詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

根本明『海神の、います処』

2014-05-19 11:08:19 | 詩集
根本明『海神の、います処』(思潮社、2014年05月01日発行)

 根本明『海神の、います処』を読みながら、私は、「土着」ということばを思い出す。ことばが土着している感じがする。「土地」がある感じがする。ことばというのは、いろいろなところを通って出てくるものだが、根本のことばは「土地」から出てくる。で、そのことが非常に気になる(私の「気持ち」を不安定にさせる)のは、私がその「土地」を知らないからだ。「土地」が書かれていることがわかる、その「土地」抜きにしては根本の詩が成り立たないことがわかるが、……私はその「土地」を知らない。そのためにかえって、強く「土地」を感じる。「知らない」ということが、「事実」の見えなさとして、どんと立ちはだかる感じだ。
 「潮干のつと」という作品。

東京湾東岸の美術館に
浜の香が粗くしぶく
歌麿の絵本「潮干のつと」がめくられてあるのだ
赤青の小さな巻貝やら二枚貝
緑藻類に昆布の大墨痕が
柔らかな筆で配されて
潮濡れた可憐な生き物たちを
掌上にする人々のよろこびを伝え
私をひろびろとはずませる
潮干のつととは
海神に下賜された恩寵の謂い
あまねく潮干のつとでないものはなかった

 「潮干のつと」ということばがわからない。「潮干」は「干潮」ということばを思い起こさせるが、引き潮のことがどうか、わからない。「つと」はまったくわからない。
 そういうわからないことがあるのだけれど、歌麿の絵本「潮干のつと」のなかの風景は根本のことばから、ぼんやりとわかる。海辺。海辺に貝が散らばっている。海藻も打ち上げられている。(あるいは、引き潮でできた「浅い潮溜り」の様子かもしれないが、まあ、海辺である。)それを人々がとっている。「掌」に載せている(手で持っている)。人はうれしそうだ。その人のよろこびが、絵からつたわってくる。
 朝の風景かなあ。枕草子「冬はつとめて」の「つと」。でも、あれは「つとめ+て」というような感じの響きだったなあ。よくわからない。「つとめて」ということばが現実につかわれるのを聞いたことがないので、見当のつけようがない。(私は頭がぼんくらにできているのか、実際にそのことばが誰かの口から出るのを聞いたものでないと、何のことかわからない。その状況が身の回りにないと、「意味」にならない。)
 私は海の近くで育ったわけではない。実際の海の早朝を知っているわけではない。けれど、海が荒れて、その荒れがおさまって、潮が引いた翌朝の海辺の汚れの明るさは見たことがある。(昼に近いから、「つとめて」ではないのだけれど……。)その匂い、その輝きに、肉体が酔っぱらうように感じたことがある。
 そういう感じと、根本の書いている「私をひろびろとはずませる」が重なる。「浜の香が粗くしぶく」がぴったりに感じられる。--で、そういう「感じ」が私の「誤読」なのかもしれないけれど、「誤読」ということを棚に上げて、私は「この詩はいい詩だなあ」と思う。私はわがままな人間なので、自分の感じにぴったりなものがあれば、それが「いい詩」、なければ「悪い詩」という具合に思ってしまう。
 そして、「いい詩」だなあと思いながら、何か不透明なものも感じる。私がたどりつけない何かを感じる。それが、

つと

 「つと」って何?
 たぶん、歌麿の描いた絵の海辺、東京湾(?)の近くの海辺で、人が貝や藻を拾い集めながら「つと」ということばをつかう瞬間に出会えれば、「あ、これが『つと』か」とわかるのだと思う。そのぼんやりした感じで「つと」をつかうと、あ、何か勘違いしているという顔をして地元の人からみられる。「まあ、よその土地の人だから、はっきりわからなくもいいことにしておこう(くすくす)」くらいな感じで受け入れられ、それが何度も繰り返されて私の「つと」解釈が訂正されていく--そういう「時間」を含めて存在する「土地」が「つと」ということばを育てている。「つと」は「土着」しないと、ほんとうはわからない何かだ。
 根本は、「潮干のつと」を「海神に下賜された恩寵の謂い/あまねく潮干のつとでないものはなかった」と説明しているけれど、うーん、これ、日本語? 「日本語で言いなおしてくれない」と言いたいくらい「意味」がわからない。英語やスペイン語に翻訳しなおしてくれた方が「意味」がわかるかもしれない。あまりにも根本の「頭」のなかのことばが強すぎて、この二行からは「海辺」も「人々」も消えてしまっている。
 これは根本も感じているのかな? 反省(?)するように、二連目のことばは「海辺」という「土地」へかえっていく。「土地(の風景)」と一緒に動いている。

しおひのつと、と
祈りのように口ずさむ言葉は
弦月のように東岸の潮をひきしぼり
舟溜まりの舟を打ち合わせ軒々に干物を吊るし
沖の洲の千鳥たちに無数の小笛を吹かしめる

