詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(34)

2015-03-07 10:57:46 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
64 河岸にて

 詩はいつでも矛盾のなかにある。たとえば、

立ちどまると太い鎖の端が赤銹びて河の中へ浸つている
それはわたしの脳の中まで重く伸びていて
たしかにわたしの運命以前から時の中に置かれている
この伸びたまま死んでしまつた未来が
なにかのつづきのように深くわたしに関わるのだ

 「未来」はまだ存在しない。その未来に「死んでしまつた」という修飾語がついている。これは常識からすると矛盾である。矛盾だから、読んだ瞬間に、そこで立ち止まってしまう。躓いてしまう。そして、そのときにはっきりとした形ではないけれど何かが見える。河の中の杭、そこにつながっている赤銹びた鎖、過去からの河の流れ……。それが「いま」ではなく「未来」の姿のように見える。予兆として、見える。
 二連目で「水よ/おまえは少しも傷つけずにわたしを奪う」と書くとき、嵯峨は、「いま/ここ」にある水を見ているのか。それとも「死んでしまつた」未来の水を見ているのか、はっきりしない。たぶん、「未来」の水だろう。「おまえは少しも傷つけずにわたしを奪う」ということばと同時にあらわれてくる、いままでなかった水だろう。ことばの動きにあわせて、「いま」が変化し「未来」になる。そういう「動き」のなかで、見えてくる水。
 三連目は、一転して水(河)から離れる。

空よ
昨日わたしはおまえの唇の上で溺れた
昨日わたしが矛盾の梯子から投身するのをおまえは捕えた
昨日わたしの燃えあがる緑蔭を遠い記憶の一隊が通るのをおまえは見ていた

 「未来」ではなく「昨日」と「過去」があらわれる。しかし、その「あらわれ方」は「未来」と同じあらわれ方である。それは、「昨日わたしはおまえの唇の上で溺れた」と書くことで、「いま/ここ」に姿をあらわす。ことばにするまでは、それが存在していなかったかのように、「新しく」あらわれてくる。
 「ことば」によって、それまで存在しなかったものが「あらわれる」。そのあらわれ方に「未来」「過去」の区別はない。「伸びたまま死んでしまつた未来」の方が、この詩では過去(先に)としてあらわれ、そのあとに「昨日」があらわれるのだから、ここでは「時制」が無視されている。「時制」が矛盾している。
 --とは、しかし、だれも言わないだろうなあ。こんな屁理屈を書いているのは私くらいだろうなあ、と思うのだが、この「屁理屈」「時間の流れの矛盾の指摘」のなかに詩の秘密があると思う。
 「ことば」といっしょに「未来」も「過去」も「いま」起きているかのようにしてあらわれてくる。区別がない。そのとき、読者は「過去」「いま」「未来」を見ているのではなく、「永遠」にいるのだと思う。「矛盾」が「区別」を否定し、「いま」を「永遠」に変える。これは錯乱かもしれないが、その錯乱が、詩なのである。

 このあと嵯峨は、おもしろいことを書いている。

ああ わたしをとりまく無音の秩序よ
わたし自身もまたその無音の秩序であり
一つの赤銹びであり
あらわな火の過去であり
死んでしまつた石の未来である

 「赤銹び(鎖のいま)」「過去」「未来」が結びつけられて「わたし自身」と呼ばれている。そしてそれは「無音の秩序」とも呼ばれている。おもしろいのは、その「秩序」を修飾する「無音」ということば。「無」が、そこに存在すること。
 「過去」「いま」「未来」の区別がなくなる。「過去」が「未来」のあとにあらわれたり、「未来」は「死んで」あらわれたりする。そこには「時制」が「ない(無)」。「秩序」が「ない(無)」。
 この「秩序がない」というところから「混沌」というものを、私は考えてしまう。
 「矛盾」とは「秩序」がないことでもある。「矛盾」とは「混沌」の一つの形である。詩は、「無(混沌)」を通りぬけて、ことばがいままで書かれた形を踏み外してあらわれたときに感じるものなのだろう。

 嵯峨は「無音」ということばをつかっているのであり、「無」ということばを直接つかっているわけではないのだが、その「無」に注目すると、嵯峨のことばの動き(詩の原点/詩のエネルギーの形)に近づけるかもしれないと思う。

65 操り人形

 「操り人形」からは「ヒロシマ神話」という章になっている。広島への原爆投下、広島の被曝がテーマになっている。
 「それは人間の手でつくられたもつとも大きな火の塊りだ」は原爆そのものを指している。原爆によって、人間は「操り人形」になってしまった、と嵯峨は抗議している。
 そのなかほど、

樹の瘤のようにまるくすべすべした母子が
水溜りの上をひよいと重く跳んだ
そしてまたゆつくりゆつくりと二つの影は寄り添つて歩いていつた

 これは被曝した母子の姿。「木の瘤」と「まるくすべすべした」が違和感のある比喩になっている。「ひよいと重く跳んだ」も日常のことばのつながりを裏切っている。
 矛盾している。
 矛盾の形でしか言えないものが、日常のことばを壊しながら、「いま/ここ」にあらわれてくる。これが詩。
 そして、その詩を浮かび上がらせているのが、「無(無常)」の意識かもしれない。

地球もすつかりぶよぶよに腫(むく)んでいる
遠くからは腐りかけたレモンに見えるだろう

 「遠くから」は「宇宙」を超えた「無」である。

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書かれなかった詩のための注釈(4)

2015-03-07 01:28:44 | 
書かれなかった詩のための注釈(4)

二行目の「ボート」は三年後も同じ場所にあり、詩人によって発見される。その後、枯れた葦はさらに枯れ、そのたびに季節が繰り返される。そのあとで、もう一度詩人がそれを見つけるのだが、それは七行目に書かれている「ボート」である。横腹の板のペンキはところどころはげている。詩人の好きな数字が、逆さまになって水に映っている。

この注釈は、しかし、正確ではない。七行目の「ボート」は、あのときと同じように底が抜けて、くらい影のなかへ素早く青い魚が隠れていくが、同じ場所ではない。同じ湖ではない。川ではない。ほんとうは違った場所である。これは詩人が間違えたのではなく、わざと違う場所、違う時間をひとつに重ね合わせているのである。

「ボート」のなかでささやかれたことばは、すべて同じであるがゆえに、何度失望したか。何度、そこを離れたか。詩人は多くを語らないが、四度以上である。「周りで枯れた葦が騒いでいた」と書かずに、詩人は「枯れた葦の茎が何度も何度も折れた。その断面が白く光った」と書いている。それはしかし二行目の「ボート」でのことでもなければ七行目の「ボート」のなかから見た光景でもない。きめのこまかい泥が透明な水の下で光っていた。

「水の匂いが違う」と詩人はいつも感じていた。「ボート」も「枯れた葦」も、時間も場所も同じではないのに、それは同じものとしてあらわれる。区別がつかない。しかし、水の匂いだけは違っていると詩人は言う。まるで「自分の心から出てきたようだ」と不思議なことばで、その違いを説明している。このことばこそ注釈が必要なのだが、詩人は論理の屈折の説明を拒否した。「自分の詩を語ることは嘘をつくことだ」。

注釈は、ここまで。これから書くのは、私の感想である。
私は別の詩人の詩のなかに「何かが肉体のなかで増えてくるのを感じた」という一行を読んだ。そのとき「自分の心から出てきたようだ」ということばが、ふいにやってきた。それは記憶違いで、ほんとうは「自分の心から出て行きたい」だった。
そうだったのか、と私は納得した。二人は同一人物なのだ。いくつもの筆名で書いているのだ。








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