監督 モルテン・ティルドゥム 出演 ベネディクト・カンバーバッチ、キーラ・ナイトレイ、マシュー・グード
イギリスは「個人主義」の国だ。「秘密」があるからこそ「個人」なのだ、という考えが徹底している。「秘密」は、それをその人が語らないかぎり、わかっていても「事実」にはならない。
わかりやすい例でいうと、この映画の主人公はホモセクシュアルである。そして、それはだれもが感じているを通り越して、知っている。知っているけれど、それを主人公が自分で言わないかぎり、それは「事実」にならない。主人公の「秘密」のままである。そういう意味から言えば、イギリスはまた「言語」の国である。ことばにしないかぎり、どんなことも存在しない。主人公が「私はホモセクシュアルである」と言わないかぎり、彼はホモセクシュアルではない。ことばを通して「事実」が生まれる。
逆の例は、主人公の少年時代のできごととして描かれている。彼には親しい友人がいた。唯一の友人といっていい。だれもが二人が親しいことを知っている。二人がいっしょに行動しているのを見ている。けれど、その友人が死んだとき、主人公は「彼は友人ではない」と言う。そうすると、それを聞いたひと(校長)は、それを「事実」として受け入れる。死んだ少年と主人公は「友人ではない」を受け入れ、主人公がそういうことで隠した「秘密(心情)」をなかったものとする。「ことば」が「事実」をつくっていく。
こういう「ことば」の国だからこそ、この映画は「真実味」が深くなる。「実話」に基づく映画なのだが、アメリカやフランスが舞台では、同じことを描いても、こんな緊迫感は出て来ない。アメリカもフランスも「秘密」を認めないし、「ことば」と「事実」の関係も、該当者個人が自分のことばで語るかどうかとは直接結びつかない。
ちょっと、前置きが長くなったかもしれないが……。
この「秘密」をもった主人公が、ナチスの暗号解読に取り組む。「暗号」は「秘密」を隠した「言語」である。表面的な表現の裏に、別の「言語」が隠されている。その「秘密」はナチスによって共有され、ナチスにとって「事実」である。けれども、それを解読できない連合国軍(イギリス)にとっては「事実」ではなく、「なぞ」。「事実」は存在しない。
どうやって「秘密」を暴くか。「秘密」を手に入れるか。いちばん簡単なのは、その「秘密」を知っているひとと個人的に接触し、親しくなり「秘密」を聞き出すことである。「秘密」を共有することである。--これは、もちろん、できない。できないことはないかもしれないが、主人公は、そういう方法をとらない。
「暗号」を受信し、解読している機械(暗号で結ばれた機械)と接触するための機械をつくる。人間を相手にしない。機械には機械の「言語」がある。その「言語」を手に入れ、機械に接触する。これは、いわば、機械に「恋愛」をさせ、恋人になった「機械」から「秘密」を聞き出すという方法なのだ。スパイが「色仕掛け」で情報を収集するように、「機械」に「色仕掛け」で迫る。--そんなふうには、映画は説明していないけれど、まあ、そんな感じだ。
それが証拠に、というと変だが、暗号伝達/解読機(エニグマ)の「論理」を解く手がかりとなったのは、ドイツ人の「恋人」への呼びかけだった。暗号の前に、不必要な恋人の名前をつけるドイツ人がいる。それを傍受している女性が、「彼には恋人がいる」と直観する。その「ことば」を手がかりに、主人公たちは「暗号」とは別の「意味」のあることばを探す。「ハイル・ヒットラー」。どの暗号文にもくりかえし出てくるそのことばこそが、機械と機械を結び「鍵」だったのだ。
「ハイル・ヒットラー」という「ことば」を通じて、エニグマと主人公がつくり出した「機械」は「一心同体」になる。「恋愛関係」を通り越して、もう「夫婦」のようなものになる。「秘密」がなくなる。
いやあ、これはぞくぞくするなあ。うっとりするなあ。「2001年宇宙の旅」で「ハル」がメモリーを一個ずつ抜き取られていくとき、「デイジー」の歌を歌う。だんだんテンポが遅くなり、音が低くなる。あれは、いわばコンピューターと人間の「恋愛関係」が破綻する状況を描いていて、私は思わず「ハル」に対して、がんばれ、もっとがんばれと応援してしまう方なのだが、あのシーンを見たときのように、どきどきしてしまった。機械が「ことば」を通してセックスしている。セックスしながら、絶頂の寸前に「それで、あのことは?」と聞きたい「秘密」を聞き出すような感じ。「秘密」がどんどんなくなり、相手の言うがままになっていく、そんな感じ。
クライマックスがあくまで「人間的」なのだ。
さらに、その解読した「暗号」をどうやって「実践(戦争)」に生かしていくか。ここにも「秘密」がある。「暗号」を解読している(してしまっている)とナチスにわかってしまっては、解読した意味がない。解読できていないふりをして、解読した一部だけを活用する。つまり、救えたはずの命をときには見殺しにして、戦争終結のために何が重要かを判断しながら行動する。こんな「秘密」は、見殺しになったひとからすれば許されないことかもしれないが、そういう「秘密」を貫かないことには戦争に勝てない。勝てたかもしれないが、長い時間がかかる。「秘密」があることがイギリスの力であり、その「秘密の力」ゆえにイギリスはナチスに勝てた。イギリスの「秘密主義(個人主義)」が勝利のポイントなのだ。(この「事実」さえ、長い間「秘密」だった。)
