中田満帆『38wの紙片』(A MISSING PERSON’SPRESS 2014年03月12日改訂第二版発行)
中田満帆『38wの紙片』は写真と詩の組み合わせ。私は眼が悪いので(どんどん悪化しているので)、最近は影像をみて何かを考えるということが苦痛になってきている。で、中田には申し訳ないが、写真は見ないことにしてことばだけを読みはじめたのだが。
たとえば「港」の書き出し。
あ、これは影像以上に映像的だ。「日が長くなりつつある」という光の変化(時間の変化)を、2行目の「影」が引き継ぐ。影が長くなるのは、日が長くなるときよりも日が短くなる秋の方が印象が強いけれど、中田のことばのなかを動くと、日が長くなったように影が伸びて、その影のさきっちょという具合に、視線がひっぱられてゆく。生えてきた影を見ながら日がながくなった、いや「なりつつある」と中田が感じていることがわかる。過去形ではなく、現在進行形で変化を感じていることがわかる。眼の力が強い人だ、中田は。
光(空中)→影(地上/生えてきた足元)→さきっちょ(足の向かう先)と進んできた視線が、そのまま前方をとらえ、そこに知らない男らを見つける。この視線の動きは自然だ。映画のカメラの動きを見ているような感じがする。その移動を、そのままことばにする中田は、動体視力(動いているものを識別する視力)が強いのだろう。ここではたまたま「影」が書かれているが、影がなくても光の変化だけで、もう中田は「ひがながくなりつつある」の「なりつつ」をつかみとっているのかもしれない。
書き出しにつづく4行だが、「港がすぐそこまで近づき」の「近づき」がとてもいい。中田の足が男らの方に近づく。これは人間だから、ありうる。しかし「港(海)」が「近づく」というような動きをするわけではない。港(海)はそこにあって動かない。しかし、中田が男らに近づいていくとき、海が見えてきたので、まるで海が中田と一緒に「近づいた」ように感じる。海が近づいたのではなく、中田が海に近づき、海に気がついたのだが、まるで海が動いてきたような感じ。ここに一種の感覚の混乱があるのだが、その混乱は感覚の覚醒でもある。混乱こそが覚醒であるということを中田は知っている。(ちらりと見た写真はどれも不鮮明な印象があるが、中田はこの不鮮明こそが覚醒の契機であるとわかっていて、そういう写真を撮るのだろう。)
ことばの動きにスピードがあり(動きそのものはゆっくりなのに、覚醒しているから早く感じる、ことばに無駄がないのでスピードを感じる)、そのことばがひとつひとつしっかりした影像に結晶していくので、どの強い眼鏡で世界を網膜に焼き付けるような感じるする、とても魅力的な詩のはじまりだ。
そのあとの「聞きとれない声でなにごとかをいって」は中田が視覚人間であることを象徴するような行である。「聞きとれない声」、しかし「なにごとかをいって」いることはわかる。視力があくまで強靱に動くのに対して、聴覚は世界に対してそんなに厳しくない。聴覚で情報を処理しようとしていない。
これをぼんやりした影像(写真)に結びつけて言いなおすと、中田は肉眼の視力が強靱すぎて、その肉眼で見ているエッジの厳しい覚醒した世界に苦悩しているために、写真をぼんやりしたものにすることで無意識の調和をはかっているのかもしれない。(ちらっとみた写真の印象だけで書いているので、まちがっているかもしれないが……。)
聴覚は世界を一瞬かすめるが、中田のことばは、また視力の世界へかえっていく。「遊びつかれたかっこう」の「かっこう」は「見た目」であろう。見た目--見る眼は、「作業着」にたどりつく。
男らは作業着を着ているのではなく、作業着に抱かれている。この「抱く」という動詞のつかい方は港が「近づき」の「近づく」という動詞のつかい方に似ている。本来ならば「能動」ではありえないものが自分の意思をもって動いている。
中田には「もの」が「動く」瞬間が見えるのだろう。私たちが「もの」は「不動」である、「もの」は「動けない」と簡単に信じきってしまっているが、その「常識」を視力の力でこじ開けていく。視力を中心にすれば、あらゆることは「能動」として言い換えられる。
同じように、
「見える」という「動詞」を省略して中田はことばを動かしている。それは「見る/見える」ということがあまりにも「肉体」となってしまっているからである。「思想」になって、それが無意識として動いているからである。思想になってしまっていること/肉体になってしまっていることは、そのひとにとってはわかりきったことなので、どうしても省略してしまうのだ。
