中井久夫訳カヴァフィスを読む(68)
読む、とはどういことか。「アチュルの月に」は読むことをめぐる詩である。カヴァフィスは古い墓碑銘を読んでいる。当然、そこには欠落した文字がある。
墓碑銘だからキリストが出てくるのは自然だ。「たましい」も必然だろう。「レウキオ(ス)」も人名前だから不可欠だし「眠(りにつけ)り」は読めなくても、そう読んでしまうだろう。でも「アチュルの月に」はよくわからない。わからないから、想像力が激しく動きはじめる。
涙、悲嘆、愁い……ということばからはレウキオスを失った人の悲しみがつたわってくる。墓碑銘だから、それは自然なことであるけれど、その悲しみを一歩突き進めてカヴァフィスはそこに書いていないことばを書く。
「レウキオスはいたく愛された子に違いない。」
このときカヴァフィスはレウキオスを思い浮かべているのだろうか。それともレウキオスを愛した人々を思い浮かべているのだろうか。私は、後者だと思う。さらにいえば、彼を愛した人々というよりも、「愛する」という動詞を思い浮かべている。「愛する」ということを思い浮かべている。
そして、そのときカヴァフィスは、会ったことのないレウキオスを愛している。欲望している。実際にレウキオスと愛をかわした人に嫉妬しているかもしれない。そういうこころがあるから、「毀損された三行」を克明に読むのだ。
--と書くと、何か、時系列に反したことになってしまうが。
たぶん、読みはじめた瞬間から、そこに「アレクサンドリアびと」という文字を読んだ瞬間から、その欲望は動いているかもしれない。これは、美しい青年だったのだ、と思い、それにつながることばを探す。そうすると「われらが涙」「(われらの)愁い」ということばがある。「われらの」は欠落している部分があるが、補っている。「われら」を補うことで、カヴァフィスはその「われら」の一員になり、同じ「趣味」をもった人間として、欲望する。
読むというのは、そこに書かれていることを読み取るのではなく、書かれていないこと、行間を、自分自身の「肉体」のなかから探し出すことだ。
読む、とはどういことか。「アチュルの月に」は読むことをめぐる詩である。カヴァフィスは古い墓碑銘を読んでいる。当然、そこには欠落した文字がある。
この古い石碑は かろうじて字が読める。
「主キリスト」。何とか「たまし(い)」とも。
「アチュルの月に」「レウキオ(ス)眠(りにつけ)り」
墓碑銘だからキリストが出てくるのは自然だ。「たましい」も必然だろう。「レウキオ(ス)」も人名前だから不可欠だし「眠(りにつけ)り」は読めなくても、そう読んでしまうだろう。でも「アチュルの月に」はよくわからない。わからないから、想像力が激しく動きはじめる。
腐食部分に かすかに「彼(は)…… アレクサンドリアびと」
その続きは 極めて毀損された三行。
しかし多少の語は拾える。「われらが涙」「悲嘆」
ふたたび「涙」「その友たる(われら)の愁い」
レウキオスは いたく愛された子に違いない。
涙、悲嘆、愁い……ということばからはレウキオスを失った人の悲しみがつたわってくる。墓碑銘だから、それは自然なことであるけれど、その悲しみを一歩突き進めてカヴァフィスはそこに書いていないことばを書く。
「レウキオスはいたく愛された子に違いない。」
このときカヴァフィスはレウキオスを思い浮かべているのだろうか。それともレウキオスを愛した人々を思い浮かべているのだろうか。私は、後者だと思う。さらにいえば、彼を愛した人々というよりも、「愛する」という動詞を思い浮かべている。「愛する」ということを思い浮かべている。
そして、そのときカヴァフィスは、会ったことのないレウキオスを愛している。欲望している。実際にレウキオスと愛をかわした人に嫉妬しているかもしれない。そういうこころがあるから、「毀損された三行」を克明に読むのだ。
--と書くと、何か、時系列に反したことになってしまうが。
たぶん、読みはじめた瞬間から、そこに「アレクサンドリアびと」という文字を読んだ瞬間から、その欲望は動いているかもしれない。これは、美しい青年だったのだ、と思い、それにつながることばを探す。そうすると「われらが涙」「(われらの)愁い」ということばがある。「われらの」は欠落している部分があるが、補っている。「われら」を補うことで、カヴァフィスはその「われら」の一員になり、同じ「趣味」をもった人間として、欲望する。
読むというのは、そこに書かれていることを読み取るのではなく、書かれていないこと、行間を、自分自身の「肉体」のなかから探し出すことだ。