佐々木洋一「野の長椅子」(「この場所ici 」10、2014年04月25日)
佐々木洋一「野の長椅子」は1行が一連の詩。つまり、1行ごとに1行の空白がある。行が独立していて、一呼吸置いてから次の行に移っていく。そのときの飛躍に、1行の空き--それは行間というものとは少し違う。呼吸のようなものだ。--でも、これはことばで言いなおすのは難しい。私のことばは、そのことを語るためのことばをまだもっていない。しかたがないので、語ることができることだけ語ってみる。
1行目から、何か「余分」なのもが漂っている。「もう長々と」が、私のいう「余分」。そのことばがあろうとなかろうと、長椅子が野原に放置されていることにかわりはない。(野原に放置されている--というのは1行目だけではわからないのだが……。)つまり「意味」にとっては、それは「余分」だということ。でも、その「余分」が佐々木には必要だった。長椅子が放置されているということよりも「もう長々と」の方が佐々木にとっての「意味」であると言ってもいい。
客観的事実(?)としては野原に長椅子が放置されているということなのだが、佐々木にとって重要なのは、「もう長々と」という印象が大事。客観的事実ではなくて、自分が感じていることをことばにしたい。客観的事実を「意味」と考えるのは、まあ、いわば現代の病気、合理主義流通経済のようなもの。その病気にあらがって、佐々木は佐々木の「健康」を守っている。「余分」によって。「余分」があるから、佐々木は合理主義経済からゆっくりそれいてくことができる。(逸脱していくことができる--と書くと現代病の思想用語のなかへ入っていくことができる、--と書くと私の書いていることが少しはわかりやすくなるか……。)
「もう長々と」をさらに「寝そべった」が補強する。長椅子は、もの。ものが「寝そべる」ということはない。生き物(人間や動物)が「寝そべる」という動詞の主語になることはあっても、物は「動詞」の主語となって動くことはできない。だからこれも「余分」。つまり、逸脱。
そこに、つまり合理主義からはみだした佐々木の「肉体」がある。野に放置された長椅子を「寝そべる」という動詞で語りはじめるとき、その「動詞」のなかに佐々木の「肉体」がはいり込んでいる。佐々木の肉体はそのとき長椅子になっている。
長々と寝そべる長椅子--それは佐々木の願望なのか。「動詞」のなかには、何かしらの願望、欲望、本能のようなものがある。だから動くのだ。長々と、野のなかで寝そべることを夢みるくらいに佐々木は疲れているのか。
2連目の「風雨にさらされ」は、佐々木の肉体の履歴かもしれない。仕事のなかで、風雨にさらされる長椅子みたいに、肉体を痛めつけられたのか。
3連目は、蝶の描写かもしれない。長椅子ではなく、長椅子に寝そべる(?)蝶のように休みたいのかもしれない。
4連目は、また長椅子にもどる。もどるのだけれど「崩れるにはまだ早く保つには時おそい」というのは佐々木の「肉体」の描写にも見えてしまう。あ、私は佐々木を知らないのだけれど、推測できる範囲でいうと佐々木は団塊の世代。いま、ちょうど仕事の最終盤か仕事から解放された年代。崩れるには早い、でもきちんと何かをするにはちょっと厳しい。そんな思いを肉体に抱え込んでいる姿が見えてくる。
というようなことを思いながら、私は、そこまで読んできて、
この2連、2行に、何だかどきどきしてしまったなあ。知らない世界を見てしまった--知らないけれど、知らないのではなく、そういうふうに見るべきだったのだと「思い出す」感じ。自分で思い出すのではなく、佐々木のことばに触れることで、自分のなかにもそういうものを感じたことがあったなあと思い出す感じ。
こんなことを書くと、佐々木から叱られそうだが……。でも、すぐれた文学(ことば)というのは、たいていがそうだね。あ、これこそ自分が感じていたこと--と思う。他人が書いたのに、その書かれていることを自分の「肉体」の思い出として感じる瞬間。自分と作者の区別がなくなる瞬間。
実際に作者が書いていることは私が感じていることとは違うかもしれない。けれど、もう、自分の感じていることの方が暴走して、作者の思いとは関係なく、「これが自分のいいたかったこと」と思い込んでしまう。
脱線したかな?