私は、こういう肉体になってしまった思想をことばのなかに探すのが好きだ。そのことばに出会ったとき、その人に直接会っているような感じがする。
脱線した。
詩にもどると、詩は次のようにつづいている。
ここにも「見える」が随所に省略されている。
これはさらに進んで「動詞」を「見る」から「見る」ことによってものに「動詞」を与えるというふうに変わっていく。「動詞」を変形させてしまう。「動詞」によって、「もの」自体を「生き物」にしてしまう。作業着に「抱かれ」も、そのひとつではあるのだけれど、それよりももっと強烈な「変化」があらわれる。
これは、
なのだが、いままでの「ように見える」動詞とは何かが違う。作業着が「抱く」、作業着に「抱かれる」は、その動詞が、何と言えばいいのか、一種類だが、「だだをこねる」はさらに「動詞」を引き寄せる。「動詞」を生み出していく。
外国船がどんなふうに「だだをこねる」かというと、
「動きたくない」「眠らせてくれ」は「不動」という「動作」に収斂してしまうけれど、それでも「だだをこねる」とは別の「動詞」である。
こういう世界の変化を、中田はすべて「見る」という動詞から引き出している。そして、あたらしく生み出している。
*
少し引き返して、補足。
「見る」と「ように見える」の違い。「ように見える」は「……のように、私は見る」ということであり、それは「主観」で世界にかかわっていくということである。「見る/見える」が生理現象(物理現象)の運動として把握するだけではなく、それを「ねじまげていく」ことである。ねじまげることで、世界を新しくすることである。そうやってできた新しい世界、生み出された世界が「詩(芸術)」である。
中田満帆『38wの紙片』は写真と詩の組み合わせ。私は眼が悪いので(どんどん悪化しているので)、最近は影像をみて何かを考えるということが苦痛になってきている。で、中田には申し訳ないが、写真は見ないことにしてことばだけを読みはじめたのだが。
たとえば「港」の書き出し。
日がながくなりつつある
おれの足に生えてきた影のさきっちょ
知らない男らが倉庫のあたりで
ゲームをしていた
あ、これは影像以上に映像的だ。「日が長くなりつつある」という光の変化(時間の変化)を、2行目の「影」が引き継ぐ。影が長くなるのは、日が長くなるときよりも日が短くなる秋の方が印象が強いけれど、中田のことばのなかを動くと、日が長くなったように影が伸びて、その影のさきっちょという具合に、視線がひっぱられてゆく。生えてきた影を見ながら日がながくなった、いや「なりつつある」と中田が感じていることがわかる。過去形ではなく、現在進行形で変化を感じていることがわかる。眼の力が強い人だ、中田は。
光(空中)→影(地上/生えてきた足元)→さきっちょ(足の向かう先)と進んできた視線が、そのまま前方をとらえ、そこに知らない男らを見つける。この視線の動きは自然だ。映画のカメラの動きを見ているような感じがする。その移動を、そのままことばにする中田は、動体視力(動いているものを識別する視力)が強いのだろう。ここではたまたま「影」が書かれているが、影がなくても光の変化だけで、もう中田は「ひがながくなりつつある」の「なりつつ」をつかみとっているのかもしれない。
港がすぐそこまで近づき
聞きとれない声でなにごとかをいって
やがて遊びつかれたかっこうの男らは作業服に抱かれて
そのなかへ飛びこんでいった
書き出しにつづく4行だが、「港がすぐそこまで近づき」の「近づき」がとてもいい。中田の足が男らの方に近づく。これは人間だから、ありうる。しかし「港(海)」が「近づく」というような動きをするわけではない。港(海)はそこにあって動かない。しかし、中田が男らに近づいていくとき、海が見えてきたので、まるで海が中田と一緒に「近づいた」ように感じる。海が近づいたのではなく、中田が海に近づき、海に気がついたのだが、まるで海が動いてきたような感じ。ここに一種の感覚の混乱があるのだが、その混乱は感覚の覚醒でもある。混乱こそが覚醒であるということを中田は知っている。(ちらりと見た写真はどれも不鮮明な印象があるが、中田はこの不鮮明こそが覚醒の契機であるとわかっていて、そういう写真を撮るのだろう。)
ことばの動きにスピードがあり(動きそのものはゆっくりなのに、覚醒しているから早く感じる、ことばに無駄がないのでスピードを感じる)、そのことばがひとつひとつしっかりした影像に結晶していくので、どの強い眼鏡で世界を網膜に焼き付けるような感じるする、とても魅力的な詩のはじまりだ。
