64 河岸にて
詩はいつでも矛盾のなかにある。たとえば、
「未来」はまだ存在しない。その未来に「死んでしまつた」という修飾語がついている。これは常識からすると矛盾である。矛盾だから、読んだ瞬間に、そこで立ち止まってしまう。躓いてしまう。そして、そのときにはっきりとした形ではないけれど何かが見える。河の中の杭、そこにつながっている赤銹びた鎖、過去からの河の流れ……。それが「いま」ではなく「未来」の姿のように見える。予兆として、見える。
二連目で「水よ/おまえは少しも傷つけずにわたしを奪う」と書くとき、嵯峨は、「いま/ここ」にある水を見ているのか。それとも「死んでしまつた」未来の水を見ているのか、はっきりしない。たぶん、「未来」の水だろう。「おまえは少しも傷つけずにわたしを奪う」ということばと同時にあらわれてくる、いままでなかった水だろう。ことばの動きにあわせて、「いま」が変化し「未来」になる。そういう「動き」のなかで、見えてくる水。
三連目は、一転して水(河)から離れる。
「未来」ではなく「昨日」と「過去」があらわれる。しかし、その「あらわれ方」は「未来」と同じあらわれ方である。それは、「昨日わたしはおまえの唇の上で溺れた」と書くことで、「いま/ここ」に姿をあらわす。ことばにするまでは、それが存在していなかったかのように、「新しく」あらわれてくる。
「ことば」によって、それまで存在しなかったものが「あらわれる」。そのあらわれ方に「未来」「過去」の区別はない。「伸びたまま死んでしまつた未来」の方が、この詩では過去(先に)としてあらわれ、そのあとに「昨日」があらわれるのだから、ここでは「時制」が無視されている。「時制」が矛盾している。
--とは、しかし、だれも言わないだろうなあ。こんな屁理屈を書いているのは私くらいだろうなあ、と思うのだが、この「屁理屈」「時間の流れの矛盾の指摘」のなかに詩の秘密があると思う。
「ことば」といっしょに「未来」も「過去」も「いま」起きているかのようにしてあらわれてくる。区別がない。そのとき、読者は「過去」「いま」「未来」を見ているのではなく、「永遠」にいるのだと思う。「矛盾」が「区別」を否定し、「いま」を「永遠」に変える。これは錯乱かもしれないが、その錯乱が、詩なのである。
このあと嵯峨は、おもしろいことを書いている。
「赤銹び(鎖のいま)」「過去」「未来」が結びつけられて「わたし自身」と呼ばれている。そしてそれは「無音の秩序」とも呼ばれている。おもしろいのは、その「秩序」を修飾する「無音」ということば。「無」が、そこに存在すること。
「過去」「いま」「未来」の区別がなくなる。「過去」が「未来」のあとにあらわれたり、「未来」は「死んで」あらわれたりする。そこには「時制」が「ない(無)」。「秩序」が「ない(無)」。
この「秩序がない」というところから「混沌」というものを、私は考えてしまう。
「矛盾」とは「秩序」がないことでもある。「矛盾」とは「混沌」の一つの形である。詩は、「無(混沌)」を通りぬけて、ことばがいままで書かれた形を踏み外してあらわれたときに感じるものなのだろう。
嵯峨は「無音」ということばをつかっているのであり、「無」ということばを直接つかっているわけではないのだが、その「無」に注目すると、嵯峨のことばの動き(詩の原点/詩のエネルギーの形)に近づけるかもしれないと思う。
65 操り人形
「操り人形」からは「ヒロシマ神話」という章になっている。広島への原爆投下、広島の被曝がテーマになっている。
「それは人間の手でつくられたもつとも大きな火の塊りだ」は原爆そのものを指している。原爆によって、人間は「操り人形」になってしまった、と嵯峨は抗議している。
そのなかほど、
これは被曝した母子の姿。「木の瘤」と「まるくすべすべした」が違和感のある比喩になっている。「ひよいと重く跳んだ」も日常のことばのつながりを裏切っている。
矛盾している。
矛盾の形でしか言えないものが、日常のことばを壊しながら、「いま/ここ」にあらわれてくる。これが詩。
そして、その詩を浮かび上がらせているのが、「無(無常)」の意識かもしれない。
地球もすつかりぶよぶよに腫(むく)んでいる
遠くからは腐りかけたレモンに見えるだろう
「遠くから」は「宇宙」を超えた「無」である。
詩はいつでも矛盾のなかにある。たとえば、
立ちどまると太い鎖の端が赤銹びて河の中へ浸つている
それはわたしの脳の中まで重く伸びていて
たしかにわたしの運命以前から時の中に置かれている
この伸びたまま死んでしまつた未来が
なにかのつづきのように深くわたしに関わるのだ