この2行で、私が何を感じたか。私は「長椅子」を見ているわけではない。見たわけでもない。その「長椅子」が何でつくられているのか、佐々木は書いていないが、私は「木の長椅子」を思い出した。いや、この2行で、それは「木の長椅子」ではなく、「木」そのものになった。
木は、生きている木にであっても、切られて加工された木であっても、ときどき深い亀裂をもっている。その亀裂は何によって生じたか。それは、問わない。その亀裂にも光が射す。陽射しが射す。光はどこまでもまっすぐに進む。角度によってはその奥部まで光は届かないけれど、角度によっては最奥部にも届く(可能性がある)。その光は亀裂をきっとさらに深く押し広げるだろう。
そのあと、光は引き返してゆき、かわりに闇が亀裂のなかへ入ってくる。どこまでもどこまでも。光と違って、何にも邪魔されず、ほんとうに奥部まで入ってくる。
こういう「往復」。よろこびと悲しみ、なのか。希望と落胆、なのか。正反対のものが木の内部で入れ替わりながら、さらにさらに「奥」を深めていく。--こういうことって、人間にはないだろうか。
あるなあ。
それを具体的にいうことは難しいけれど、そういう感じのことって、あるなあ、と心底思う。
詩は、そうつづくのだが、そう、何があったのか、なかったのか--それははっきりとは言えない。言えないけれど、あったことは「事実」なのである。何があったか言えないから、それは「客観的事実」ではない。けれど、「事実」は別に他人にいうべきことでもない。自分の「事実」は他人がどんなふうに認めようが関係がない。「主観的事実」。そういうもの、合理主義から排除された「主観的事実」というものがある。「客観」が「ない」と言っても「主観」は「ある」と言い張ることができるものがある。
もう、ここまで来ると「長椅子」ではないね。佐々木が長椅子をみて「思ったこと」、つまり佐々木の「主観」だね。
この「主観」を論理的に、説得力のある演説のようにではなく、ぽつんぽつんと放り出すように解き放っていく。その呼吸が一行空きのリズムだね。佐々木の肉体の呼吸のし方、肉体の運動の「主観」(付随筋のように、無意識に動いてしまう)が自然にひろがってくる。
起きたことすべてもまた「あるがまま」だったのだ。
佐々木洋一「野の長椅子」は1行が一連の詩。つまり、1行ごとに1行の空白がある。行が独立していて、一呼吸置いてから次の行に移っていく。そのときの飛躍に、1行の空き--それは行間というものとは少し違う。呼吸のようなものだ。--でも、これはことばで言いなおすのは難しい。私のことばは、そのことを語るためのことばをまだもっていない。しかたがないので、語ることができることだけ語ってみる。
それはもう長々と寝そべった長椅子
野の中に置かれ風雨にさらされ
翅がうたた寝し頭が寝床にする
崩れるにはまだ早く保つには時おそい
射し込んだ陽射しは深部にまで食い入り
その後を闇の物の気が浸潤する
1行目から、何か「余分」なのもが漂っている。「もう長々と」が、私のいう「余分」。そのことばがあろうとなかろうと、長椅子が野原に放置されていることにかわりはない。(野原に放置されている--というのは1行目だけではわからないのだが……。)つまり「意味」にとっては、それは「余分」だということ。でも、その「余分」が佐々木には必要だった。長椅子が放置されているということよりも「もう長々と」の方が佐々木にとっての「意味」であると言ってもいい。
客観的事実(?)としては野原に長椅子が放置されているということなのだが、佐々木にとって重要なのは、「もう長々と」という印象が大事。客観的事実ではなくて、自分が感じていることをことばにしたい。客観的事実を「意味」と考えるのは、まあ、いわば現代の病気、合理主義流通経済のようなもの。その病気にあらがって、佐々木は佐々木の「健康」を守っている。「余分」によって。「余分」があるから、佐々木は合理主義経済からゆっくりそれいてくことができる。(逸脱していくことができる--と書くと現代病の思想用語のなかへ入っていくことができる、--と書くと私の書いていることが少しはわかりやすくなるか……。)
「もう長々と」をさらに「寝そべった」が補強する。長椅子は、もの。ものが「寝そべる」ということはない。生き物(人間や動物)が「寝そべる」という動詞の主語になることはあっても、物は「動詞」の主語となって動くことはできない。だからこれも「余分」。つまり、逸脱。
そこに、つまり合理主義からはみだした佐々木の「肉体」がある。野に放置された長椅子を「寝そべる」という動詞で語りはじめるとき、その「動詞」のなかに佐々木の「肉体」がはいり込んでいる。佐々木の肉体はそのとき長椅子になっている。
