の音だったのだ。
 それは、

もう到着する先など
どこでもいい
(タトエアノヨデモ)
ああいいさ。

 のように、生えたくて生えてきたというよりも、何か買いことばに売りことばみたいに、瞬間的に暴走してしまう何かなのだと思う。
 こういうことをきちんと書けるのは、とてもおもしろいことだ。

 この詩には、もうひとつ、不思議な「仕掛け」のようなものがある。最初に引用した部分に、

ガムテープに巻かれ時を経て

 という行がある。その「時を経て」が「仕掛け」。ガムテープがめくれてくる。そのとき、わざわざ「時を経て」などと書かなくてもいいと思う。なぜ「時」を岩佐は気にしているか。
 さらに、

必ず何度も親指の指紋を

 この行の「必ず」も不思議である。なぜ「必ず」と書いたのか。「必ず」と書くと「肉体」がぐいとせりだしてくる。「いま」と「かならず」が積み重なって、「時間」になっていく感じがする。「必ず」がないと、ぼんやりした「時間」が流れていく感じがする。「時間」がすぎさるあいだ、ぼんやりと何度も指を押しつける感じ。「必ず」があると、「ぼんやり」が消える。
 で、この「時間」を過ぎ去るのものとして受け入れるだけではなく、自分からつくっていくという感覚で、最後の方の

電車は勝手にどんどん進んでいく
時間に似ているね

 の「時間」の比喩を見るとどうなるだろうか。
 電車は「勝手に」進む。
 そのとき岩佐の「肉体」のなかで「勝手に」すすんだものはない?
 指紋がほどけて、白い根っこになっている。それは、やっぱり「勝手に」なったことではないだろうか。
 岩佐は指をガムテープに「必ず」押しつけていた。けれど、それは根っこを生やそうと思ってしていたことではない。肉体が「勝手に」生やしたのだ。
 何かが「勝手に」にかわってしまうことがある。そのとき、その変化のなかには、岩佐の与り知らない「時間」があって、それが「勝手に」経てしまっているということかもしれない。
 「勝手に経てしまう」時間(過ぎ去る時間)というのは、まあ、無為の時間というふうに言えるのだけれど、その「無為の時間」のなかで、人間は何をしているか。「無為」をしている。「無為」って「無意味」という意味だね。ガムテープのねばねばを指で確かめるなんてことはしなくていいことなのに、そういうことをしてしまう。そして、そういう「無意味」のなかに、いままでだれも書かなかった何かが存在している。「無意味」は「意味」がないというだけであって、人間が「いない」わけではないからね。
 岩佐は、こんなふうにして人間の謎を書いている。流行の「現代思想用語」は出て来ないけれど、とても哲学的なことを書いている。




岩佐なを詩集 (現代詩文庫)
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(51)

2014-05-12 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(51)

 「描かれて」は行き詰まったカヴァフィスが一枚の絵から刺激を受けて元気になる様子を書いてる。その書き出し。

仕事は好きだ。気を入れてやってる。
だが今日という今日は進みののろさに我ながらがっかり。
天気のよくない影響だな。
どんどん暗くなる。小止みない雨に風。
話などするよりも ものを見ていたい心地だ。

 五行目の「話などするより」が難しい。
 これは、美少年をあさりに出かけるより、と想像するとわかりやすくなる。欲望、官能のために少年と会う。そのとき無言でセックスをするというわけにはいかないだろう。何らかの話をする。知らない少年が相手なら、何事かを聞き、また聞き返されるということもある。それが「話をする」ということである。
 ほかにも表現の方法はあるかもしれないが、ここに「話をする」という動詞、「声」にかかわる動詞を持ち出すところが、カヴァフィスらしい。カヴァフィスはいつでも他人の声を聞いている。声のなかに動いている欲望を聞いている。
 この声を聞きたい、聞かせたいという欲望は、仕事(詩作)がうまくいったときは、はつらつと動くのだが、詩の声が充分に動かなかったときは、他人の声を聞くことが苦痛になる。自分の声を出すこともいやになるということだろう。
 だから、もうひとつの欲望、視力を満足させる。

今 見ている絵。美少年が
泉のほとりにねそべっている。
走り疲れたのだろうか。
何という美しい子。この世ならぬ真昼の光が
眠る子をつつんでいることか。

 現実では雨が降っている。暗い一日。それとは反対に絵のなかでは真昼の光があふれている。この対比が強烈だ。そして、そこには美少年が眠っている。--つまり、カヴァフィスが見つめていることも知らずに、である。カヴァフィスは自分の疲れた姿を見られることなく、一方的に見ている。見つめ合えば、どうしても「話をする」ということがおきるが、相手が眠っているなら、そういうこともしなくてすむ。声(話)に絶望することもない。そこではカヴァフィスこそが夢みているのだ。
 その夢みている自分をカヴァフィスは「真昼の光」にたとえている。美しいのは少年であると同時に、その少年をつつむ光の輝き。「美しい子」というばかりで、その美の特徴をカヴァフィスは書いていない。「つつんでいる」と昼の光を描写するだけである。
 美少年を見るというよりも、それを見守る自分の美しさをカヴァフィスは取り戻す。

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