三上寛「ひびけ電器釜!!」(「ココア共和国」15、2014年05月01日発行)
三上寛「ひびけ電器釜!!」は1970年の作品。その1連目。
当時、私はどんな感じでこういう詩を読んだのかなあ。過激なことばの結びつきと、その音(リズム)のよさにかっこいいなあ、と思っただろうなあ。
「キンタマはときどき叙情的だ」というのは手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い以上に詩的だが、よく見ると、その直前の「赤とんぼ」と「叙情的」が通い合っている。「片目の」というのも、この場合、センチメンタルだ。過激に見えるけれど、どこかにセンチメンタルがひそんでいる。過激とセンチメンタルのどちらにつよく反応していたか--うーん、難しい。私は過激なこととは縁遠い田舎に住んでいたので、たぶんセンチメンタルに反応していたと思う。
その「癖」はいまでも残っている。
「キンタマ」は1行飛び越して「ペンペン草は肉欲だ」の「肉欲」とつながる。その前の「泥沼の奥底」ともつながる。泥沼、奥底にキンタマではなくペニスの相手方を感じてしまう。セックスを思ってしまう。
「意味」だね、つまり。(センチメンタルというのは「意味」ということだ。)
私は、こそには明確には書かれていないけれど、青春の荒々しいセックスという「意味」を折り込んでしまう。
「肉欲」から「赤いまむし」(赤まむし)への連結なんて、俗な感じがいいなあ。何にでも「肉欲」を感じる時代だから、「赤いまむし」は肉体にとっては必需品ではないが、精神にとっては刺激剤だ。そうか、「赤いまむし」が必要になるまで、あるいは必要になってもまだセックスをするというのが強者というのか……。
そういう半分、聞きかじったような世界と「生命は神の八百長よ」が不思議とどこかで通じる。生命は、セックスからはじまるからねえ。そして、そこで新しい命が誕生するかどうか。自然の成り行きだけれど、「八百長」と言ってしまうのがいいなあ。これは「あみだくじだ」と言うのと等しいのだけれど。(で、そういう偶然の妊娠などと響きあうのが、後半に出てくる「堕胎児」だね。生まれるか、堕胎されてしまうか、それも「神の八百長」みたいなものである。--倫理の教科書ではないので、そう書いておく。)
なんて、書いていくと、またまた「意味」だらけ。
三上は「意味」を叩き壊したくてことばを暴走させるのだろうけれど、ことばはどんなに暴走しても「意味」につかまってしまう。私の書いた「意味」が三上の「意図」と関係がなくても、あるいは関係がないからこそ(つまり、私の読み方が間違っているからこそ)、「意味」につかまってしまう。三上は正しい解釈ではないのだからつかまえられていないというかもしれないが、「正しい解釈ではない」ということが、三上がすでに「意味」にからめ捕られているということになるし、三上の考えがどんなものであり、私の頭は「意味」としてつかんでしまう。処理してしまう。
「意味」というのは、わけのわからないものに出会ったとき、それを「理解」しようとする精神のなかに生まれてくる。つまり、詩を書いた三上とは関係なく、それを読んだ私のなかに別の形で生まれてくる。私の頭が、わけのわからないものを、「わけのわかるように」ととのえてしまう。ことばの経済学を勝手にでっちあげ、「合理的」にしてしまう。そして、そのことばの経済学(合理主義)は、どんなふうにでもできる。
三上の書いていることば以上に、私の読み方の方がでたらめであり、どんなふうにでも変更できるいいかげんなものなのだ。世の中に「意味」ほどいいかげんで、自分勝手なものはない。
どうやったら「意味」から離れることができるのか。
私は音痴だし、音楽に強い感心があるわけでもなく、「歌手」三上寛というのもまったく知らない。曲を聴いたこともない。で、適当なことを書くのだが……。
この一行がおもしろいのは、「キンタマ」と「叙情」の「意味」の衝突だけではない。音がおもしろい。私は音読をしないが、音が耳にひびいてくる。「キンタマ」には「ン」という無母音の音がある。一方「叙情」にはのばす音(じょう)がある。その対比がおもしろいし、「キン」と「じょ」、「タマ」と「じょう」の短い音+長い音の組み合わせが重なるところが、「意味」を超えて、音として重なり合う。リズムが重なり合う。「意味」は変な結合なのだが、音はぴったり呼吸が合う。それが、なんとなく、「わかる」。私の「肉体」が「キンタマ」と「叙情」は声に出すとき、似たものがあると感じてしまう。それで、おもしろいなあ、と感じる。
