詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(6)

2015-03-04 22:51:15 | 詩集
高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(6)(思潮社、2015年01月15日発行)

 高橋睦郎は詩だけではなく短歌、俳句も書いている。能も書いている。「ことば」なら何でも書いている。その多様な作品を読むと、高橋にとってはまず「ことば」が先にあって、それからそれにあわせて「現実」を見ているのではないか、という気持ちさえしてくる。

 「独吟歌仙 山めぐりの巻」がこの詩集に収録されている。その作品もおもしろいが、高橋自身が解説している文章「覚書」がおもしろい。

山めぐる姥は時雨の名なりけり
 深井の面テ取れば薄氷(うすらひ)

 発句、脇。これについて、

「薄氷」に喩へられてゐるものは深井の面じたいでもよいし、深井の面を取れば後ジテの山姥になるのだから山姥の面、あるいは山姥といふ存在じたいと考へてもよい。後の方が思ひが深くなるか。

 詩の鑑賞にかぎらず、文学全般の鑑賞は、そこに書かれている「ことば」と「もの」を結びつけて鑑賞されることが多い。そのことばは何を指しているか。それを正確に把握する。それを作者の意図とは違ったものとして読み取ると「誤読」と言われる。
 ところが「歌仙(連歌)」では、「誤読」しないと先に進まない。「誤読」を作法としている。作者の書いた意図とは違うものとして読み取りながら、世界を動かしていく。「誤読」によって、どんどん世界を変化させていく。
 高橋は、その「誤読」の「すすめ」を「深井の面じたいでもよいし、深井の面を取れば後ジテの山姥にななるのだから山姥の面、あるいは山姥といふ存在じたいと考へてもよい」という風に書いている。そのことばが何を指しているか「特定しない」。書くときは特定の「指し示し」をするが、その「特定」を捨てて、新たに出発し直すのが「連歌」である。
 こういう「誤読」というのは日本の文学を振り返れば、何も「連歌」だけのことではない。
 恋のやりとりを「歌」に託していた時代から、相手の「歌」のことばを引き受けて、わざと違う風に展開している。違う風に読み取り、それを展開していくことができるのが「文学」の才能だった。おしゃれだった。そういう意味では「連歌」は、日本の伝統そのものだし、「恋の駆け引き」そのものでもある。
 私は「誤読」が大好きである。だから言うわけではないのだが、いつから「文学(詩)」は「誤読」してはいけないことになったのだろうか。不思議で仕方がない。
 あ、私の「誤読」と「連歌」や「相聞(恋のやりとり)」は違う? 違うかもしれないが、「ことば」を読み替えていく、読み替えながら「遊ぶ」。その「遊び」のなかに、「いま/ここ」を超えていく楽しみがあることにかわりはない。「相聞」だって、「いま/ここ」を超えて、より楽しい次元へ進むために「わざと」気が付かないふりをしたり、からかったりする。そうやって、相手のおもしろさを引き出し、育てていく。そこに「恋(二人の世界)」の悦びがある。詩は作者と読者の「一対一」の勝負。「誤読」によって通じ合うこともある。

引キ上げし釣瓶のまはりしとどにて
 秋の夜長といふはそらごと

 という句の関係では、次のように「解説」している。

きぬぎぬの別れの男性が顔を表はしたことによつて、引き上げたまはりのしとどに濡れた釣瓶が、際どい怪しからぬイメヂを重ね持つてくる。これも連句の愉しみの一つか。

 自分では正確に書かない。けれども読むひとにエロチックなイメージを連想させる。そして、そのことばをエロチックと受け止めれば、「ほらね、」という具合にひそかに笑う。これは作者が「誤読」を誘っているのだ。「誤読」するとき、人間は同じような誤読をすることがある。その「同じ(通じ合うこと)」を楽しんでいる。

