中井久夫訳カヴァフィスを読む(65) 2014年05月26日(月曜日)
「感覚のよろこびに」はとても短い詩。
四行しかない。しかも一行目と三行目は同じことばの繰り返し。
この四行を詩として存在させていることばは何だろう。
「望みどおり」である。「望みどおり」が具体的にどんなことを指しているのかカヴァフィスは書かない。それでも「望みどおり」ということばに詩がある。そこには「過去」が噴出してきている。カヴァフィスは、それまでかなえられない「望み」をもっていた。「望み」がかなえられなかったから、次々に恋人を変え、情事に耽ったのだろう。
けれど、カヴァフィスはそれを「みつけ」「捉えた」。「望み」が現実になった。
しかし、その「現実」は長くはつづかなかった。「思い出よ」ということばが、その「現実」がすでに過去であることを語っている。
カヴァフィスの恋には過去しかない。
そして、この「いま」の欠如、「過去」の時間しかないということが、カヴァフィスの詩に不思議な清潔さを与えている。繰り返し繰り返し男色の詩を書いても、「喜び」とか「情事に耽る」とか書いても、そこでは「肉体」は動かない。「いま」を動かし、充実させるわてではない。肉体から、遠く離れしまったことばだけが動いている。「いま/ここ」でカヴァフィスは男色に耽っているのではない--ということが、詩をさっぱりしたものにしている。
最終行も、「望みどおり」のことがすでに「過去」であることを語っている。そのことを語ることばのなかで「拒んだ」が非常に印象的だ。
カヴァフィスは男色を生きている。しかし、どこかで、それに耽ること、溺れてしまうことを拒んでもいる。そこから離れている。そして、恋人の記憶そのものというよりも、「拒んだ」という自分の肉体のなかに残る自分自身の記憶を味わっている。これは一種のナルシスかもしれないが、他人に溺れるのではなく、あくまで自分のなかで生きていくという「距離感」のようなものが、カヴァフィスの詩を清潔にしている。
詩にしろ、ほかの文学にしろ、芸術は対象から離れて、独立して存在するものだから、そこには対象との距離がある。「一体になる」と言っても、そこには隔たりがある。そういうことをカヴァフィスは強く意識している。
「感覚のよろこびに」はとても短い詩。
わがいのちの喜びと香り。
望みどおりの喜びをみつけ捉えた思い出よ。
わがいのちの喜びと香り。
私はありきたりの情事に耽るのを拒んだのだよ。
四行しかない。しかも一行目と三行目は同じことばの繰り返し。
この四行を詩として存在させていることばは何だろう。
「望みどおり」である。「望みどおり」が具体的にどんなことを指しているのかカヴァフィスは書かない。それでも「望みどおり」ということばに詩がある。そこには「過去」が噴出してきている。カヴァフィスは、それまでかなえられない「望み」をもっていた。「望み」がかなえられなかったから、次々に恋人を変え、情事に耽ったのだろう。
けれど、カヴァフィスはそれを「みつけ」「捉えた」。「望み」が現実になった。
しかし、その「現実」は長くはつづかなかった。「思い出よ」ということばが、その「現実」がすでに過去であることを語っている。
カヴァフィスの恋には過去しかない。
そして、この「いま」の欠如、「過去」の時間しかないということが、カヴァフィスの詩に不思議な清潔さを与えている。繰り返し繰り返し男色の詩を書いても、「喜び」とか「情事に耽る」とか書いても、そこでは「肉体」は動かない。「いま」を動かし、充実させるわてではない。肉体から、遠く離れしまったことばだけが動いている。「いま/ここ」でカヴァフィスは男色に耽っているのではない--ということが、詩をさっぱりしたものにしている。
最終行も、「望みどおり」のことがすでに「過去」であることを語っている。そのことを語ることばのなかで「拒んだ」が非常に印象的だ。
カヴァフィスは男色を生きている。しかし、どこかで、それに耽ること、溺れてしまうことを拒んでもいる。そこから離れている。そして、恋人の記憶そのものというよりも、「拒んだ」という自分の肉体のなかに残る自分自身の記憶を味わっている。これは一種のナルシスかもしれないが、他人に溺れるのではなく、あくまで自分のなかで生きていくという「距離感」のようなものが、カヴァフィスの詩を清潔にしている。
詩にしろ、ほかの文学にしろ、芸術は対象から離れて、独立して存在するものだから、そこには対象との距離がある。「一体になる」と言っても、そこには隔たりがある。そういうことをカヴァフィスは強く意識している。