詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

三木孝浩監督「くちびるに歌を」(★)

2015-03-11 22:31:00 | 映画
監督 三木孝浩 出演 新垣結衣、恒松祐里

 「ホッロード」の三木孝浩が監督なので見に行ったのだが……。
 ストーリーを追うのに忙しくて人物造形に深みがない。主役の新垣結衣はむずかしい役どころだが、あんなふうに最初から「拒絶」を前面に出していては「漫画」である。自然な悲しみが、まったく感じられない。激しく傷ついていて、その悲しみはふつうの人の悲しみとは違うとしても、これでは中学生が寄りつかないだろう。ひとを引きつけるけれど、最後の一瞬で、親密になるのを拒むという感じじゃないと、「不思議な先生」という感じがしない。中学生はもっと敏感だろう。大人が隠していても、それを見破ってしまうのが子供なのだから、その隠すことと見破る関係のはらはらを折り込まないとリアリティーが出てこない。
 脚本も演技も、大失敗の作品。
 長崎・五島が舞台なのだが、島ならではのリアリティーが出ているのは、一か所、男子生徒が女子生徒のスカートが風でめくれるのを隠れてみるシーンくらい。島なので、季節ごとに吹く風の向き、風の特徴がある。風の通り道がある。そういうことを、島のひとは(子供も)自然に見つけ出す。で、ある日、風が階段の踊り場を通るということを予測し、女子が踊り場に現われるのを隠れて待っている。その予測通りに風が吹き、女子のスタートがめくれる。下着が見える。この無邪気なシーン以外に、島が舞台である必要は何もない。ほんとうにロケしたのだろうか。その土地でカメラを動かし、そこに暮らすひとと接することで掴み取った映像の「実感」がない。(風でスカートがめくれるシーンさえ、どこか別の場所で撮影したのではと思う。リアリティーは、少年の「ことば」とそのことばにあわせて動くストーリーにあるのであって、映像にはリアリティーがあるわけではないからね。)
 「ホットロード」ではとても美しい夜明けの道路を映像化していたのに、この映画では、たとえば野外で合唱するシーンなど、島のそのままの美しさに頼って、カメラが演技をしていない。浜辺を走って体力をつけるシーンも同じ。中学生の演技が「紋切り型」を超えるのはむずかしい。カメラが演技しないことには、映画にならない。
 クライマックスの伏線となる教会のパイプオルガンの音、自閉症の青年の「ポーッ、ポーッ」という音の、時差と空間差を抱え込んだ和音は美しい。少女が教会でパイプオルガンで音を出す。そのシーンのあと、青年が弟と歩きながら「ポーッ、ポーッ」と言う。そのとき、耳のなかで「和音」が完成する。あ、ここはいいなあ。そのとき、背景に船が通りすぎれば、と私は思うけれど、船があるとしつこい? 船がうるさいなら、船が走り去った波の跡でもいいのだけれど。そうすると、島と音楽の結びつきが「映像」になるのだけれど、その「映像」がないために、和音が「ことば」になってしまって、小説を読んでいるみたい。
 つまらないね。
 教会も「パイプオルガン」の「音」だけのために登場するのでは、つまらない。「暮らし」がかかわってこないと、いくら世間離れしたピアニストと中学生が主人公とは言え、背景が「書き割り」になってしまう。
 主役の女子中学生と、彼女のことが好きな男子が自転車を押して帰るシーンの坂道。小学生が道端で遊んでいるというシーンのような、もっと、そこにしかない「暮らし」をおりこまないと、舞台が五島列島であることを忘れてしまう。
 で、舞台が五島列島の島であるということが映画から消えてしまうと何が残るか。先に書いたことへ引き返すことになるのだが、「ことば」だけが残る。テーマがアンジェラ・アキの「手紙」。「手紙」はことばで書く。だから「ことば」が前面に出てきてしまうのは、ある瞬間にはしようがないことなのかもしれないが、あまりにも「ことば」が強すぎる。
 自閉症の兄をもった中学生の「手紙」は、少年にしか駆けない「事実」が具体的に書かれているからいいけれど、おとなになった新垣結衣が十五年前の手紙を読む(文集の作文を読む)のは、おもしろくない。その文集の文章が紋切り型すぎるから余計に、そう感じる。「紋切り型」というのは抽象的という意味でもある。ピアノの演奏でひとを幸せにしたい、というようなことは十五歳の新垣結衣にかぎらず、音楽に携わりたいと願っているひとならだれだっていう。AKB48のメンバーだっていうに違いない。(そう言いなさい、とマネジャーに教えられているに違いない。)
 最後の、自閉症の青年を囲んで歌が広がるという感動的なシーンも、それまでが「ことば」で語られすぎているのと、汽笛の「和音」の映像が長すぎて(多すぎて)、押しつけになっている。最初の「和音」のシーンは物足りないくらい(思わず、船の軌跡がみたいと言いたくなるくらい)いい感じだったのに、ここでは「説明」しすぎている。
 原作があるようなので、アンジェラ・アキの「手紙」を読みながら、その小説を読んだ方が感動できるかもしれない。
                        (天神東宝4、2015年03月11日)