こういう大きなストーリーの一方で、主人公の「秘密(ホモセクシュアル)」、それを知りながら恋愛をつらぬこうとする女(同時に暗号解読の協力者)、さらに秘密を知っているソ連のスパイ、同性愛を違法行為としてしている法律を絡めて描き出す。「暗号解読」という「事実」だけではなく、それにかかわった「人間」の「事実」として描き出す。主人公を、少年時代、暗号解読時代、戦後とつないで描くことで、そこに「人間」を浮かび上がらせる。孤独のなかで、機械と交流し、機械と機械の「恋愛」を成功させた人間を浮かび上がらせる。悲しみと、愉悦と、苦悩を浮かび上がらせる。「語られなかった」物語を語る「ことば」として浮かび上がらせ、それを「事実」にする。
「思いがけない人間が、思いがけないことをする」というようなことばが何回か繰り返され、それがこの映画のキーワードにもなっているが、思いがけない人間である主人公は、「数学者」なのか、「暗号解読の天才」なのか、「犯罪者」なのか。どの「ことば」を選ぶかによって主人公の「事実」は違ってくる。何を「事実」にするかは、観客に任されている。そういう映画だ。イギリスならでは、という印象が残る映画だ。
映像に触れなかったが、映像もきわめてイギリス的な美しい色調。主人公のつくる機械(一種のコンピューター)さえ、イギリスにしかないような堅牢な、時間を感じさせる。新しいものなのに、そこに過去からの情報を蓄えているような色合い。機械自体が「秘密」によって動いているという、何か動物のような印象を呼び覚ます色で、とてもおもしろかった。
すべてを「秘密」にしてしまうベネディクト・カンバーバッチの演技もすばらしかった。「秘密」が最初から最後まで、つまり「秘密」が公にされたあとまで、「秘密」だったのだということを主張する強い演技だった。主人公は「秘密」を生きたのだ。その「秘密」は彼といっしょに生きた人間だけが知っている「事実」なのだ。そういうことを納得させる強さで貫かれていた。
(天神東宝6、2015年03月18日)
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イギリスは「個人主義」の国だ。「秘密」があるからこそ「個人」なのだ、という考えが徹底している。「秘密」は、それをその人が語らないかぎり、わかっていても「事実」にはならない。
わかりやすい例でいうと、この映画の主人公はホモセクシュアルである。そして、それはだれもが感じているを通り越して、知っている。知っているけれど、それを主人公が自分で言わないかぎり、それは「事実」にならない。主人公の「秘密」のままである。そういう意味から言えば、イギリスはまた「言語」の国である。ことばにしないかぎり、どんなことも存在しない。主人公が「私はホモセクシュアルである」と言わないかぎり、彼はホモセクシュアルではない。ことばを通して「事実」が生まれる。
逆の例は、主人公の少年時代のできごととして描かれている。彼には親しい友人がいた。唯一の友人といっていい。だれもが二人が親しいことを知っている。二人がいっしょに行動しているのを見ている。けれど、その友人が死んだとき、主人公は「彼は友人ではない」と言う。そうすると、それを聞いたひと(校長)は、それを「事実」として受け入れる。死んだ少年と主人公は「友人ではない」を受け入れ、主人公がそういうことで隠した「秘密(心情)」をなかったものとする。「ことば」が「事実」をつくっていく。
こういう「ことば」の国だからこそ、この映画は「真実味」が深くなる。「実話」に基づく映画なのだが、アメリカやフランスが舞台では、同じことを描いても、こんな緊迫感は出て来ない。アメリカもフランスも「秘密」を認めないし、「ことば」と「事実」の関係も、該当者個人が自分のことばで語るかどうかとは直接結びつかない。
ちょっと、前置きが長くなったかもしれないが……。
この「秘密」をもった主人公が、ナチスの暗号解読に取り組む。「暗号」は「秘密」を隠した「言語」である。表面的な表現の裏に、別の「言語」が隠されている。その「秘密」はナチスによって共有され、ナチスにとって「事実」である。けれども、それを解読できない連合国軍(イギリス)にとっては「事実」ではなく、「なぞ」。「事実」は存在しない。
どうやって「秘密」を暴くか。「秘密」を手に入れるか。いちばん簡単なのは、その「秘密」を知っているひとと個人的に接触し、親しくなり「秘密」を聞き出すことである。「秘密」を共有することである。--これは、もちろん、できない。できないことはないかもしれないが、主人公は、そういう方法をとらない。
