高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(6)(思潮社、2015年01月15日発行)
高橋睦郎は詩だけではなく短歌、俳句も書いている。能も書いている。「ことば」なら何でも書いている。その多様な作品を読むと、高橋にとってはまず「ことば」が先にあって、それからそれにあわせて「現実」を見ているのではないか、という気持ちさえしてくる。
「独吟歌仙 山めぐりの巻」がこの詩集に収録されている。その作品もおもしろいが、高橋自身が解説している文章「覚書」がおもしろい。
発句、脇。これについて、
詩の鑑賞にかぎらず、文学全般の鑑賞は、そこに書かれている「ことば」と「もの」を結びつけて鑑賞されることが多い。そのことばは何を指しているか。それを正確に把握する。それを作者の意図とは違ったものとして読み取ると「誤読」と言われる。
ところが「歌仙(連歌)」では、「誤読」しないと先に進まない。「誤読」を作法としている。作者の書いた意図とは違うものとして読み取りながら、世界を動かしていく。「誤読」によって、どんどん世界を変化させていく。
高橋は、その「誤読」の「すすめ」を「深井の面じたいでもよいし、深井の面を取れば後ジテの山姥にななるのだから山姥の面、あるいは山姥といふ存在じたいと考へてもよい」という風に書いている。そのことばが何を指しているか「特定しない」。書くときは特定の「指し示し」をするが、その「特定」を捨てて、新たに出発し直すのが「連歌」である。
こういう「誤読」というのは日本の文学を振り返れば、何も「連歌」だけのことではない。
恋のやりとりを「歌」に託していた時代から、相手の「歌」のことばを引き受けて、わざと違う風に展開している。違う風に読み取り、それを展開していくことができるのが「文学」の才能だった。おしゃれだった。そういう意味では「連歌」は、日本の伝統そのものだし、「恋の駆け引き」そのものでもある。
私は「誤読」が大好きである。だから言うわけではないのだが、いつから「文学(詩)」は「誤読」してはいけないことになったのだろうか。不思議で仕方がない。
あ、私の「誤読」と「連歌」や「相聞(恋のやりとり)」は違う? 違うかもしれないが、「ことば」を読み替えていく、読み替えながら「遊ぶ」。その「遊び」のなかに、「いま/ここ」を超えていく楽しみがあることにかわりはない。「相聞」だって、「いま/ここ」を超えて、より楽しい次元へ進むために「わざと」気が付かないふりをしたり、からかったりする。そうやって、相手のおもしろさを引き出し、育てていく。そこに「恋(二人の世界)」の悦びがある。詩は作者と読者の「一対一」の勝負。「誤読」によって通じ合うこともある。
という句の関係では、次のように「解説」している。
自分では正確に書かない。けれども読むひとにエロチックなイメージを連想させる。そして、そのことばをエロチックと受け止めれば、「ほらね、」という具合にひそかに笑う。これは作者が「誤読」を誘っているのだ。「誤読」するとき、人間は同じような誤読をすることがある。その「同じ(通じ合うこと)」を楽しんでいる。
「ことば」は基本的に「もの」を指し示している。しかし、「ことば」は「対象」のすべてを表現できるわけではない。「対象」の一部を指し示しているにすぎない。問題は「何を」ではなく、「どのように」指し示しているかということの方にあるのかもしれない。指し示しがおこなわれるとき、そこには「意図」がある。「ことば」はすべて「意図」だといえるかもしれない。
「ことば」は「もの(対象)」ではなく、指し示しである。文学は指し示し方をまとめたものだ。
高橋は、その指し示し方から書かれたことばを点検し、それを把握した上で、「誤読」をつくりだしていく。具体的な生活からことばを動かすのではなく、「文学」のことばから出発し、現実を見つめなおし、「誤読」によって「現実」をととのえようとしている。「ことば」そのものを「現実」にしようとしている。「ことば」のなかで、どんな「現実(対象の指し示し方)」があるのかを調べ上げようとしているようにも見える。
まぎれもない「現実」の例としては三島由紀夫の自害を追悼した作品がある。それはだれもが知っている「現実」を踏まえている。しかし高橋は「現実」から「ことば」を動かそうとはしていない。「文学」から「ことば」を奪い取ってきて、それを解体し、読み直し、読み替えて、新しく「文学」へ返していく。そうすることで「三島の自害」という「現実」を「文学」としてととのえていく。これは高橋の独創ではなく、高橋の「文学」理解のあり方である。「倣」という章に収められているのは、そのことを象徴的に語っている。
「文学」は「模倣」からはじまる。「ことば」を模倣する。模倣しながら「誤読」する。「誤読」によってことばの可能性を広げる。さらに「誤読」を推し進める。「誤読」すればするほど、「ことば」をつきうごかしている中心に近づいていく。何が「ことば」を動かしているかがわかってくる。
高橋は「指し示す」という動きがことばを動かしていると掴み取っている。そして、その指し示しの方法をいくつも展開して、みせてくれている。
今回の、これまでの詩集を解体し、あらたに構成し直すというのは、高橋が高橋自身の作品を「誤読」しなおしたものとも言える。「誤読」することで、「指し示し方」が鍛え直される。
高橋睦郎は詩だけではなく短歌、俳句も書いている。能も書いている。「ことば」なら何でも書いている。その多様な作品を読むと、高橋にとってはまず「ことば」が先にあって、それからそれにあわせて「現実」を見ているのではないか、という気持ちさえしてくる。