さらに「ときどき」のなかに現れる濁音、それが「叙情的だ」と出会い、豊かに響きあう。
という行にも「音楽」がある。音の響きあいがある。「あ」の音の交錯、「ま行」のゆらぎ、濁音の響き。「し」が「じ」と濁音に変わるとき、口蓋のくすぐったいような感じ。これが楽しい。
この音楽をどこまで持続できるか--それが、この詩のやろうとしていることだね。どこまで音楽を暴走させることができるか。別に、「どこまで」にこだわることもない。こだわると、またそれが「意味」になってしまうからね。
私は「キンタマはときどき叙情的だ」という行と「赤いまむしのあみだくじだ」が気に入ったと書いておく。「生命は神の八百長よ」の「八百長よ」という響きも気に入った。(ただし「生命は」は、重くて気に食わない。)
また2連目には「キンタマはときどき叙情的だ」に似た感じて、やっぱり3行目に(ということは、詩の構造を三上は意識しているということだと思う)、
という行がある。あ、でも、これは「意味」的すぎる。どんな意味?と問われたら答えられないのだけれど、「フンドシ」と「政治」では音に共通するものがなさすぎて、読んでいて口のなかがぱさぱさする。
*
新作(?)の「遠い街角」。
「意味」は「白々しい」から「白々しくない」へと変化しているのだが、単にことばだけのこと、文法だけの問題であり、「私は白々しい。/白々しい夜が明けると/私は/なお白々しい」あるいは「さらに白々しくなる」「白々しいと書きたくなくなる」「白々しくないと書くこともできる」などと、どんな違いがあるのか、肉体に響いてくるものがない。
三上寛「ひびけ電器釜!!」は1970年の作品。その1連目。
飛んでいくのか
片目の赤とんぼ
キンタマはときどき叙情的だ
泥沼の奥底は
ペンペン草の肉欲だ
赤いまむしのあみだくじだ
生命は神の八百長よ
希望の道は下水道だ
地球のことばは天ぷらよ
洗濯バコミにはさまれた太陽で
俺たちあしたを何で決める
何で決める
楽しい僕らの買物かごに
ひと山いくらの堕胎児が
ひびけ電気釜!
輝け納豆よ!
燃えろふしあわせよ!
殺すな俺を!
当時、私はどんな感じでこういう詩を読んだのかなあ。過激なことばの結びつきと、その音(リズム)のよさにかっこいいなあ、と思っただろうなあ。
「キンタマはときどき叙情的だ」というのは手術台の上のミシンとこうもり傘の出会い以上に詩的だが、よく見ると、その直前の「赤とんぼ」と「叙情的」が通い合っている。「片目の」というのも、この場合、センチメンタルだ。過激に見えるけれど、どこかにセンチメンタルがひそんでいる。過激とセンチメンタルのどちらにつよく反応していたか--うーん、難しい。私は過激なこととは縁遠い田舎に住んでいたので、たぶんセンチメンタルに反応していたと思う。
その「癖」はいまでも残っている。
「キンタマ」は1行飛び越して「ペンペン草は肉欲だ」の「肉欲」とつながる。その前の「泥沼の奥底」ともつながる。泥沼、奥底にキンタマではなくペニスの相手方を感じてしまう。セックスを思ってしまう。
「意味」だね、つまり。(センチメンタルというのは「意味」ということだ。)
私は、こそには明確には書かれていないけれど、青春の荒々しいセックスという「意味」を折り込んでしまう。
「肉欲」から「赤いまむし」(赤まむし)への連結なんて、俗な感じがいいなあ。何にでも「肉欲」を感じる時代だから、「赤いまむし」は肉体にとっては必需品ではないが、精神にとっては刺激剤だ。そうか、「赤いまむし」が必要になるまで、あるいは必要になってもまだセックスをするというのが強者というのか……。
そういう半分、聞きかじったような世界と「生命は神の八百長よ」が不思議とどこかで通じる。生命は、セックスからはじまるからねえ。そして、そこで新しい命が誕生するかどうか。自然の成り行きだけれど、「八百長」と言ってしまうのがいいなあ。これは「あみだくじだ」と言うのと等しいのだけれど。(で、そういう偶然の妊娠などと響きあうのが、後半に出てくる「堕胎児」だね。生まれるか、堕胎されてしまうか、それも「神の八百長」みたいなものである。--倫理の教科書ではないので、そう書いておく。)