 「ことば」は基本的に「もの」を指し示している。しかし、「ことば」は「対象」のすべてを表現できるわけではない。「対象」の一部を指し示しているにすぎない。問題は「何を」ではなく、「どのように」指し示しているかということの方にあるのかもしれない。指し示しがおこなわれるとき、そこには「意図」がある。「ことば」はすべて「意図」だといえるかもしれない。
 「ことば」は「もの(対象)」ではなく、指し示しである。文学は指し示し方をまとめたものだ。
 高橋は、その指し示し方から書かれたことばを点検し、それを把握した上で、「誤読」をつくりだしていく。具体的な生活からことばを動かすのではなく、「文学」のことばから出発し、現実を見つめなおし、「誤読」によって「現実」をととのえようとしている。「ことば」そのものを「現実」にしようとしている。「ことば」のなかで、どんな「現実(対象の指し示し方)」があるのかを調べ上げようとしているようにも見える。
 まぎれもない「現実」の例としては三島由紀夫の自害を追悼した作品がある。それはだれもが知っている「現実」を踏まえている。しかし高橋は「現実」から「ことば」を動かそうとはしていない。「文学」から「ことば」を奪い取ってきて、それを解体し、読み直し、読み替えて、新しく「文学」へ返していく。そうすることで「三島の自害」という「現実」を「文学」としてととのえていく。これは高橋の独創ではなく、高橋の「文学」理解のあり方である。「倣」という章に収められているのは、そのことを象徴的に語っている。
 「文学」は「模倣」からはじまる。「ことば」を模倣する。模倣しながら「誤読」する。「誤読」によってことばの可能性を広げる。さらに「誤読」を推し進める。「誤読」すればするほど、「ことば」をつきうごかしている中心に近づいていく。何が「ことば」を動かしているかがわかってくる。
 高橋は「指し示す」という動きがことばを動かしていると掴み取っている。そして、その指し示しの方法をいくつも展開して、みせてくれている。
 今回の、これまでの詩集を解体し、あらたに構成し直すというのは、高橋が高橋自身の作品を「誤読」しなおしたものとも言える。「誤読」することで、「指し示し方」が鍛え直される。


続続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
高橋 睦郎
思潮社
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嵯峨信之を読む(31)

2015-03-04 11:51:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
58 生命の河

われらが習いおぼえたことを
ふいにもういちどたしためてみたいと思うときがある

 この書き出しは「論語」のようだ。「子曰わく、学びて時にこれを習う、また説ばしからずや」。「習いおぼえた」を「学びて」、「もういちどたしかめ」る「習う」と孔子はいっているのだが……。そうすると、こころうれしい。そのたびに理解が深まるのだから、と孔子は言う。
 この「たしかめる」を嵯峨は、別なことばで言いなおしている。

あまりに遠くにあるためにあやふやなものを
われらはしずかな誠実なひといろで その輪郭をなぞる

 「たしかめる」は「なぞる」こと。この「なぞる」という「動詞」は、さらに変化していく。

そしてわれらがなぞっていた線が
ふいに竪琴の絃のように鳴りはじめる
われらに遠い第二の世界が
すでにわれらの周りにあることを感じる

 「線をなぞる」とその「線」は「竪琴の絃」にかわる。「輪郭」は線に、「線」という抽象は「絃」という具体にかわる。「竪琴の」ということばが「具体」をさらに説明する。そのとき、書かれてはいなが「なぞる」は「触れる」だろうと思う。対象と肉体がもっと具体的にかかわる。絃を「鳴らす」(絃を動かす動かす)かもしれない。
 「確かめる」は単に精神的な運動ではなく、「肉体」そのものの具体的な運動であり、その「肉体」が対象に触れて、対象が反応する。そして、そこにいままで存在しなかったものがあらわれてくる。
 音が鳴りはじめる。
 この「音」はどこに属するのか。弦に触れた「われら」に属するのか。それとも「絃」が持っているのものなのか。「われら」と「絃」との「あいだ」にあるもの、触れるときだけそこにあらわれる何か。
 「学び、習う」「習い、確かめる」とは「対象」とは「われら(肉体)」のあいだで、「動詞」といっしょに、そのときだけあらわれるものだ。「真実」は瞬間的なものだ。だからこそ「もういちど」を繰り返さなければならない。「真実」は「遠い第二の世界」(日常の世界から遠い)。けれど、「真実」をもとめて「肉体」が動くとき、そこにあらわれる。「すでにわれらの周りにある」ということが起きる。「習いおぼえた」ときの「肉体」、「肉体」が「おぼえている」ことをつかって、「肉体」をうごかす。そうすることで「確かめた」ことが「確実」な「事実」になる。このとき、それは「事実」であると同時に「真実」である。
 このくりかえし。
 「時にこれを習う」の「時」は「常に」でもある。「もういちど」は「何度でも」でもある。

59 流れる七夕祭

 七夕飾りを川に流す。「流れてゆく寂しい祭礼をどこの村が待つているのか」という美しい一行があるが、書かれていることは「寂しい」と「祭礼」のように、一種の矛盾のような緊迫感を感じさせるが、(「祭礼」は「にぎやか/豪華」というのが「流通概念」である)、具体的には何をイメージしているのか、わかりにくい。