長々と寝そべる長椅子--それは佐々木の願望なのか。「動詞」のなかには、何かしらの願望、欲望、本能のようなものがある。だから動くのだ。長々と、野のなかで寝そべることを夢みるくらいに佐々木は疲れているのか。
2連目の「風雨にさらされ」は、佐々木の肉体の履歴かもしれない。仕事のなかで、風雨にさらされる長椅子みたいに、肉体を痛めつけられたのか。
3連目は、蝶の描写かもしれない。長椅子ではなく、長椅子に寝そべる(?)蝶のように休みたいのかもしれない。
4連目は、また長椅子にもどる。もどるのだけれど「崩れるにはまだ早く保つには時おそい」というのは佐々木の「肉体」の描写にも見えてしまう。あ、私は佐々木を知らないのだけれど、推測できる範囲でいうと佐々木は団塊の世代。いま、ちょうど仕事の最終盤か仕事から解放された年代。崩れるには早い、でもきちんと何かをするにはちょっと厳しい。そんな思いを肉体に抱え込んでいる姿が見えてくる。
というようなことを思いながら、私は、そこまで読んできて、
射し込んだ陽射しは深部にまで食い入り
その後を闇の物の気が浸潤する
この2連、2行に、何だかどきどきしてしまったなあ。知らない世界を見てしまった--知らないけれど、知らないのではなく、そういうふうに見るべきだったのだと「思い出す」感じ。自分で思い出すのではなく、佐々木のことばに触れることで、自分のなかにもそういうものを感じたことがあったなあと思い出す感じ。
こんなことを書くと、佐々木から叱られそうだが……。でも、すぐれた文学(ことば)というのは、たいていがそうだね。あ、これこそ自分が感じていたこと--と思う。他人が書いたのに、その書かれていることを自分の「肉体」の思い出として感じる瞬間。自分と作者の区別がなくなる瞬間。
実際に作者が書いていることは私が感じていることとは違うかもしれない。けれど、もう、自分の感じていることの方が暴走して、作者の思いとは関係なく、「これが自分のいいたかったこと」と思い込んでしまう。
脱線したかな?
この2行で、私が何を感じたか。私は「長椅子」を見ているわけではない。見たわけでもない。その「長椅子」が何でつくられているのか、佐々木は書いていないが、私は「木の長椅子」を思い出した。いや、この2行で、それは「木の長椅子」ではなく、「木」そのものになった。
木は、生きている木にであっても、切られて加工された木であっても、ときどき深い亀裂をもっている。その亀裂は何によって生じたか。それは、問わない。その亀裂にも光が射す。陽射しが射す。光はどこまでもまっすぐに進む。角度によってはその奥部まで光は届かないけれど、角度によっては最奥部にも届く(可能性がある)。その光は亀裂をきっとさらに深く押し広げるだろう。
そのあと、光は引き返してゆき、かわりに闇が亀裂のなかへ入ってくる。どこまでもどこまでも。光と違って、何にも邪魔されず、ほんとうに奥部まで入ってくる。
こういう「往復」。よろこびと悲しみ、なのか。希望と落胆、なのか。正反対のものが木の内部で入れ替わりながら、さらにさらに「奥」を深めていく。--こういうことって、人間にはないだろうか。
あるなあ。
それを具体的にいうことは難しいけれど、そういう感じのことって、あるなあ、と心底思う。
何があったのか なかったのか
詩は、そうつづくのだが、そう、何があったのか、なかったのか--それははっきりとは言えない。言えないけれど、あったことは「事実」なのである。何があったか言えないから、それは「客観的事実」ではない。けれど、「事実」は別に他人にいうべきことでもない。自分の「事実」は他人がどんなふうに認めようが関係がない。「主観的事実」。そういうもの、合理主義から排除された「主観的事実」というものがある。「客観」が「ない」と言っても「主観」は「ある」と言い張ることができるものがある。
もう、ここまで来ると「長椅子」ではないね。佐々木が長椅子をみて「思ったこと」、つまり佐々木の「主観」だね。
この「主観」を論理的に、説得力のある演説のようにではなく、ぽつんぽつんと放り出すように解き放っていく。その呼吸が一行空きのリズムだね。佐々木の肉体の呼吸のし方、肉体の運動の「主観」(付随筋のように、無意識に動いてしまう)が自然にひろがってくる。
何があったのか なかったのか
ただどーんと投げ出され
いつしか朽ちる時を待つ
それはもう長々と寝そべったまま
鳥が糞を垂れ流そうともなめくじや蟻がどのように歩き回ろうとも
こそばゆいとも痛いとも
野の中に置かれ野の中にさらされ
それはもう長々と寝そべって長々と
ひがな一日寝そべったまま
あるがまま野の中にゆだねたまま
起きたことすべてもまた「あるがまま」だったのだ。
ここ、あそこ―詩集 | |
佐々木 洋一 | |
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