詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

上原和恵「空っぽになる日は

2015-03-10 11:22:04 | 現代詩講座
上原和恵「空っぽになる日は」(現代詩講座@リードカフェ、2015年02月25日)

 上原和恵「空っぽになる日は」は姑が作った梅酒のことを書いている。あるいは梅酒をつくった姑のことを書いている。古い梅酒、死が近い姑。それを見つめる私……。身近な(?)題材のためだろうか、話題になった。

姑の台所のテーブルの下や部屋の死角から
長方形のガラス角瓶の
駄菓子屋のするめが入れられていた
なつかしい十斤角瓶がどんどん出てくる

まだ食べられそうな
年代ものの梅酒かもしれないが
網を張った側溝に梅を
一粒ずつぽとぽとこぼしていくと
そのつど姑が壊れていく

両腕にやっと瓶を抱え上げると
怨念がぐよぐよ詰まった
人間のさなぎがうようよ泳いでいる
本当の姿を確かめることもなく
蓋を素早く回し放り出す

こげ茶色に染まった姑の腕が林立している
指で押さえるとぶよっとへこむ
どろどろと黒くなった赤シソに
腕はずっぶと埋まる
ぶよっとと

瓶の中の詰まっている
すべてのものを捨て終わり
アルコールで頭はぐじゃぐじゃになり
チューブにつながれている姑が
十斤角瓶に収まっている姿が悩ます
すべてはもうすぐ空っぽになろうとしているのに

 「幻想的」「幻想というより、現実的。幻想と現実が交錯する」」「怨念を感じる」「ホラーみたい」「瓶につまった人間を、私は想像ができない。想像しても書かない」などなど。
 書かれていることばをゆっくり点検するというよりも、自分の記憶をたどりながら、ことばと格闘し現実にあったことを振り払いながら思い出しているような感想に聞こえた。実際に古くなった梅酒をみつけたことがある。自分がつくったものではなく姑がつくった梅酒。さらに姑が倒れ、介護したこと。介護しながら思い出した確執……。
 「どこがいちばん気持ち悪く(?)迫ってくるのだろうか」
 「人間のさなぎがうようよ泳いでいる」
 「人間はさなぎじゃないのに、さなぎがわかるのはどうしてだろう。どうして現実と感じるのだろう」
 こう考えると、ちょっとむずかしくなるのだが、そこに書かれていることばそのものを反復するしかないとき、それは「現実」なのだと思う。たとえば「人間のさなぎがうようよ泳いでいる」の「うようよ」。群れている感じ、密集して動いている感じを「うようよ」と言うが、「うようよ」をわざわざ密集してと言いなおさずに、私たちは「じかに」うようよを感じてしまう。そして、その「うようよ」は私が感じているうようよと筆者が書いたうようよは違うかもしれないのに、違いがあるとは思わない。たいてい、そのまま「うようよ」を目の当たりにしてしまう。こういうことばが、この詩にはたくさんある。「ぐよぐよ」「どろどろ」「ぐしゃぐしゃ」という濁音を含みながら繰り返す音、「ぶよっ」「ずっぷ」「ぐにゃっ」という濁音と撥音含む音。ここに書かれているその音を別のことばで「意味」としてとらえ直すのは、ちょっと面倒である。そういうことをしないまま、「音」と「記憶」(肉体がおぼえていること)を重ね合わせて、世界を掴みとってしまう。
 このとき「肉体」がおぼえていることというのは、しかし、肉体だけの問題ではない。人間の「肉体」と同時に「ことばの肉体」にも関係している。ことばはことばで「肉体」をもって、ひとりで動いている、というか、「ことばの肉体関係」を通して、不思議なつながりを持っている。これは「日本語」だけを考えるとわかりにくいが、外国語を組み合わせてみると、少しわかる。「うようよ」「ぐよぐよ」「ぶよっ」「ずぶっ」。このことばを聞いて、たとえば英語を話すひとは、私たちが思い描くものと同じものを思い出せるか。きっと、何が何だかわからないだけだと思う。けれど、日本語を日常的に話している私たちには、その変な音がわかる。「音」と「肉体」が結びついている。その強い結びつきが「現実」として肉体を刺戟する。
 ここから詩を読み直していくと、この詩には音の構造は似ているが、「うようよ」「ぐよぐよ」「ぶよっ」「ずぶっ」とは違うものがある。私は、それがちょっと気になった。1連目4行目の「どんどん」、2連目3行目の「ぽとぽと」は、あまり人間の「肉体」を刺戟してこない。「触覚」から離れてしまっているからかもしれない。
 ここに書かれていることを、もっと「現実的」なものとして鍛えるには「どんどん」「ぽとほと」は「抽象的」過ぎるのかもしれない。「どんどん」は具体的な数字にするとか、一個取り出したら、その下にもう一瓶あった。右側の瓶を取り出したらその右に小さな瓶がさらに二個というような「事実」を書かないとことばは現実にはなってくれない。
 「年代ものの」という表現も手軽すぎるかもしれない。「現実」をじっと見ている感じがしない。「十年もの」「二十年もの」と書いても抽象的だ。その瓶のなかの液体の色、粘度のようなもの、瓶の中に閉じ込められているのに匂ってくる何か、そういうものを「肉体」を通したことばにすると、この詩はもっと「現実」と「幻想」が密着する。
 詩を読むのは、その詩(ことば)に書かれている「意味」ではなく、その「ことば」が動いているときにいっしょに動いている作者の「肉体」のあり方を体験することなのだと思う。梅酒の古い瓶にさわったときの汚れの感覚、重さの感覚などが、ここに書かれている「梅」に対する「目の感覚」「触覚」に重なって、わけがわからなくなるくらいになると、姑と作者のつながりの、やりきれなさのようなものがさらに浮かび上がると思う。
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嵯峨信之を読む(37)

