詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

暁方ミセイ「梅林画報」

2015-03-29 22:01:30 | 詩(雑誌・同人誌)
暁方ミセイ「梅林画報」(「読売新聞」2015年03月25日夕刊)

 暁方ミセイ「梅林画報」にはいくつかの不思議なことばがある。

欲求するかたちの
野梅の枝は
しののめ、
紫、
から突き出した
風景の手だ、
空の血管に繋(つな)がっている

 この一連目の「主語」は何だろうか。「野梅の枝は」と書かれているから「梅」が主語だろうか。それは「風景の手だ」と「比喩」の形で言いなおされ、「繋がる」という動詞で「肉体」化される。「手」が比喩であるというよりも「繋がる」という「動詞」が比喩として働き、それが「肉体」を刺戟してくる。「梅林(梅の木)」を描いているのだが、その梅が「人間の肉体」と「繋がる」という動詞のなかで重なる。読んでいて、梅の木になったような感じがする。そのとき「枝」は「手」である。そして、その「手」が繋がるのは「手」ではない。「空の血管」、つまり「空の肉体の内部」である。そうなると「繋がっている手」も「手」という外観で繋がっているのではなく「手の中の血管」が繋がっているような感じになる。いのち(血)が繋がっている感じ。
 しかしよく読むと、その「枝」は「ししのめ、/紫、/から突き出した」手と語られている。枝が最初にあったのか、それとも「空」が最初にあったのかわからなくなる。朝方の空から手が伸びてきて、それが「梅の枝」という形になって、いま/ここにあらわれているようにも読める。ほんとうの「主語」は暁の空であり、それが「手」という比喩を通ることで「梅の枝」になって存在している。空のなかにある血管が、梅の枝のなかを流れて、梅の木になっているとも読むことができる。
 私は、どちらかというと、後者の読み方をしたい。
 梅の木が最初にあったのではなく、空が最初にあった。空が変化して梅の木になった。空が梅の木を欲求して、そこに「梅林」を出現させたというように読みたい。そう読むとき、暁方は「空(宇宙)」なのだ。「宇宙」の「何か」が凝縮して、梅としていま/ここに存在している。
 この「空(宇宙)」を「空(くう)」と呼びたい気持ちもしている。
 私たちが日常的に見ている「存在」、たとえば「梅林」(梅)というものをそのまま固定化するのではなく、梅であることを疑ってみる。そして、梅と思っているものをたたき壊し、解体し、「いのち(ここでは「血管」という表現が出てくる)」にまで引き戻し、それをもう一度、いま/ここに呼び戻して「見える形」にする。そのとき通りぬける「場」が「無/空(くう)」という感じがする。ふつうに見ている「海の枝」が消えてしまって、「手」あるいは「血管」というものになって、さらに「梅の枝」にもどってくる。こういう変化の起きている「場」というものが「空(くう)」。それは「宇宙」の秘密のようなもの。「場」というよりエネルギーの不定形な塊があって、それを浄化(?)、あるいは結晶させるきっかけを「空(くう)」と言えばいいのか……。
 そういう「激しい運動の場」が「手」や「血管」という「肉体」のことば、「繋ぐ」という「肉体」の運動として再現されるとき、その生成の変化は「宇宙」の変化であると同時に「人間」の「肉体」の変化、いのちの誕生のように感じられる。
 こういう感じがするところが暁方の詩のことばのすごいところである。宮沢賢治そのままである。

パキパキと鳴る音で
人がいることがわかった
廃屋の裏へまわり
予感の発する匂いを嗅いで
それをまたどこかへやってしまっている

 ここに出て来る「人」は日常的に私たちが「人」と呼んでいる存在かどうかは、わからない。私は「梅」の一本一本を「人」と呼んでいるように思える。一連目で「宇宙」と繋がることによって「人間化(肉体化)」した存在。それは動いている。それは固定化していない。「予感の匂い」として常に動いている。
 暁方の感じていることのすべてを感じ取ること(正確に受け止めること)は私にはできないが、そんな「変化」、あるいは「流動」というものを感じる。「梅の枝(梅の木)」というものは「固形」であるが、その「固形」が「流動」する。これも、なんだか宮沢賢治ふうだが、とても印象的だ。

