上原和恵「空っぽになる日は」(現代詩講座@リードカフェ、2015年02月25日)
上原和恵「空っぽになる日は」は姑が作った梅酒のことを書いている。あるいは梅酒をつくった姑のことを書いている。古い梅酒、死が近い姑。それを見つめる私……。身近な(?)題材のためだろうか、話題になった。
「幻想的」「幻想というより、現実的。幻想と現実が交錯する」」「怨念を感じる」「ホラーみたい」「瓶につまった人間を、私は想像ができない。想像しても書かない」などなど。
書かれていることばをゆっくり点検するというよりも、自分の記憶をたどりながら、ことばと格闘し現実にあったことを振り払いながら思い出しているような感想に聞こえた。実際に古くなった梅酒をみつけたことがある。自分がつくったものではなく姑がつくった梅酒。さらに姑が倒れ、介護したこと。介護しながら思い出した確執……。
「どこがいちばん気持ち悪く(?)迫ってくるのだろうか」
「人間のさなぎがうようよ泳いでいる」
「人間はさなぎじゃないのに、さなぎがわかるのはどうしてだろう。どうして現実と感じるのだろう」
こう考えると、ちょっとむずかしくなるのだが、そこに書かれていることばそのものを反復するしかないとき、それは「現実」なのだと思う。たとえば「人間のさなぎがうようよ泳いでいる」の「うようよ」。群れている感じ、密集して動いている感じを「うようよ」と言うが、「うようよ」をわざわざ密集してと言いなおさずに、私たちは「じかに」うようよを感じてしまう。そして、その「うようよ」は私が感じているうようよと筆者が書いたうようよは違うかもしれないのに、違いがあるとは思わない。たいてい、そのまま「うようよ」を目の当たりにしてしまう。こういうことばが、この詩にはたくさんある。「ぐよぐよ」「どろどろ」「ぐしゃぐしゃ」という濁音を含みながら繰り返す音、「ぶよっ」「ずっぷ」「ぐにゃっ」という濁音と撥音含む音。ここに書かれているその音を別のことばで「意味」としてとらえ直すのは、ちょっと面倒である。そういうことをしないまま、「音」と「記憶」(肉体がおぼえていること)を重ね合わせて、世界を掴みとってしまう。
このとき「肉体」がおぼえていることというのは、しかし、肉体だけの問題ではない。人間の「肉体」と同時に「ことばの肉体」にも関係している。ことばはことばで「肉体」をもって、ひとりで動いている、というか、「ことばの肉体関係」を通して、不思議なつながりを持っている。これは「日本語」だけを考えるとわかりにくいが、外国語を組み合わせてみると、少しわかる。「うようよ」「ぐよぐよ」「ぶよっ」「ずぶっ」。このことばを聞いて、たとえば英語を話すひとは、私たちが思い描くものと同じものを思い出せるか。きっと、何が何だかわからないだけだと思う。けれど、日本語を日常的に話している私たちには、その変な音がわかる。「音」と「肉体」が結びついている。その強い結びつきが「現実」として肉体を刺戟する。
ここから詩を読み直していくと、この詩には音の構造は似ているが、「うようよ」「ぐよぐよ」「ぶよっ」「ずぶっ」とは違うものがある。私は、それがちょっと気になった。1連目4行目の「どんどん」、2連目3行目の「ぽとぽと」は、あまり人間の「肉体」を刺戟してこない。「触覚」から離れてしまっているからかもしれない。
ここに書かれていることを、もっと「現実的」なものとして鍛えるには「どんどん」「ぽとほと」は「抽象的」過ぎるのかもしれない。「どんどん」は具体的な数字にするとか、一個取り出したら、その下にもう一瓶あった。右側の瓶を取り出したらその右に小さな瓶がさらに二個というような「事実」を書かないとことばは現実にはなってくれない。
「年代ものの」という表現も手軽すぎるかもしれない。「現実」をじっと見ている感じがしない。「十年もの」「二十年もの」と書いても抽象的だ。その瓶のなかの液体の色、粘度のようなもの、瓶の中に閉じ込められているのに匂ってくる何か、そういうものを「肉体」を通したことばにすると、この詩はもっと「現実」と「幻想」が密着する。
詩を読むのは、その詩(ことば)に書かれている「意味」ではなく、その「ことば」が動いているときにいっしょに動いている作者の「肉体」のあり方を体験することなのだと思う。梅酒の古い瓶にさわったときの汚れの感覚、重さの感覚などが、ここに書かれている「梅」に対する「目の感覚」「触覚」に重なって、わけがわからなくなるくらいになると、姑と作者のつながりの、やりきれなさのようなものがさらに浮かび上がると思う。
上原和恵「空っぽになる日は」は姑が作った梅酒のことを書いている。あるいは梅酒をつくった姑のことを書いている。古い梅酒、死が近い姑。それを見つめる私……。身近な(?)題材のためだろうか、話題になった。
姑の台所のテーブルの下や部屋の死角から
長方形のガラス角瓶の
駄菓子屋のするめが入れられていた
なつかしい十斤角瓶がどんどん出てくる