2015-03-10 10:56:05 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
70 見知らぬ時間

 「人間の仔」という章の最初の作品。「見知らぬ時間」とは「死」のことを指している。

ぼくは死に触れてみようとした
それは少し早すぎてまだ何の形もなしていない 小さな無数の時が
水田の底の蝌蚪(おたまじゃくし)のようにむらがり動いている

 冒頭の三行。「蝌蚪」の「比喩」が興味深い。「何の形もなしていない」と嵯峨は書いているが、おたまじゃくしはおたまじゃくしの形をしている。おたまじゃくしの前の蛙の卵も蛙の卵の形をしている。「屁理屈」といわれるかもしれないが、そこには形はある。しかし、嵯峨は、その「形」を「形をなしていない」と呼んでいる。それは、嵯峨には何かことばにできないけれど「別の形」が見えているからである。おたまじゃくしは蛙になる。そう知っている人間だけが、おたまじゃくしを見て、まだ「形(蛙というほんとうの形)」になっていないと言える。嵯峨が「死」をどんな「形」ととらえているかはっきりとはわからないが、何かある「形」を想定していることだけはわかる。
 もうひとつ、嵯峨は「死」を「小さな無数の時」とは反対(?)の、「大きな一個の絶対的な時」と感じていると、想像することもできる。「死」に触れようとした。けれど、嵯峨は「死」に触れることができずに「小さな無数の時」を見つけ出しただけと書いているだから、「死」はきっと、それとは反対のもの、そこに表現されているものとは別のものとして存在している、そう想定されていると読むことができる。
 でも、それはどんな「時」?
 想像するのがなかなかむずかしい。想像しようとすると、逆におたまじゃくしの「むらがり」が目に浮かんでしまう。「形もなしていない」ということばにひっぱられて、私はおたまじゃくし以前、蛙の卵さえ想像してしまう。

ぼくは知るかぎりの時間を考えた
文字盤の数字のあらゆる組み合わせに思いふけつた

 「時」と「時間」が嵯峨の意識のなかで、どんな風に区別されているのか、わからない。「文字盤の数字」というのは「時間」なのだろうか。「時」なのだろうか。その「組み合わせ」とは何だろうか。それこそ「何の形もなしていない」抽象のように思える。この「抽象」が「おたまじゃくし」の「むらがり」なのか。
 「抽象的」なことばは、さらにつづく。

真夜中になつて
ぼくは頭蓋のなかから ぜんまいだの 心棒だの 止めがねの類(たぐい)をとりはずしてみた
すつかり空つぽになつた頭蓋の底に
うじやうじやと動いている無数の時は
それは蛆虫の世界の時間で
小さな崩壊からはじまる時間だということがわかつたのだ

