詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

アラン・レネ監督「愛して飲んで歌って」(★)

2015-03-25 22:11:14 | 映画
監督 アラン・レネ 出演 サビーヌ・アゼマ、イポリット・ジラルド、カロリーヌ・シオール

 冒頭から、落ち着かない。どこか、田舎の道がスクリーンに映される。その中央にタイトルなどがあらわれるのだが、文字のまわりが真っ黒。風景のなかに黒い枠をつくって、そのなかにタイトルなどがあらわれる。
 映像が動きはじめると、別の違和感。道路にしたがって風景が動く。車で道路を走っている感じなのだが、その映像がふつうの映画の映像とは違う。「運転席」から見える風景ではない。強いて言えば二階建てのバスの二階から見るような感じ。視点の位置が高いのだ。ちょっと目がくらくらする。私は目が悪いので、こういう不自然(?)な映像だと、頭のなかが混乱してしまう。
 人物が登場してきても同じ。人物が遠い上に、どうも視線の位置が出てくる登場人物と同じ高さにない。高いところから見下ろしている感じ。そして、登場人物の背後が「実写」というよりも書き割り……と気づいて、あ、これは芝居の劇場の二階席、あるいは天井桟敷から見た視線なのだと気がついた。(アップは、観客が役者の顔に引き込まれる一瞬を描いている。)つまり、アラン・レネは映画で「芝居」をとっているのである。舞台をそのまま撮るのではなく、あくまでカメラに演技をさせ、そこで起きていることを「芝居」にしてしまう。というより「芝居」の空間へ移しかえてしまう。
 「芝居」というのは、ことば。ことばですべてを明らかにする。観客はことばを聞きながら、そこに起きていることを理解する。味わう。そのことを象徴するのが、この映画では癌になった友人(ドンファン/カサノバ)。彼はことば(名前)は出てくるが、実際に姿を現わさない。彼がどんな容姿をしているか(どれくらい色男なのか)は「映像」としては表現されない。夫婦三組以外にも、ことばのなかでは登場人物はいるのだが、友人と同じように姿を見せない。
 もとになっている「芝居(戯曲?)」を映画で忠実に再現しているのだと思うのだが、この「芝居」と「映画」の折り合いをどうやってつけるか。それがカメラの視線。映画なのだけれど、観客の視線を「芝居の劇場」にいるときの視線に、強制的に仕立て上げてしまう。
 私は、こういう手法は好きになれないなあ。
 映画のカメラは、あくまで日常では見ることのできない映像を提供するところに意味がある。そこで起きていることをわざわざ「芝居」の視点で見つめなおすのは、あまりにも文学文学している。あまりにも文学的な、文学的な、文学的な、という感じ。うるさい、と言いたくなる。
                     (KBCシネマ1、2015年03月25日)




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阿部日奈子「歯を抜く」

2015-03-25 12:28:12 | 詩(雑誌・同人誌)

阿部日奈子「歯を抜く」(「別冊 詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 阿部日奈子「歯を抜く」は、歯の金冠を子供に残して死んでいった母のことを本で読んだあと、歯を抜く夢をみる。夢のなかでは「私(阿部、と仮定しておく)」は中学生。授業中にこっそり歯を抜く。休み時間に男の子たちに出会い、”Hi, boys! ”と声をかける。そのときは歯がふたたび生え揃っている。男の子たちは、「恐怖で固まってしまいました。」
 そのあと、

 夢はここまでですが、どう判断なさいます? 歯が欠け落ちる夢の分析例ならいくつか知っていますが、自ら歯を抜く場合はどうなんでしょう。意趣晴らし、とまでは言いませんが、一矢報いたい気持ちが夢の底にわだかまっているのはたしかです。大きく目を見開いて唇をわなわな震わせている男の子たちの一団に、私から去っていったRやVがいたことを、私は見逃しませんでした。私の知らない少年期の姿だったけれど、間違うわけがありません、人を値踏みするようなこすっからい一瞥は、絶対にRやVのものでしたから。