一日とは ひと月とは 一年とは
何という目印でひとは各各の収穫をわけあうのだろう
そして向うのながい時がぼくをすべてから隠してしまうのだ
そこにはあらゆる名がただ一つの名に帰る砂地がある

 「ただ一つの名」とは「死」のことだろうか。「時」の果に「死」があり、それは「すべてを隠」す。死んでしまえば、何もわからなくなる。

どんな小さな出発も どんな大きな到着も
その糸はどこからか遠くそこまでつらなつている

 唐突に出てくる「糸」という「比喩」。「時の流れ」のことだろうか。「流れ」がつくりだす「連続性(糸、長い糸)」。その果に「死」がある。七夕飾りは、川を流れて、やがて「死」にたどりつく。それは「寂しい」ひとつの「事実」(真実)である。
 そういうイメージなのだろう。
嵯峨信之全詩集
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書かれなかった詩のための注釈(1)

2015-03-04 02:22:58 | 
注釈(1)

一行目。「火曜日」ということばは「回避」を象徴している。はじまりの必然をはぐらかしているのは、これからはじまる詩が記憶と不安を語るものだからである。書かれなかったはじまりは、詩人の記憶のなかにしまいこまれ、それが「地下鉄」とか「花屋」ということばと出会うたびに噴出する。そういう詩全体の構造も暗示している。

二行目。「銅版画」は、その細い線を予告することで、三行目の「新しい散歩道は雨になった」の「雨」を印象づける。細い雨、密集して降る雨が見えるようだ。四行目の、風に吹かれて、群れたり離れたりするという雨の姿(精神の象徴的描写)も暗示している。効果的な比喩である、と私は思う。それとは別に、私はここで別のことをしておきたい。詩人はなぜ「エッチング」ではなく「銅版画」ということばを選んだのか。濁音を嫌う詩人が多いが、この詩の作者は、「有声音」の豊かさが濁音に満ちていると感じているからだ。この独特の感覚は、五行目の「水仙の花びらが濡れて腐っている」ということばに通じるものである。

三行目。「新しい」と「雨」ということばは、エリオットの「四月は残酷な月」という有名な行を意識している。「残酷な」ということばをつかわずに、「残酷」をいいあらわすために間接的に「引用」している形だ。エリオットから、どこまで離れることができるかを、試している。効果的とはいえない。何かを意識するということは、いつでも「離れる」という運動にはつながらない。接続するという運動になってしまう。むしろ、エリオットの内部へ入り込み、ことばを突き破った方がよかったのかもしれない。

四行目。草稿では「唇の絵」と書かれていた。私はたまたまノートを見る機会があったので知っている。「絵の唇」と推敲されることで虚構性が強まった。「肉体」そのものではなく、描くという行為のなかで、動く記憶。この行は、二行目との「和音」を感じながら味わう必要がある。「銅版画」と「インクの素描」。どちらも「線」という共通要素があるが、一方は間接的、一方は直接的である。しかし、この「間接性」と「直接性」は、事実(あるいは今といえばいいのか、現実といえばいいのか)と記憶の問題に重ね合わせて考えるとき、簡単に断定できない。記憶とはすでに「いま」存在しないものである。そういうものに触れるには、表現の「間接性」がふさわしいかもしれないからである。一行目の注釈で触れたが、たの詩のテーマは回避された記憶との精神的葛藤である。「唇の絵」を「絵の唇」と書き直しているところに、詩人の感情の交錯を読み取るのは、私ひとりだけではあるまいと思う。

五行目。「夕刊」ということばと「寒くなった」ということばが、ひどく生々しい。このことばを書いたために、この詩は、ここで終わることになってしまった。四行目で「インク」と書いてしまい、そこから「濡れる」ということばが連想されたのも失敗の原因である。隠してきたものが皮膚感覚で、皮膚によってあからままになった。抒情を好むひとは評価するかもしれないが、私は、嫌いだ。

補足。五行目に、「土曜日」ということばを詩人が残しているのは、この詩のそれぞれの行が「火曜日」から「土曜日」の一日一日であるということを語っているかもしれない。そうであるなら、四行目の「食器棚」は「夕刊」と呼応することで、どんな不安もまた陳腐へと修練するというアイロニーになっている。「寒くなった」は「あたたかい」ものを欲望しているありふれた男の姿であるともいえる。



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