この林には鶯(うぐいす)の
胸の小骨だって
隠されている
さっきから日差しが焚(た)くように燃えて
かえって透明が濃いのは
そのためだろう

 最終連にも、とても不思議なことばがある。「透明が濃い」。うーん。「透明が濃い」か。「透明」は何もないから「透明」。「濃い」というよりも「薄い」から「透明」なのかもしれないが、何かが薄くなっていって、その薄くなることを透明に近づくと考えるとき、この「濃い」は「濃い/薄い」の「濃い」ではないのだとわかる。「状態」ではないのだ。「静的」なものではないのだ。動いているのだ。「動詞」なのだ。
 「濃い」を「動詞」というと変だが、「用言」であるから、それは「動く」何かなのだ。「濃い」を「濃くなる」と言いなおせば、暁方の書こうとしていることに近づくかもしれない。「濃くなる」、透明が「濃くなる」とは、透明が凝縮して純粋な結晶のようになるということかもしれない。
 「しののめ、/紫」(一連目)が「日差し」によって「燃え」て透明になり、それが凝縮して透明という「結晶」になる。それは「透明」を通り越して、光になってしまっているかもしれない。透明が見えるのではなく光が見える。いや、「光」という「名詞」ではなく「光る」という「動詞」が見える。「光」さえも「固定」せず、「動詞」にしてしまう。そういう運動としてとらえるとき、暁方の「肉体」そのものが「宇宙」を全部肉体のなかに引き受けて、その「肉体」が透明化という運動になる。
 「梅林」を描写しながら、「梅林」を突き破り、「宇宙」と融合し、「光る」という「動詞」として「いま/ここ」に「ある」ひとつの「肉体」。そういう「変化」として、この詩を読みたい。

ブルーサンダー
暁方 ミセイ
思潮社
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パベウ・パブリコフスキ監督「イーダ」(★★★★)