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坂の上から

2015-03-11 18:00:00 | 
坂の上から

坂の上から塀の中の枝垂れ梅が見えた。
半分壊れた花のなかで、遅れて咲いた花が白く残っている。
立ち止まると風がつめたい。
立ち止まっていると雲が動いたのか、日差しが明るくなった。
花びらが光の方へ手を伸ばしたみたいに輪郭が濃くなった。
ぽっと光った。
こころのなかにも一輪の梅が。





*

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嵯峨信之を読む(38)

2015-03-11 11:58:24 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
72 酷薄なる王者

 死と時は嵯峨のことばのなかでは緊密な関係にある。

時は
手当たりしだいに人間がつくつたものだ

 この印象的な二行は、

いたるところに蔓延(はびこ)る孤児(みなしご)だ

 とつづくとき、「孤児」は「時」の比喩のように読むことができるが、「孤児」は「戦災孤児」かもしれない。戦争によって人間がつくりだした「孤児」という印象が頭をかすめる。
 その印象をかかえたまま、詩は

酷薄なる王者よ
またしても死を引きぬいたのか

 と動くとき、「戦災」という「人為」が消えて、もっと大きな「人間の運命(宿命)」のようなものが迫ってくる。「王者」ということばが、「人為」を「神話」に変えてしまうのかもしれない。
 「時」のなかでひとは死んでいく。そのとき残されるひとがいる。「孤児」が生まれる。それはかならずしも「幼児」とはかぎらないだろう。
 でも、そうすると

時は
手当たりしだいに人間がつくつたものだ

 最初の印象的な二行はどうなるのだろう。「人間がつくつた」とはどういう「意味」になるのだろう。

そして一日一日鈍い音をたてて
遮断機が下ろされる
たれのしわさがたれも知らない

 「人間がつくつた」は「一日」という「区切り」のようにも感じられる。それはだれが決めた(つくった)区切りなのか。わからないが、その区切りがあるために、時が過ぎ去り、時が過ぎるにしたがって死が近づいてくる。その過ぎ去り、また押し寄せてくる時、その絶え間ない「時」の氾濫は、たしかに「手あたりしだいに」つくったもののようにも思える。
 嵯峨が何を書こうとしたのか、私にはよくわからないが、その

手あたりしだいに

 ということばと「人間」ということばが結びつくとき、何か不思議な感じに襲われる。「運命」に対して、無防備のまま立ち向かっているときの、その「無防備」の真剣さのようなものを感じる。

73 死の唄

ふいに死がやつてきて最後の孤独を手渡す

 書き出しの「孤独」は、「酷薄なる王者」に出てくる「孤児」を連想させる。両親が死んだとき、子供は孤独な孤児になる。一方で、死んでしまった親もまた子供から切り離され、世界から切り離され孤独になる。
 死によって、死んでゆくものと残されたものが「孤独」で結びつく。
 そういうことを嵯峨は感じているのだろうか。