「未来」はまだ存在しない。その未来に「死んでしまつた」という修飾語がついている。これは常識からすると矛盾である。矛盾だから、読んだ瞬間に、そこで立ち止まってしまう。躓いてしまう。そして、そのときにはっきりとした形ではないけれど何かが見える。河の中の杭、そこにつながっている赤銹びた鎖、過去からの河の流れ……。それが「いま」ではなく「未来」の姿のように見える。予兆として、見える。
二連目で「水よ/おまえは少しも傷つけずにわたしを奪う」と書くとき、嵯峨は、「いま/ここ」にある水を見ているのか。それとも「死んでしまつた」未来の水を見ているのか、はっきりしない。たぶん、「未来」の水だろう。「おまえは少しも傷つけずにわたしを奪う」ということばと同時にあらわれてくる、いままでなかった水だろう。ことばの動きにあわせて、「いま」が変化し「未来」になる。そういう「動き」のなかで、見えてくる水。
三連目は、一転して水(河)から離れる。
空よ
昨日わたしはおまえの唇の上で溺れた
昨日わたしが矛盾の梯子から投身するのをおまえは捕えた
昨日わたしの燃えあがる緑蔭を遠い記憶の一隊が通るのをおまえは見ていた
「未来」ではなく「昨日」と「過去」があらわれる。しかし、その「あらわれ方」は「未来」と同じあらわれ方である。それは、「昨日わたしはおまえの唇の上で溺れた」と書くことで、「いま/ここ」に姿をあらわす。ことばにするまでは、それが存在していなかったかのように、「新しく」あらわれてくる。
「ことば」によって、それまで存在しなかったものが「あらわれる」。そのあらわれ方に「未来」「過去」の区別はない。「伸びたまま死んでしまつた未来」の方が、この詩では過去(先に)としてあらわれ、そのあとに「昨日」があらわれるのだから、ここでは「時制」が無視されている。「時制」が矛盾している。
--とは、しかし、だれも言わないだろうなあ。こんな屁理屈を書いているのは私くらいだろうなあ、と思うのだが、この「屁理屈」「時間の流れの矛盾の指摘」のなかに詩の秘密があると思う。
「ことば」といっしょに「未来」も「過去」も「いま」起きているかのようにしてあらわれてくる。区別がない。そのとき、読者は「過去」「いま」「未来」を見ているのではなく、「永遠」にいるのだと思う。「矛盾」が「区別」を否定し、「いま」を「永遠」に変える。これは錯乱かもしれないが、その錯乱が、詩なのである。
このあと嵯峨は、おもしろいことを書いている。
ああ わたしをとりまく無音の秩序よ
わたし自身もまたその無音の秩序であり
一つの赤銹びであり
あらわな火の過去であり
死んでしまつた石の未来である
「赤銹び(鎖のいま)」「過去」「未来」が結びつけられて「わたし自身」と呼ばれている。そしてそれは「無音の秩序」とも呼ばれている。おもしろいのは、その「秩序」を修飾する「無音」ということば。「無」が、そこに存在すること。
「過去」「いま」「未来」の区別がなくなる。「過去」が「未来」のあとにあらわれたり、「未来」は「死んで」あらわれたりする。そこには「時制」が「ない(無)」。「秩序」が「ない(無)」。
この「秩序がない」というところから「混沌」というものを、私は考えてしまう。
「矛盾」とは「秩序」がないことでもある。「矛盾」とは「混沌」の一つの形である。詩は、「無(混沌)」を通りぬけて、ことばがいままで書かれた形を踏み外してあらわれたときに感じるものなのだろう。
嵯峨は「無音」ということばをつかっているのであり、「無」ということばを直接つかっているわけではないのだが、その「無」に注目すると、嵯峨のことばの動き(詩の原点/詩のエネルギーの形)に近づけるかもしれないと思う。
65 操り人形
「操り人形」からは「ヒロシマ神話」という章になっている。広島への原爆投下、広島の被曝がテーマになっている。
「それは人間の手でつくられたもつとも大きな火の塊りだ」は原爆そのものを指している。原爆によって、人間は「操り人形」になってしまった、と嵯峨は抗議している。
そのなかほど、
樹の瘤のようにまるくすべすべした母子が
水溜りの上をひよいと重く跳んだ
そしてまたゆつくりゆつくりと二つの影は寄り添つて歩いていつた
これは被曝した母子の姿。「木の瘤」と「まるくすべすべした」が違和感のある比喩になっている。「ひよいと重く跳んだ」も日常のことばのつながりを裏切っている。
矛盾している。
矛盾の形でしか言えないものが、日常のことばを壊しながら、「いま/ここ」にあらわれてくる。これが詩。
そして、その詩を浮かび上がらせているのが、「無(無常)」の意識かもしれない。
地球もすつかりぶよぶよに腫(むく)んでいる
遠くからは腐りかけたレモンに見えるだろう
「遠くから」は「宇宙」を超えた「無」である。
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