 「時間」を「時計」に置き換えて、時計を分解している。「頭蓋のなかで」、つまり頭のなか、空想で分解している。指し示す「時間」を失った「時計」という構造物の底に「無数の時」が「うじやうじや」と動いている。「時間」として指し示すことのでないものが、「時間」として指し示されなかったものが、動いている、ということだろうか。
 明確な形(何時何分と言えるようなもの、言うことで他人と共有できるもの)が「死」の対極にある「生」。そう考えているのだろうか。たとえば「歴史」、歴史として記録される行動(形としてとり出すことができる生き方)が「生」である、のか。
 しかし、それには触れられず、嵯峨は「うじやうじやと動いている無数の時」を見出すだけである。そしてそれを「蛆虫の世界の時間」と呼んでいる。
 「蛆虫」はどこかで「おたまじゃくし」に似ている。ふたつは、ともに「何の形もなしていない」(正しい形になっていない、おぞましいもの)、そして「むらがり」「うじやうじや」と動いている。動きも「不定形」である。
 うーん、
 どうしても、この「むらがり」「うじやうじや」と動いている「おたまじゃくし」「蛆虫」が「死」なのだと思ってしまう。「水田の底」と「頭蓋の底」、時計を分解することと「小さな(時計の)崩壊」もどこかで重なる。
 「早すぎて形を何の形もなしていない」ということばは、「時」がくれば(早すぎて、といわれない時になれば)、それは正式な形(たとえば、蛙、たとえば、蠅)になる。つまり「生」以前になる。それ以前の、「むらがり」「うじやうじや」とした「動き」。それは、どこかで「死」とつながっているのだろうか。そこには「生」と「死」がまだ未分節の状態である--そういう未分節をとおしてしか「死」には触れられない、ということか。
 「他人の死」には何度かひとは出会う。しかし「自分の死」には出会えない。出会ったときは、もう「生」ではなくなっていから……。

 ことばでは追いきれない何かが書かれている、強い印象が残る詩だ。

71 小石に当つた死
ひとりの男が死んだ
その上に
もし空があるなら 窓の外を
するすると小石がのぼつてくるだろう
ひとりの子供が小石を空へほうり投げて遊んでいる
子供たちは大きくなつて
その小石をいつか自分の中の空に投げるようになるだろう
そしていま死んだ男は
とうとう自分の投げた小石に当つて死んだのだ

 「自分の中の空」ということばが七行目に出てくる。現実の空ではなく「自分の中の空」、つまり心象風景になるだろう。二行目の「窓の外を」は室内にいて外を見ている--こころのなかから外を見ているという「心象」を指し示すことばのようにも感じられる。その心象のなかで男、子供、石が循環する。つなぎ目と切れ目の区別がなくなっていく。重なり合う。
 タイトルの「小石に当つた死」というのも、その区別のない循環をあらわしている。「小石に当つた」のは「男」。「男」が死んだのであり、小石は「死」に当たったわけではない。でも、それを「小石に当つた死」と言う。男は死んだのだから、石は男が死んだあと、その死にも当たる、ということか。
 「見知らぬ時間」と同じように、生と死が未分節のまま、ことばのなかを動いている。

嵯峨信之全詩集
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破棄された詩のための注釈(6)

2015-03-10 01:26:31 | 
破棄された詩のための注釈(6)

「昼の光」という、それまでの詩とは違った明るいことばで始まるのは、この詩が書かれたとき、詩人は女が妊娠したことを知ったからである。あのとき、昼の光のなかをすべってきた色鮮やかな虫の色。もしかすると、その輝きこそが女を妊娠させた精子かもしれないと思ったが、詩人は書かなかった。「反抗」ということばが、こうした場面にはただしいものかどうかわからないが、それは詩人だけがもっている予感という特権が暴走した証拠でもある。「反抗」ということばは向き合いながら、「裸の肩」が輝きが増すのを詩人は見ていた。

「机」について詩人がおぼえているのは、机の上にあった石膏像である。正確に言うと、それは机ではなくベッドの横の小さなテーブルなのだが、それを「机」と呼び変える習慣が詩人にはあった。眠る前にスタンドを消す。そうすると光をためこんでいた像が、熱のようにうっすらと闇のなかに残る。これが詩人の女に対する好みを決定づけた。したがって、一連目の「昼の光」は、ほんとうは詩人の喜びをあらわしているのではない。逆なのだ。あのとき、詩人は官能とは別の世界にいた。官能のなかにいたのは女ひとりであり、女に「特権」を奪われたのだ、と詩人は瞬間的に知ったのだ。これから起きることが何か、わからないまま、知ったのだ。

ちぐはぐな意味とイメージを行き来するその詩、破棄された詩は三連で構成されており、三連目のなかほどに「口は呼吸しているようにかすかに動く」という一行が線で消されて存在する。「声」は危険に満ちている。「畸型」ということばが、書いては消され、消されては書かれるのは、どんな疑惑の象徴なのか。「昼の光」、夏の森のなかの緑の影を受け止めながら輝いた「肩の丸さ」。それが輝いたのは、けっして詩人が無防備に射精したためではない。女が、その瞬間、そこにはない恍惚を思い出したからである。光のなかをすべるようにおりてきた鮮やかな虫。それこそが「事実」だったのだ。知っていて、詩人は、そのことを消すのである。ことばで。


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