暁方ミセイ「梅林画報」(「読売新聞」2015年03月25日夕刊)
暁方ミセイ「梅林画報」にはいくつかの不思議なことばがある。
この一連目の「主語」は何だろうか。「野梅の枝は」と書かれているから「梅」が主語だろうか。それは「風景の手だ」と「比喩」の形で言いなおされ、「繋がる」という動詞で「肉体」化される。「手」が比喩であるというよりも「繋がる」という「動詞」が比喩として働き、それが「肉体」を刺戟してくる。「梅林(梅の木)」を描いているのだが、その梅が「人間の肉体」と「繋がる」という動詞のなかで重なる。読んでいて、梅の木になったような感じがする。そのとき「枝」は「手」である。そして、その「手」が繋がるのは「手」ではない。「空の血管」、つまり「空の肉体の内部」である。そうなると「繋がっている手」も「手」という外観で繋がっているのではなく「手の中の血管」が繋がっているような感じになる。いのち(血)が繋がっている感じ。
しかしよく読むと、その「枝」は「ししのめ、/紫、/から突き出した」手と語られている。枝が最初にあったのか、それとも「空」が最初にあったのかわからなくなる。朝方の空から手が伸びてきて、それが「梅の枝」という形になって、いま/ここにあらわれているようにも読める。ほんとうの「主語」は暁の空であり、それが「手」という比喩を通ることで「梅の枝」になって存在している。空のなかにある血管が、梅の枝のなかを流れて、梅の木になっているとも読むことができる。
私は、どちらかというと、後者の読み方をしたい。
梅の木が最初にあったのではなく、空が最初にあった。空が変化して梅の木になった。空が梅の木を欲求して、そこに「梅林」を出現させたというように読みたい。そう読むとき、暁方は「空(宇宙)」なのだ。「宇宙」の「何か」が凝縮して、梅としていま/ここに存在している。
この「空(宇宙)」を「空(くう)」と呼びたい気持ちもしている。
私たちが日常的に見ている「存在」、たとえば「梅林」(梅)というものをそのまま固定化するのではなく、梅であることを疑ってみる。そして、梅と思っているものをたたき壊し、解体し、「いのち(ここでは「血管」という表現が出てくる)」にまで引き戻し、それをもう一度、いま/ここに呼び戻して「見える形」にする。そのとき通りぬける「場」が「無/空(くう)」という感じがする。ふつうに見ている「海の枝」が消えてしまって、「手」あるいは「血管」というものになって、さらに「梅の枝」にもどってくる。こういう変化の起きている「場」というものが「空(くう)」。それは「宇宙」の秘密のようなもの。「場」というよりエネルギーの不定形な塊があって、それを浄化(?)、あるいは結晶させるきっかけを「空(くう)」と言えばいいのか……。
そういう「激しい運動の場」が「手」や「血管」という「肉体」のことば、「繋ぐ」という「肉体」の運動として再現されるとき、その生成の変化は「宇宙」の変化であると同時に「人間」の「肉体」の変化、いのちの誕生のように感じられる。
こういう感じがするところが暁方の詩のことばのすごいところである。宮沢賢治そのままである。
ここに出て来る「人」は日常的に私たちが「人」と呼んでいる存在かどうかは、わからない。私は「梅」の一本一本を「人」と呼んでいるように思える。一連目で「宇宙」と繋がることによって「人間化(肉体化)」した存在。それは動いている。それは固定化していない。「予感の匂い」として常に動いている。
暁方の感じていることのすべてを感じ取ること(正確に受け止めること)は私にはできないが、そんな「変化」、あるいは「流動」というものを感じる。「梅の枝(梅の木)」というものは「固形」であるが、その「固形」が「流動」する。これも、なんだか宮沢賢治ふうだが、とても印象的だ。
最終連にも、とても不思議なことばがある。「透明が濃い」。うーん。「透明が濃い」か。「透明」は何もないから「透明」。「濃い」というよりも「薄い」から「透明」なのかもしれないが、何かが薄くなっていって、その薄くなることを透明に近づくと考えるとき、この「濃い」は「濃い/薄い」の「濃い」ではないのだとわかる。「状態」ではないのだ。「静的」なものではないのだ。動いているのだ。「動詞」なのだ。
「濃い」を「動詞」というと変だが、「用言」であるから、それは「動く」何かなのだ。「濃い」を「濃くなる」と言いなおせば、暁方の書こうとしていることに近づくかもしれない。「濃くなる」、透明が「濃くなる」とは、透明が凝縮して純粋な結晶のようになるということかもしれない。
「しののめ、/紫」(一連目)が「日差し」によって「燃え」て透明になり、それが凝縮して透明という「結晶」になる。それは「透明」を通り越して、光になってしまっているかもしれない。透明が見えるのではなく光が見える。いや、「光」という「名詞」ではなく「光る」という「動詞」が見える。「光」さえも「固定」せず、「動詞」にしてしまう。そういう運動としてとらえるとき、暁方の「肉体」そのものが「宇宙」を全部肉体のなかに引き受けて、その「肉体」が透明化という運動になる。
「梅林」を描写しながら、「梅林」を突き破り、「宇宙」と融合し、「光る」という「動詞」として「いま/ここ」に「ある」ひとつの「肉体」。そういう「変化」として、この詩を読みたい。
暁方ミセイ「梅林画報」にはいくつかの不思議なことばがある。
欲求するかたちの
野梅の枝は
しののめ、
紫、
から突き出した
風景の手だ、
空の血管に繋(つな)がっている