 静かでのどかな、光溢れる海辺の風景がみえる。そういう風景といっしょにあるのが「しおひのつと」なのだ。漢字を割り振りされる前の、「音」としてのことば。まだ「意味」がわからないまま、そのことばを聞いたこどものように、私は風景の「全部」と「しおひのつと」を結びつける。それから「つと」に向かって、焦点が絞り込まれるようにことばが動いているのを待つ。
 そうすると……。

私は聴く
はだかの海人の男女が一列にかがみ
はるかな時の影に滲みながらすなどっていく
あの猥雑な哄笑を

 あ、海が荒れていたとき、することがないから(?)、男と女は夜中猥雑なことをしていたんだな。そして翌朝(つとめて)、荒らしがおさまり潮が引いた浜辺で、荒らしの海が運んできたものをかき集めている。きのうの夜の猥雑なことを貝だとか昆布だとかに託しながら。ほのめかしながら。あるいは歌いながら、大きな声で笑いながら。

さらに聴く
海崖の松林で小さなものなら
草書のように乱した歌をうたうのを
幼い私もその中にあり
わざ歌を
海神の御告げをうたっていたのではないか

 「わざ歌」とは「わいせつな歌」(猥歌)だろうか。やっと静まった海辺(でも、まだ荒れた海の名残はある海辺で)で大人がきのうの夜のことを歌っている。笑っている。「意味」がわからないまま、そのことばをなぞって歌う「小さなものら(子ども)」。ことばはいつも「意味」よりまえに、「音」があり、その「音」といっしょに動いている「場/土地/土着の人間」がある。
 同じ「音」を何度も何度も繰り返しているうちに、それが「肉体」のなかで「説明を必要としない意味」にかわる。「おぼえていること」になる。
 その「おぼえていること」が、歌麿の「潮干のつと」を見たとき、根本の「肉体」のなかでぱっと広がったんだな、と思った。その広がるときの動きが、躍動したまま、この詩のなかにはあると思った。

海神のいます処
根本 明
思潮社
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中井久夫訳カヴァフィスを読む(58)

2014-05-19 06:00:00 | カヴァフィスを読む
中井久夫訳カヴァフィスを読む(58)          

 「街路にて」は二通りの読み方ができると思う。カヴァフィスと「禁断の快楽」を味わった若者が去っていくときの様子を描いているという読み方と、誰かと密会してきた若者とカヴァフィス街路ですれ違ったときの様子を描いているという読み方。後者の方で読み進めてみることにする。

その魅惑の顔はやや蒼かった。
鳶色の眼が疲れをみせつつ宙を見つめていた。

 「眼が疲れをみせつつ(みせている)」という表現はだれもがするけれど、これは考えてみるとなかなかおもしろい表現である。「みせつつ」といいながら、「疲れ」を眼自身が見せるわけではない。見る側が読み取る。たとえばカヴァフィス以外の誰かが、この詩の主人公である若者とすれ違ったとしても、「眼が疲れをみせ」ているとは思わないかもしれない。眼に注目しないかもしれない。カヴァフィスが眼に注目し、眼に疲れを読み取った。そして、そこに「疲れ」を読み取るとき、単に「疲れ」だけを読み取るわけではない。「なぜ疲れたのか」。その「なぜ」を読み取る。
 ここから「男色」がはじまる。見知らぬ誰かが疲れていたとしても、そんなことはふつうの人間にとっては関係がない。なぜ疲れたのかということは、もっと関係がない。それを読み取ってしまうのは、カヴァフィス自身がその「疲れ」に関与したいからである。
 すでに関与した結果であるなら、詩は、少し違っていた形になるだろう。「疲れをみせつつ宙を見つめていた」とはならないだろう。「宙を見つめている」はカヴァフィスを見つめていないということである。カヴァフィスに気づいていないということである。彼は、余韻のなかにいる。そのこともカヴァフィスは、読み取っている。

その子は漂って行く、街路を、あてどなく、
たった今味わった禁断の快楽の
麻酔がまだ切れないかのように--。

 こういう「漂い」を読み取ってしまうのは、カヴァフィス自身がそういうことをしてきたからだろう。それも同じ「街路」で、繰り返し。あのときは、「麻酔がまだ切れないかのように」漂っていた。それは裏返せば、いまは、その「麻酔」が切れてしまっている。「禁断の快楽」はカヴァフィスからは遠いということかもしれない。
 カヴァフィスは街路ですれ違った若者を見つめながら、遠い昔の自分になっている。「若者」になっている。彼もまた「魅惑の横顔」を持っているのだろう。
 「禁断の快楽」というのは、少し露骨な言い方かもしれない。「流通言語」に過ぎなくて味気ないかもしれない。しかし、こういう「みえすいた」ことばをばらまきながら、「疲れをみせつつ」の「みせる」という表現のなかに、自分をそっと隠しておくところがカヴァフィスの不思議な魔法だ。「禁断の快楽」がもっと個性的な表現だった場合、きっと「みせつつ」ということばのなかにあるものが見えなくなる。

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