なんて、書いていくと、またまた「意味」だらけ。
三上は「意味」を叩き壊したくてことばを暴走させるのだろうけれど、ことばはどんなに暴走しても「意味」につかまってしまう。私の書いた「意味」が三上の「意図」と関係がなくても、あるいは関係がないからこそ(つまり、私の読み方が間違っているからこそ)、「意味」につかまってしまう。三上は正しい解釈ではないのだからつかまえられていないというかもしれないが、「正しい解釈ではない」ということが、三上がすでに「意味」にからめ捕られているということになるし、三上の考えがどんなものであり、私の頭は「意味」としてつかんでしまう。処理してしまう。
「意味」というのは、わけのわからないものに出会ったとき、それを「理解」しようとする精神のなかに生まれてくる。つまり、詩を書いた三上とは関係なく、それを読んだ私のなかに別の形で生まれてくる。私の頭が、わけのわからないものを、「わけのわかるように」ととのえてしまう。ことばの経済学を勝手にでっちあげ、「合理的」にしてしまう。そして、そのことばの経済学(合理主義)は、どんなふうにでもできる。
三上の書いていることば以上に、私の読み方の方がでたらめであり、どんなふうにでも変更できるいいかげんなものなのだ。世の中に「意味」ほどいいかげんで、自分勝手なものはない。
どうやったら「意味」から離れることができるのか。
私は音痴だし、音楽に強い感心があるわけでもなく、「歌手」三上寛というのもまったく知らない。曲を聴いたこともない。で、適当なことを書くのだが……。
キンタマはときどき叙情的だ
この一行がおもしろいのは、「キンタマ」と「叙情」の「意味」の衝突だけではない。音がおもしろい。私は音読をしないが、音が耳にひびいてくる。「キンタマ」には「ン」という無母音の音がある。一方「叙情」にはのばす音(じょう)がある。その対比がおもしろいし、「キン」と「じょ」、「タマ」と「じょう」の短い音+長い音の組み合わせが重なるところが、「意味」を超えて、音として重なり合う。リズムが重なり合う。「意味」は変な結合なのだが、音はぴったり呼吸が合う。それが、なんとなく、「わかる」。私の「肉体」が「キンタマ」と「叙情」は声に出すとき、似たものがあると感じてしまう。それで、おもしろいなあ、と感じる。
さらに「ときどき」のなかに現れる濁音、それが「叙情的だ」と出会い、豊かに響きあう。
赤いまむしのあみだくじだ
という行にも「音楽」がある。音の響きあいがある。「あ」の音の交錯、「ま行」のゆらぎ、濁音の響き。「し」が「じ」と濁音に変わるとき、口蓋のくすぐったいような感じ。これが楽しい。
この音楽をどこまで持続できるか--それが、この詩のやろうとしていることだね。どこまで音楽を暴走させることができるか。別に、「どこまで」にこだわることもない。こだわると、またそれが「意味」になってしまうからね。
私は「キンタマはときどき叙情的だ」という行と「赤いまむしのあみだくじだ」が気に入ったと書いておく。「生命は神の八百長よ」の「八百長よ」という響きも気に入った。(ただし「生命は」は、重くて気に食わない。)
また2連目には「キンタマはときどき叙情的だ」に似た感じて、やっぱり3行目に(ということは、詩の構造を三上は意識しているということだと思う)、
フンドシはときどき政治的だ
という行がある。あ、でも、これは「意味」的すぎる。どんな意味?と問われたら答えられないのだけれど、「フンドシ」と「政治」では音に共通するものがなさすぎて、読んでいて口のなかがぱさぱさする。
*
新作(?)の「遠い街角」。
私は白々しい。
白々しい夜が明けると
私は
『白々しくない』。
「意味」は「白々しい」から「白々しくない」へと変化しているのだが、単にことばだけのこと、文法だけの問題であり、「私は白々しい。/白々しい夜が明けると/私は/なお白々しい」あるいは「さらに白々しくなる」「白々しいと書きたくなくなる」「白々しくないと書くこともできる」などと、どんな違いがあるのか、肉体に響いてくるものがない。
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