そのあとの「聞きとれない声でなにごとかをいって」は中田が視覚人間であることを象徴するような行である。「聞きとれない声」、しかし「なにごとかをいって」いることはわかる。視力があくまで強靱に動くのに対して、聴覚は世界に対してそんなに厳しくない。聴覚で情報を処理しようとしていない。
これをぼんやりした影像(写真)に結びつけて言いなおすと、中田は肉眼の視力が強靱すぎて、その肉眼で見ているエッジの厳しい覚醒した世界に苦悩しているために、写真をぼんやりしたものにすることで無意識の調和をはかっているのかもしれない。(ちらっとみた写真の印象だけで書いているので、まちがっているかもしれないが……。)
聴覚は世界を一瞬かすめるが、中田のことばは、また視力の世界へかえっていく。「遊びつかれたかっこう」の「かっこう」は「見た目」であろう。見た目--見る眼は、「作業着」にたどりつく。
男らは作業着を着ているのではなく、作業着に抱かれている。この「抱く」という動詞のつかい方は港が「近づき」の「近づく」という動詞のつかい方に似ている。本来ならば「能動」ではありえないものが自分の意思をもって動いている。
中田には「もの」が「動く」瞬間が見えるのだろう。私たちが「もの」は「不動」である、「もの」は「動けない」と簡単に信じきってしまっているが、その「常識」を視力の力でこじ開けていく。視力を中心にすれば、あらゆることは「能動」として言い換えられる。
港がすぐそこまで近づき(い)「ているように見える」
男らは作業着に抱かれ「ているように見える」
同じように、
日がながくなりつつある「ように見える」
「見える」という「動詞」を省略して中田はことばを動かしている。それは「見る/見える」ということがあまりにも「肉体」となってしまっているからである。「思想」になって、それが無意識として動いているからである。思想になってしまっていること/肉体になってしまっていることは、そのひとにとってはわかりきったことなので、どうしても省略してしまうのだ。
私は、こういう肉体になってしまった思想をことばのなかに探すのが好きだ。そのことばに出会ったとき、その人に直接会っているような感じがする。
脱線した。
詩にもどると、詩は次のようにつづいている。
たくさんの
小銭と
札が
まきちらされ
なにかしら病気か
風船みたいに膨らんだ鳥どもがまっすぐに赤いクレーンを過ぐ
ここにも「見える」が随所に省略されている。
たくさんの
小銭と
札が
まきちらされ(ているのが見える)
なにかしら病気か
風船みたいに膨らんだ(膨らんで見える)鳥どもがまっすぐに赤いクレーンを過ぐ(るのが見える)
これはさらに進んで「動詞」を「見る」から「見る」ことによってものに「動詞」を与えるというふうに変わっていく。「動詞」を変形させてしまう。「動詞」によって、「もの」自体を「生き物」にしてしまう。作業着に「抱かれ」も、そのひとつではあるのだけれど、それよりももっと強烈な「変化」があらわれる。
そのとき
外国船がだだをこねはじめた
これは、
外国船がだだをこねはじめた「ように見えた」
なのだが、いままでの「ように見える」動詞とは何かが違う。作業着が「抱く」、作業着に「抱かれる」は、その動詞が、何と言えばいいのか、一種類だが、「だだをこねる」はさらに「動詞」を引き寄せる。「動詞」を生み出していく。
外国船がどんなふうに「だだをこねる」かというと、
--もうこっから動きたくないんだ
--ずっとここらで眠らせておくれよ
「動きたくない」「眠らせてくれ」は「不動」という「動作」に収斂してしまうけれど、それでも「だだをこねる」とは別の「動詞」である。
こういう世界の変化を、中田はすべて「見る」という動詞から引き出している。そして、あたらしく生み出している。
*
少し引き返して、補足。
「見る」と「ように見える」の違い。「ように見える」は「……のように、私は見る」ということであり、それは「主観」で世界にかかわっていくということである。「見る/見える」が生理現象(物理現象)の運動として把握するだけではなく、それを「ねじまげていく」ことである。ねじまげることで、世界を新しくすることである。そうやってできた新しい世界、生み出された世界が「詩(芸術)」である。
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