「暗号」を受信し、解読している機械(暗号で結ばれた機械)と接触するための機械をつくる。人間を相手にしない。機械には機械の「言語」がある。その「言語」を手に入れ、機械に接触する。これは、いわば、機械に「恋愛」をさせ、恋人になった「機械」から「秘密」を聞き出すという方法なのだ。スパイが「色仕掛け」で情報を収集するように、「機械」に「色仕掛け」で迫る。--そんなふうには、映画は説明していないけれど、まあ、そんな感じだ。
それが証拠に、というと変だが、暗号伝達/解読機(エニグマ)の「論理」を解く手がかりとなったのは、ドイツ人の「恋人」への呼びかけだった。暗号の前に、不必要な恋人の名前をつけるドイツ人がいる。それを傍受している女性が、「彼には恋人がいる」と直観する。その「ことば」を手がかりに、主人公たちは「暗号」とは別の「意味」のあることばを探す。「ハイル・ヒットラー」。どの暗号文にもくりかえし出てくるそのことばこそが、機械と機械を結び「鍵」だったのだ。
「ハイル・ヒットラー」という「ことば」を通じて、エニグマと主人公がつくり出した「機械」は「一心同体」になる。「恋愛関係」を通り越して、もう「夫婦」のようなものになる。「秘密」がなくなる。
いやあ、これはぞくぞくするなあ。うっとりするなあ。「2001年宇宙の旅」で「ハル」がメモリーを一個ずつ抜き取られていくとき、「デイジー」の歌を歌う。だんだんテンポが遅くなり、音が低くなる。あれは、いわばコンピューターと人間の「恋愛関係」が破綻する状況を描いていて、私は思わず「ハル」に対して、がんばれ、もっとがんばれと応援してしまう方なのだが、あのシーンを見たときのように、どきどきしてしまった。機械が「ことば」を通してセックスしている。セックスしながら、絶頂の寸前に「それで、あのことは?」と聞きたい「秘密」を聞き出すような感じ。「秘密」がどんどんなくなり、相手の言うがままになっていく、そんな感じ。
クライマックスがあくまで「人間的」なのだ。
さらに、その解読した「暗号」をどうやって「実践(戦争)」に生かしていくか。ここにも「秘密」がある。「暗号」を解読している(してしまっている)とナチスにわかってしまっては、解読した意味がない。解読できていないふりをして、解読した一部だけを活用する。つまり、救えたはずの命をときには見殺しにして、戦争終結のために何が重要かを判断しながら行動する。こんな「秘密」は、見殺しになったひとからすれば許されないことかもしれないが、そういう「秘密」を貫かないことには戦争に勝てない。勝てたかもしれないが、長い時間がかかる。「秘密」があることがイギリスの力であり、その「秘密の力」ゆえにイギリスはナチスに勝てた。イギリスの「秘密主義(個人主義)」が勝利のポイントなのだ。(この「事実」さえ、長い間「秘密」だった。)
こういう大きなストーリーの一方で、主人公の「秘密(ホモセクシュアル)」、それを知りながら恋愛をつらぬこうとする女(同時に暗号解読の協力者)、さらに秘密を知っているソ連のスパイ、同性愛を違法行為としてしている法律を絡めて描き出す。「暗号解読」という「事実」だけではなく、それにかかわった「人間」の「事実」として描き出す。主人公を、少年時代、暗号解読時代、戦後とつないで描くことで、そこに「人間」を浮かび上がらせる。孤独のなかで、機械と交流し、機械と機械の「恋愛」を成功させた人間を浮かび上がらせる。悲しみと、愉悦と、苦悩を浮かび上がらせる。「語られなかった」物語を語る「ことば」として浮かび上がらせ、それを「事実」にする。
「思いがけない人間が、思いがけないことをする」というようなことばが何回か繰り返され、それがこの映画のキーワードにもなっているが、思いがけない人間である主人公は、「数学者」なのか、「暗号解読の天才」なのか、「犯罪者」なのか。どの「ことば」を選ぶかによって主人公の「事実」は違ってくる。何を「事実」にするかは、観客に任されている。そういう映画だ。イギリスならでは、という印象が残る映画だ。
映像に触れなかったが、映像もきわめてイギリス的な美しい色調。主人公のつくる機械(一種のコンピューター)さえ、イギリスにしかないような堅牢な、時間を感じさせる。新しいものなのに、そこに過去からの情報を蓄えているような色合い。機械自体が「秘密」によって動いているという、何か動物のような印象を呼び覚ます色で、とてもおもしろかった。
すべてを「秘密」にしてしまうベネディクト・カンバーバッチの演技もすばらしかった。「秘密」が最初から最後まで、つまり「秘密」が公にされたあとまで、「秘密」だったのだということを主張する強い演技だった。主人公は「秘密」を生きたのだ。その「秘密」は彼といっしょに生きた人間だけが知っている「事実」なのだ。そういうことを納得させる強さで貫かれていた。
(天神東宝6、2015年03月18日)
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「映画館に行こう」にご参加下さい。
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