まだ食べられそうな
年代ものの梅酒かもしれないが
網を張った側溝に梅を
一粒ずつぽとぽとこぼしていくと
そのつど姑が壊れていく
両腕にやっと瓶を抱え上げると
怨念がぐよぐよ詰まった
人間のさなぎがうようよ泳いでいる
本当の姿を確かめることもなく
蓋を素早く回し放り出す
こげ茶色に染まった姑の腕が林立している
指で押さえるとぶよっとへこむ
どろどろと黒くなった赤シソに
腕はずっぶと埋まる
ぶよっとと
瓶の中の詰まっている
すべてのものを捨て終わり
アルコールで頭はぐじゃぐじゃになり
チューブにつながれている姑が
十斤角瓶に収まっている姿が悩ます
すべてはもうすぐ空っぽになろうとしているのに
「幻想的」「幻想というより、現実的。幻想と現実が交錯する」」「怨念を感じる」「ホラーみたい」「瓶につまった人間を、私は想像ができない。想像しても書かない」などなど。
書かれていることばをゆっくり点検するというよりも、自分の記憶をたどりながら、ことばと格闘し現実にあったことを振り払いながら思い出しているような感想に聞こえた。実際に古くなった梅酒をみつけたことがある。自分がつくったものではなく姑がつくった梅酒。さらに姑が倒れ、介護したこと。介護しながら思い出した確執……。
「どこがいちばん気持ち悪く(?)迫ってくるのだろうか」
「人間のさなぎがうようよ泳いでいる」
「人間はさなぎじゃないのに、さなぎがわかるのはどうしてだろう。どうして現実と感じるのだろう」
こう考えると、ちょっとむずかしくなるのだが、そこに書かれていることばそのものを反復するしかないとき、それは「現実」なのだと思う。たとえば「人間のさなぎがうようよ泳いでいる」の「うようよ」。群れている感じ、密集して動いている感じを「うようよ」と言うが、「うようよ」をわざわざ密集してと言いなおさずに、私たちは「じかに」うようよを感じてしまう。そして、その「うようよ」は私が感じているうようよと筆者が書いたうようよは違うかもしれないのに、違いがあるとは思わない。たいてい、そのまま「うようよ」を目の当たりにしてしまう。こういうことばが、この詩にはたくさんある。「ぐよぐよ」「どろどろ」「ぐしゃぐしゃ」という濁音を含みながら繰り返す音、「ぶよっ」「ずっぷ」「ぐにゃっ」という濁音と撥音含む音。ここに書かれているその音を別のことばで「意味」としてとらえ直すのは、ちょっと面倒である。そういうことをしないまま、「音」と「記憶」(肉体がおぼえていること)を重ね合わせて、世界を掴みとってしまう。
このとき「肉体」がおぼえていることというのは、しかし、肉体だけの問題ではない。人間の「肉体」と同時に「ことばの肉体」にも関係している。ことばはことばで「肉体」をもって、ひとりで動いている、というか、「ことばの肉体関係」を通して、不思議なつながりを持っている。これは「日本語」だけを考えるとわかりにくいが、外国語を組み合わせてみると、少しわかる。「うようよ」「ぐよぐよ」「ぶよっ」「ずぶっ」。このことばを聞いて、たとえば英語を話すひとは、私たちが思い描くものと同じものを思い出せるか。きっと、何が何だかわからないだけだと思う。けれど、日本語を日常的に話している私たちには、その変な音がわかる。「音」と「肉体」が結びついている。その強い結びつきが「現実」として肉体を刺戟する。
ここから詩を読み直していくと、この詩には音の構造は似ているが、「うようよ」「ぐよぐよ」「ぶよっ」「ずぶっ」とは違うものがある。私は、それがちょっと気になった。1連目4行目の「どんどん」、2連目3行目の「ぽとぽと」は、あまり人間の「肉体」を刺戟してこない。「触覚」から離れてしまっているからかもしれない。
ここに書かれていることを、もっと「現実的」なものとして鍛えるには「どんどん」「ぽとほと」は「抽象的」過ぎるのかもしれない。「どんどん」は具体的な数字にするとか、一個取り出したら、その下にもう一瓶あった。右側の瓶を取り出したらその右に小さな瓶がさらに二個というような「事実」を書かないとことばは現実にはなってくれない。
「年代ものの」という表現も手軽すぎるかもしれない。「現実」をじっと見ている感じがしない。「十年もの」「二十年もの」と書いても抽象的だ。その瓶のなかの液体の色、粘度のようなもの、瓶の中に閉じ込められているのに匂ってくる何か、そういうものを「肉体」を通したことばにすると、この詩はもっと「現実」と「幻想」が密着する。
詩を読むのは、その詩(ことば)に書かれている「意味」ではなく、その「ことば」が動いているときにいっしょに動いている作者の「肉体」のあり方を体験することなのだと思う。梅酒の古い瓶にさわったときの汚れの感覚、重さの感覚などが、ここに書かれている「梅」に対する「目の感覚」「触覚」に重なって、わけがわからなくなるくらいになると、姑と作者のつながりの、やりきれなさのようなものがさらに浮かび上がると思う。