深い沈黙のうえに星は消えてしまう

 この「沈黙」は「孤独」を言いかえたもののように思える。

もうたれのでもなくなつた時間が死者からたちのぼる

 この「時間」は「沈黙」とも「孤独」とも読むことができる。
 冒頭の三行で「孤独」「沈黙」「時間」とことばが変化するが、それは「共通感覚」でつながっている。同じ未分節のところから、「孤独」「沈黙」「時間」ということばに分節されて出てきているが、そのときの「出方(あらわれ方)」が同じ。

実在のなかに姿をかくしていたものが
いま現われてたれからも遠くへたちさる

 「実在のなかに姿をかくしていたもの」とは「死」であり、その「死」はまた「孤独」「沈黙」「時間」でもある。それが「いま」「現われ」た。
 「実在のなかに姿をかくしていたもの」の「かくしていた」は「未分節」ということ。「混沌/無」ということ。
 それがいま、「孤独」「沈黙」「時間」と呼ばれ、さらに「死」と呼ばれて、詩として書かれている。
 「死」が「いま現われてたれからも遠くへたちさる」というのは、「実在(たとえば人間)」内部に隠れていた「死」が「死」というものとして表に出てきて、「死」そのものになり(他人にもみえるもの/隠れていないものになって)、それから去っていくということだろう。これは「酷薄なる王者」の「またしても死を引きぬいたのか」にも通じる。人間のなかに隠れて存在していた「死」が引き抜かれて表に出てきて、「死」そのものになる。「死」は人間の「外部」からやってくるのではく、あくまで内部から表に出てくるものなのだ。
 哲学的で抽象的な詩だ。
 この抽象を嵯峨は次の一行で美しいイメージにする。

夕ぐれ白樺の幹からそつと泉へ消えていくものと同じものが

 昼の光に照らされていた白樺の幹の白い色。それが夕暮れに消えていく。空中へ消えていくのではなく「泉へ」消えていく。この「泉」がいいなあ。センチメンタルといえばセンチメンタルなのかもしれないが、情景が広がる。空中へ消えていくでは半分抽象のまま、「象徴」あるいは「比喩」になってしまう。
 「泉」が登場しても、消えていく白樺の白は「象徴」「比喩」なのだが、「泉」によって「もの」としても存在することになる。「関係」が「白樺」と「泉」を「もの」として存在させるのだ。
 そのとき「死」も「もの」になる。

ああ 自分からなにか去つていくのを感じるのは
なんという怖ろしいことだろう

 「孤独」が「沈黙」が「時間」が去っていく。「死」さえも去っていく。それが死だ。
 「死」が去っていくのが死であるというのは「矛盾」に聞こえるが、「死についての考え」「死について思うこと」が人間から去っていく、そういうことを考えることもできなくなるというふうに考えると、死が去ってこそ死なのだと考えざるを得ない。
 嵯峨は最後に「なんと怖ろしいことだ」と書いているが、この詩を読むと、たとえば白樺の一行を読み、「最後の孤独を手渡す」「深い沈黙のうえに星は消えてしまう」というような行を思い出すと、それは「美しい」ものにも感じられる。
 詩は、恐怖を裏切るものかもしれない。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
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思潮社
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破棄された詩のための注釈(7)

2015-03-11 01:26:14 | 
破棄された詩のための注釈(7)

「灰色の猫」というタイトルだけが書かれた。その猫は会社の近くの「サバ定食屋」の店にいる。昼になると客があふれ、匂いが充満する。脂が炭火の上に落ちて、うすあおい煙があがる。半身の背中の皮がこげて破れる。焼き上がった。その脂のしたたる背中を、こげた皮ごと口に入れる。すこし苦い。それがどんなにうれしいことか、猫には言い尽くせない。やわらかい肉が、少し衰えた歯肉のせいか、歯のあいだに挟まる。それを気にしながら、定食を食べ終えた客が、うすい茶で口の中のすすぐとき、独特のなまぐさみが鼻腔に甦る。消えていくものが、なつかしい。「意味」が突然襲ってくるみたいだ、という比喩をそこで書いてみたかったのだが……。
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