2015-03-29 10:36:44 | 映画
監督パベウ・パブリコフスキ 出演 アガタ・クレシャ、アガタ・チュシェブホフスカ

 先日見たアラン・レネ監督「愛して飲んで歌って」(★)の冒頭、それにつづく道路を車が走っていくシーン(車は映らない)にも驚いたが、この映画の冒頭のシーンにも驚いた。主人公が何かをしている。その何かがわからない。そういうことはよくあることだが、異様なのは「何が」をスクリーンの中心に映し出さないこと。左下の方で主人公の顔と手の動きが見える。何かに触れている。左下四分の一(以下かもしれない)で、そういう描写があり、ほかは漠然とした空間。映画は主人公が何をしているかを明確な映像にして見せるもの、と私は思っているので、これはとても変な感じがする。私がこれまで見た映画では、主人公はあくまでスクリーンの中心にいた。アップ過ぎて何をしているかわからない映像は、中心を固定してそのままロングに引いて行くことで全体がわかる、何をしているかがわかるという表現形式をとっていたが、この映画はアップを左下に、何かが欠落した状態で描きはじめるので、とても異様な感じがするのだ。映画文法(映像文法)を踏み外して映画がはじまるのだ。
 やがて主人公はほかの修道女といっしょにキリスト(?)の像の汚れ(ほこり)をはらっていたことがわかる。その像をきれいにしたあと、庭に設置し直すのだが、そういうときの全景のシーンも何か奇妙。人物の占める位置が不安定。スクリーンの中心を占めない。世界の端っこにいる感じがする。あるいは世界の下の方にいる感じがする。
 これが最後の最後でがらりとかわる。主人公は修道女(見習い?)の姿で道を歩いている。車が行き交う道だから彼女が歩いているのは端っこだろう。けれど、その姿をカメラは真ん中にすえて撮りつづける。胸から上、顔のアップなので、主人公と道の位置の関係がわからない。彼女が道の真ん中を歩いていて、車は端っこを走っていくという感じになってしまう。そういうことは現実にはないのだが、映画のなかでは主人公が「真ん中」を堂々と歩いている。
 主人公はどこへ行くのか。修道女の姿をしているから修道院へ戻るのか。それとも外出用の服がそれしかないので、それを着ているだけなのか。いろいろ想像できるが、明確なことはわからない。わかるのは、彼女が何事かを決めた、ということだけである。自分の進む道をはっきりと見極めた、だから迷わない、そういうことがわかる。世界の中心に彼女がいるということだけがわかる。それは彼女の決断なのだ。決断が、彼女を「主人公」にしたのだ。
 ここから映画を振り返ると、そこに描かれていたことがより鮮明にわかる。
 映画は、主人公が修道女になる前に叔母に会って、自分がどういう人間なのかを確認する過程を描いている。彼女は主人公だけれど、何もしない主人公である。何も知らない少女である。修道女として宗教に生きるかどうかも、まだ決断していない。その彼女が、叔母に会って、自分がユダヤ人であることを知る。そして、自分が生まれ育った街を尋ねる。ひとに両親のことを聞く。そういうことを繰り返していくうちに、叔母にはつらい過去があることがわかる。叔母は戦争中、少女の両親(母親が姉)に自分の息子をあずけた。その息子は少女の両親とともに、ポーランド人によって殺害された。なぜ少女は生き残り、叔母の息子は殺されたのか。その経緯は、わからない。(映画のなかできちんと描かれていたのかもしれないが、ぼんやりして、見落としてしまった。)もしかしたら、叔母の息子は生き残り、少女が死んでいたという「歴史」があったかもしれない。少女は、思いがけない形でストーリーの「中心」にひっぱり出される。彼女がいなければ起きなかったかもしれないことが、過去に起きたのだ。
 叔母は、何も知らない少女に、両親の悲劇を語り、真実を知らせる。遺体の埋められている場所(墓地ではない)を探し、それにかかわったポーランド人をたずねるという形をとって、少女の悲しい歴史を明らかにしてゆく。そうすると、そこにどうしても殺された息子が深くかかわってくる。主人公が少女から叔母自身にかわってしまう。叔母の苦悩が深くなる。どうして息子が殺されたのか、どうして守ることができなかったのかと、叔母は少女を見ながら苦悩している。少女の驚きや苦悩、悲しみに配慮する余裕がなくなる。だから酒に逃げたりもする。息子が虐殺され、遺体が埋められた場所がわかると、そこで叔母の苦悩のひとつは解消する(息子をちゃんと葬ることができる)。けれど、そうやって「事実」を明確にすると、それまで叔母を支えていた「生きる執念」のようなものが消えてしまう。叔母は自殺してしまう。
 残された少女は、そのとき、誰なのか。ユダヤ人の悲劇を知ってしまった少女は、単なる修道女の見習いではない。叔母の悲しみと苦悩、絶望を知ってしまった少女は、もう少女ではない。叔母そのものだ。少女は、叔母のドレスを身に着け、ハイヒールを履いてみる。叔母になってみる。叔母の、世界との向き合い方を肉体で真似してみる。そういう「姿」を真似なくても、ユダヤ人の歴史を知ることで、少女は叔母になってしまっているかもしれないが、「確信」があるわけではない。世界の端っこから急に「主人公/ユダヤ人の悲劇」にひっぱり出されて、どうしていいかわからないのである。「肉体」の手応えがない。だからこそ、ベールを脱いでジャズのサックス奏者とセックスもする。自分の存在を確認するには「肉体」が絶対必要なのだ。そのあと、彼からいっしょに行かないか、という誘いも受ける。それは少女がいままで知らなかった「世界」であり、同時に叔母が体験してきた世界である。少女が最初に叔母と会うとき、叔母の家には男がいて、セックスをした後らしいことが描かれている。そのときの男と女の関係は愛なのか、どうか。悲しみを忘れるためのセックスだったかもしれない。少女にとっても、それは疑問だ。自分の見てきたものが、何か大きく崩壊していく。どうやって自分を支えていいのかわからない。何をしていいか、わからない。その不安のなかで、そばにいた男にすがったのである。
 冒頭にもどって考える。主人公はキリストの像を磨いている。なぜ、そうするのか。なぜ、キリストなのか。真剣に苦悩し、考え抜き、答えを出す前に、そこにキリストの像があった。修道院があった。それはセックスをしたサックス奏者とかわりがない。かわりがないからこそ、主人公は「決断」しなくてはならない。誰と生きるべきなのか。そして「決断」したのだ。自分を「世界」の中心に置いて、世界を歩いていくということを選んだのだ。「主人公」になったのだ。誰と生きるにしろ、少女がついていくのではなく、少女が引っぱって行くのだ。
 どんな映画も「主人公」の成長(変化)を描くものである。この映画もそういう変化を描いているのだが、おもしろいのは主人公は最初から主人公なのではなく、自分が「主人公である」と発見するまでを描いている点である。そしてその変化をスクリーンにおける主人公の「位置」と緊密に重ね合わせている点である。
                      (KBCシネマ1、2015年03月28日)





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破棄された詩のための注釈(20) 

2015-03-29 01:42:41 | 
破棄された詩のための注釈(20) 

「肖像画」を定義して「修正された線」という比喩から書きはじめている。修正することで人工的な空間をつくりたかったのである。感情はこころにあるのではない。人間の内部にあるのではない。「空間(その場)」にある何かと結びつき、断言に変わるとき、感情はつくり出される。

「肖像画」をしばらくみつめて、それから突然気づいたように、語りはじめる。最初からわかっていた。わかっていたことを印象づけるために、間を置いたのである。間を置いたあと、一連目のことばを二連目で反芻することで「物語」へと、ことばをずらしていく。「修正された線」には、すでに「物語(その時間)」が存在している。

三連目。比喩を消して読み直すと、テーブルと椅子と、テーブルの上の瓶とグラスが残る。女はグラスを左手でもち、右手の布巾でテーブルを拭いている。犬は部屋の隅から、上目づかいでその様子を見ている。

「肖像画」ではない。「絵」のなかの「顔」だけを取り出している。「修正された」のは「構図」の方である。人工的な時間をつくりたかったのである。悲劇は関係のなかにあるのであって、個人の内部にはない。「時間(物語)」をつくりだしてしまう論理は語られてしまっているがゆえに、すべて剽窃である。
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