「独吟歌仙 山めぐりの巻」がこの詩集に収録されている。その作品もおもしろいが、高橋自身が解説している文章「覚書」がおもしろい。
山めぐる姥は時雨の名なりけり
深井の面テ取れば薄氷(うすらひ)
発句、脇。これについて、
「薄氷」に喩へられてゐるものは深井の面じたいでもよいし、深井の面を取れば後ジテの山姥になるのだから山姥の面、あるいは山姥といふ存在じたいと考へてもよい。後の方が思ひが深くなるか。
詩の鑑賞にかぎらず、文学全般の鑑賞は、そこに書かれている「ことば」と「もの」を結びつけて鑑賞されることが多い。そのことばは何を指しているか。それを正確に把握する。それを作者の意図とは違ったものとして読み取ると「誤読」と言われる。
ところが「歌仙(連歌)」では、「誤読」しないと先に進まない。「誤読」を作法としている。作者の書いた意図とは違うものとして読み取りながら、世界を動かしていく。「誤読」によって、どんどん世界を変化させていく。
高橋は、その「誤読」の「すすめ」を「深井の面じたいでもよいし、深井の面を取れば後ジテの山姥にななるのだから山姥の面、あるいは山姥といふ存在じたいと考へてもよい」という風に書いている。そのことばが何を指しているか「特定しない」。書くときは特定の「指し示し」をするが、その「特定」を捨てて、新たに出発し直すのが「連歌」である。
こういう「誤読」というのは日本の文学を振り返れば、何も「連歌」だけのことではない。
恋のやりとりを「歌」に託していた時代から、相手の「歌」のことばを引き受けて、わざと違う風に展開している。違う風に読み取り、それを展開していくことができるのが「文学」の才能だった。おしゃれだった。そういう意味では「連歌」は、日本の伝統そのものだし、「恋の駆け引き」そのものでもある。
私は「誤読」が大好きである。だから言うわけではないのだが、いつから「文学(詩)」は「誤読」してはいけないことになったのだろうか。不思議で仕方がない。
あ、私の「誤読」と「連歌」や「相聞(恋のやりとり)」は違う? 違うかもしれないが、「ことば」を読み替えていく、読み替えながら「遊ぶ」。その「遊び」のなかに、「いま/ここ」を超えていく楽しみがあることにかわりはない。「相聞」だって、「いま/ここ」を超えて、より楽しい次元へ進むために「わざと」気が付かないふりをしたり、からかったりする。そうやって、相手のおもしろさを引き出し、育てていく。そこに「恋(二人の世界)」の悦びがある。詩は作者と読者の「一対一」の勝負。「誤読」によって通じ合うこともある。
引キ上げし釣瓶のまはりしとどにて
秋の夜長といふはそらごと
という句の関係では、次のように「解説」している。
きぬぎぬの別れの男性が顔を表はしたことによつて、引き上げたまはりのしとどに濡れた釣瓶が、際どい怪しからぬイメヂを重ね持つてくる。これも連句の愉しみの一つか。
自分では正確に書かない。けれども読むひとにエロチックなイメージを連想させる。そして、そのことばをエロチックと受け止めれば、「ほらね、」という具合にひそかに笑う。これは作者が「誤読」を誘っているのだ。「誤読」するとき、人間は同じような誤読をすることがある。その「同じ(通じ合うこと)」を楽しんでいる。
「ことば」は基本的に「もの」を指し示している。しかし、「ことば」は「対象」のすべてを表現できるわけではない。「対象」の一部を指し示しているにすぎない。問題は「何を」ではなく、「どのように」指し示しているかということの方にあるのかもしれない。指し示しがおこなわれるとき、そこには「意図」がある。「ことば」はすべて「意図」だといえるかもしれない。
「ことば」は「もの(対象)」ではなく、指し示しである。文学は指し示し方をまとめたものだ。
高橋は、その指し示し方から書かれたことばを点検し、それを把握した上で、「誤読」をつくりだしていく。具体的な生活からことばを動かすのではなく、「文学」のことばから出発し、現実を見つめなおし、「誤読」によって「現実」をととのえようとしている。「ことば」そのものを「現実」にしようとしている。「ことば」のなかで、どんな「現実(対象の指し示し方)」があるのかを調べ上げようとしているようにも見える。
まぎれもない「現実」の例としては三島由紀夫の自害を追悼した作品がある。それはだれもが知っている「現実」を踏まえている。しかし高橋は「現実」から「ことば」を動かそうとはしていない。「文学」から「ことば」を奪い取ってきて、それを解体し、読み直し、読み替えて、新しく「文学」へ返していく。そうすることで「三島の自害」という「現実」を「文学」としてととのえていく。これは高橋の独創ではなく、高橋の「文学」理解のあり方である。「倣」という章に収められているのは、そのことを象徴的に語っている。
「文学」は「模倣」からはじまる。「ことば」を模倣する。模倣しながら「誤読」する。「誤読」によってことばの可能性を広げる。さらに「誤読」を推し進める。「誤読」すればするほど、「ことば」をつきうごかしている中心に近づいていく。何が「ことば」を動かしているかがわかってくる。
高橋は「指し示す」という動きがことばを動かしていると掴み取っている。そして、その指し示しの方法をいくつも展開して、みせてくれている。
今回の、これまでの詩集を解体し、あらたに構成し直すというのは、高橋が高橋自身の作品を「誤読」しなおしたものとも言える。「誤読」することで、「指し示し方」が鍛え直される。
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