この一連目の「主語」は何だろうか。「野梅の枝は」と書かれているから「梅」が主語だろうか。それは「風景の手だ」と「比喩」の形で言いなおされ、「繋がる」という動詞で「肉体」化される。「手」が比喩であるというよりも「繋がる」という「動詞」が比喩として働き、それが「肉体」を刺戟してくる。「梅林(梅の木)」を描いているのだが、その梅が「人間の肉体」と「繋がる」という動詞のなかで重なる。読んでいて、梅の木になったような感じがする。そのとき「枝」は「手」である。そして、その「手」が繋がるのは「手」ではない。「空の血管」、つまり「空の肉体の内部」である。そうなると「繋がっている手」も「手」という外観で繋がっているのではなく「手の中の血管」が繋がっているような感じになる。いのち(血)が繋がっている感じ。
しかしよく読むと、その「枝」は「ししのめ、/紫、/から突き出した」手と語られている。枝が最初にあったのか、それとも「空」が最初にあったのかわからなくなる。朝方の空から手が伸びてきて、それが「梅の枝」という形になって、いま/ここにあらわれているようにも読める。ほんとうの「主語」は暁の空であり、それが「手」という比喩を通ることで「梅の枝」になって存在している。空のなかにある血管が、梅の枝のなかを流れて、梅の木になっているとも読むことができる。
私は、どちらかというと、後者の読み方をしたい。
梅の木が最初にあったのではなく、空が最初にあった。空が変化して梅の木になった。空が梅の木を欲求して、そこに「梅林」を出現させたというように読みたい。そう読むとき、暁方は「空(宇宙)」なのだ。「宇宙」の「何か」が凝縮して、梅としていま/ここに存在している。
この「空(宇宙)」を「空(くう)」と呼びたい気持ちもしている。
私たちが日常的に見ている「存在」、たとえば「梅林」(梅)というものをそのまま固定化するのではなく、梅であることを疑ってみる。そして、梅と思っているものをたたき壊し、解体し、「いのち(ここでは「血管」という表現が出てくる)」にまで引き戻し、それをもう一度、いま/ここに呼び戻して「見える形」にする。そのとき通りぬける「場」が「無/空(くう)」という感じがする。ふつうに見ている「海の枝」が消えてしまって、「手」あるいは「血管」というものになって、さらに「梅の枝」にもどってくる。こういう変化の起きている「場」というものが「空(くう)」。それは「宇宙」の秘密のようなもの。「場」というよりエネルギーの不定形な塊があって、それを浄化(?)、あるいは結晶させるきっかけを「空(くう)」と言えばいいのか……。
そういう「激しい運動の場」が「手」や「血管」という「肉体」のことば、「繋ぐ」という「肉体」の運動として再現されるとき、その生成の変化は「宇宙」の変化であると同時に「人間」の「肉体」の変化、いのちの誕生のように感じられる。
こういう感じがするところが暁方の詩のことばのすごいところである。宮沢賢治そのままである。
パキパキと鳴る音で
人がいることがわかった
廃屋の裏へまわり
予感の発する匂いを嗅いで
それをまたどこかへやってしまっている
ここに出て来る「人」は日常的に私たちが「人」と呼んでいる存在かどうかは、わからない。私は「梅」の一本一本を「人」と呼んでいるように思える。一連目で「宇宙」と繋がることによって「人間化(肉体化)」した存在。それは動いている。それは固定化していない。「予感の匂い」として常に動いている。
暁方の感じていることのすべてを感じ取ること(正確に受け止めること)は私にはできないが、そんな「変化」、あるいは「流動」というものを感じる。「梅の枝(梅の木)」というものは「固形」であるが、その「固形」が「流動」する。これも、なんだか宮沢賢治ふうだが、とても印象的だ。
この林には鶯(うぐいす)の
胸の小骨だって
隠されている
さっきから日差しが焚(た)くように燃えて
かえって透明が濃いのは
そのためだろう
最終連にも、とても不思議なことばがある。「透明が濃い」。うーん。「透明が濃い」か。「透明」は何もないから「透明」。「濃い」というよりも「薄い」から「透明」なのかもしれないが、何かが薄くなっていって、その薄くなることを透明に近づくと考えるとき、この「濃い」は「濃い/薄い」の「濃い」ではないのだとわかる。「状態」ではないのだ。「静的」なものではないのだ。動いているのだ。「動詞」なのだ。
「濃い」を「動詞」というと変だが、「用言」であるから、それは「動く」何かなのだ。「濃い」を「濃くなる」と言いなおせば、暁方の書こうとしていることに近づくかもしれない。「濃くなる」、透明が「濃くなる」とは、透明が凝縮して純粋な結晶のようになるということかもしれない。
「しののめ、/紫」(一連目)が「日差し」によって「燃え」て透明になり、それが凝縮して透明という「結晶」になる。それは「透明」を通り越して、光になってしまっているかもしれない。透明が見えるのではなく光が見える。いや、「光」という「名詞」ではなく「光る」という「動詞」が見える。「光」さえも「固定」せず、「動詞」にしてしまう。そういう運動としてとらえるとき、暁方の「肉体」そのものが「宇宙」を全部肉体のなかに引き受けて、その「肉体」が透明化という運動になる。
「梅林」を描写しながら、「梅林」を突き破り、「宇宙」と融合し、「光る」という「動詞」として「いま/ここ」に「ある」ひとつの「肉体」。そういう「変化」として、この詩を読みたい。
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