 うーん、と私はうなってしまった。夢だから何が起きてもいい。夢の分析だって、どんなふうにしようとかまわない、と思う。思うのだが、その「分析」を支えている(?)何かに、奇妙な「肉体の手触り」のようなものがあって、うーん、とうなるのである。
 中学生。そこで出会うのは中学生。きっとRやVは同級生(あるいは同じ中学の生徒)ではないはず。それなのに、そこにRやVを見てしまう。これは論理的におかしい。夢なのだから論理的におかしくてもいいのだが、この論理的なおかしさのなかに、阿部がいる(人間がいる)と感じるのである。
 RやVに出会ったのは、中学生時代ではない。そして、RやVは阿部から去っていった。RやVについての阿部の認識は、ふたりとも「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」をもっていること。そんなふうに人を見る目つき。それを阿部は忘れることがない。その「一瞥」を見落とすことはない。見間違えるはずはない。そして、そういう「一瞥」に出会うたびに、阿部はRやVを思い出すのだ。
 何かを見て、何かを思い出す。何かを見るたびに、「肉体」のなかから、その何かを見たときの記憶が甦る。そしてその何かが「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」であるとき、それは「名詞」ではない。「一瞥」というのは「名詞」に分類されるけれど、実際は「名詞」ではない。「一瞥」の奥に動いている「人を値踏みする」という「動き」、「こすっからい」と呼ばれる「動き」、「動いている」何かの「動き」そのものが思い出されるのだ。
 「一瞥」(名詞)を「一瞥する」という「動詞」にもどして(?)、見つめなおすといいのだろう。(名詞を動詞の形で動かすと、そこに起きていることがよりくっきりとわかるときがあるが、この詩も、そのひとつだと私は思う。)
 「人を値踏みする」も「こすっからい」も「肉体の動き」ではなく、「精神の動き」というふうにとらえるのが一般的かもしれないが、それが「一瞥」ということばと結びつくと、その瞬間の「目の動き」と区別がつかない。「ひとつ」のものになっている。「一瞥する」という動詞の中には、目の動きと精神(情念/感情)の動きが重なっている。
 というよりも。あるいは、もう一度言いなおすと……。
 ある瞬間、目が動く。それはとても微妙なものだが、その微妙な動きが、くっきりとつたわってくる。その微妙な動きを、あとで「人を値踏みするような」とか「こすっからい」とか呼ぶのであって、最初から「人を値踏みするような」とか「こすっからい」という便利な(?)表現があるわけではない。「一瞥」と「人を値踏みするようなこすっからい」があまりにも強烈に結びついているために、目の動きと同時に動いているように見えるが、そうではない。目が動いて、そのあと、つまり目がとらえたものに刺戟されて精神や感情が視線の動きを追いかけるように動き、それが目の表情になる。「人を値踏みするようなこすっからい」という強烈なことばになる。
 そのときの「強烈な結びつき」が「結びつき」のまま「強烈に」甦る、その「強烈」な感じ、「肉体」のなかで起きている「強烈」な動きが、うーん、とうならせる。
 「一瞥」のなかに「一瞥する」という動詞があり、動詞だから、それは直接「肉体」にまで響いてくる。「動詞」が「肉体」に触ってくる。あるいは、障ってくるので、それを撥ねつけるようにしてことばが動く。阿部の「肉体」そのものが反応する。

 あ、何が書いてあるかわからない?
 そうだろうなあ。私は書きながらだんだんわからなくなってきている。
 わからないのだけれど、そうか、何かを思い出すのは、そこに「強烈」な「肉体」の印象があるからなんだなあ。その「肉体」の印象を、ひとは「間違えない」ものなんだなあと思う。
 夢にでてきた中学時代の男の子にRやVを思い出すというのは「間違い」なのだけれど、中学生の表情に「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」が見えたなら、それは絶対にRやVでなければならない。「時間」や「場所」は無限にあるが(複数の時間、複数の場所を考えることができるが)、「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」という「肉体」そのものは、人間がひとりに限定される。ひとりの人間の「肉体」の上にあらわれてくるものである。「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」というものを複数の人間が投げつけたとしても、それは「RやV」という「ひとり」なのだ。「人を値踏みするようなこすっからい一瞥」を阿部に向ける男は、すべて「RやV」という「ひとり」になってしまう。いや阿部が「ひとり」にしてしまうといった方がいいかもしれない。その「なり方/してしまう仕方」、阿部の肉体のなかでの対象の変化の仕方、それは「間違い」がない。阿部は、間違いなく、「RやV」を思い出す。
 「間違い」と「間違いない」が、奇妙に、強烈に結びついて、そこに阿部という人間を、その肉体として存在している。

 「一矢報いたい(気持ち)」に焦点を当てて読むと、また違った読み方になるかもしれないが、(情意の詩になるかもしれないが)、私は「一瞥(名詞)/一瞥する(動詞)」と「間違い/間違えない」のなかに動いている「肉体」の詩として読むのだ。
キンディッシュ
阿部 日奈子
書肆山田
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破棄された詩のための注釈(18) 

2015-03-25 01:09:36 | 
破棄された詩のための注釈(18) 

 括弧のなかに空白があり、「花の名前」というルビがふってある。買ってきた古本のなかからことばが見つかれば、空白を消してその花の名前を書く。「白いブラウス」「感情の引き出し」「二枚貝の内側の音楽」は、空きビンの蓋がひっくりかえり、あしたの雨をためている、その蓋のよう。汚れた公園の路を通ると、家へ帰りつくまでに七分かかる。犬とときどき曲がり角の草むらに鼻をつっこみ、ほかの犬の名前をさがしている。





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