詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

チャン・イーモウ監督「妻への家路」(★★★★)

2015-03-08 20:54:22 | 映画
監督 チャン・イーモウ 出演 コン・リー、チェン・ダオミン

 ひさびさのチャン・イーモーとコン・リーの組み合わせ。文化大革命以後の夫婦を描いている。夫チェン・ダオミンが解放されて帰ってくる。しかし、そのときコン・リーは心を病んでいて、夫を認識できない。コン・リーは「5日に帰る」という手紙をたよりに、毎月5日に駅へ出迎えにゆく。それにチェン・ダオミンが寄り添う。娘がその二人を見守る。その、長い年月を描いている。
 一か所、はっとしたシーンがある。チェン・ダオミンが逃亡してコン・リーに会いに来る。アパート(集合住宅)の部屋までたどりつく。そのときのチェン・ダオミンの顔と、壁に映った顔の影。部分的な影。ほとんどは闇のなかに影がのみこまれて見えないのだけれど、輪郭の一部だけ壁の角に映っている。その闇と壁と、影の不安定な感じに、どぎまぎしてしまった。撮り損ねた映像のようにも見える。撮ろうとして撮った影ではないかもしれないが、あ、この影の形がおもしろいなあという印象が残った。
 私は、こういう何でもないシーンが好きで、そこから映画をみつめなおす。影は人間についてまわる。切り離せない。「ついてまわる影」は、そのままコン・リーとチェン・ダオミンの夫婦の関係。切り離すことができない強い絆。それはこの映画の全編で展開される。
 それとは別に、ひとが隠している「影」(闇)というものも人間にはある。娘には、父を密告したという過去が「闇」となって残っている。コン・リーには、夫がいないときにほかの男と関係したということが「闇」となって残っている。(それはコン・リーが望んでしたことではなく、いわば強姦のようなものなのだが、夫には語れない「闇」である。)文化大革命そのものが、中国にとっての「闇」かもしれない。それは「克服」できない。克服できないけれど、受け入れるしかない。そういう「闇」を見つめた上で、「日常」のなかで、人と人が影を見ないようにして、影のようによりそう。あるいは、その人の輪郭を照らし、その人に自然な影をつくる。「闇」から、相手をひっぱり出してきて、光のなかでいっしょに生きる。
 そこには、「嘘」もある。「嘘」で現実を変えていく工夫もある。映画の、いちばんしんみりするシーンはチェン・ダオミンがコン・リーにあてた古い手紙を読むところ。その手紙を朗読するとき、チェン・ダオミンは「いま」書いた手紙をときどきまぜる。コン・リーが娘を拒絶していると知って、「許してやれ、受け入れてやれ」という手紙を書いてコン・リーを説得する。過失を許し、受け入れるしか、いっしょに生きる方法がないのである。(これは、またチェン・ダオミンがコン・リーを強姦した男を批判しに行き、結局、男には会わずに帰ってくるシーンにも言えることである。過失を批判することは大事だが、それを受け入れるということも大事なのだ。)
 また、「影」のバリエーションとして様々ことが様々に描かれる。「伏線」のことである。
 たとえばチェン・ダオミンが最初に書く手紙は、壁紙(?)を剥がして書いたもの。その後、何通もの手紙を書くが、それはどれもこれも何かの裏をつかっている。下放されていたとき、書くものがないから、そこにあるもので書いたのだ。最初の手紙の書き方が、長い長い影となって、手紙全体を覆っている。
 たとえばコン・リーの記憶を取り戻そうと、チェン・ダオミンがピアノを弾く。そのメロディーを聞いて、コン・リーは過去を思い出す。その曲はチェン・ダオミンが引いていた曲だ。そうわかって、コン・リーがチェン・ダオミンの肩にふれ、それから静かな抱擁。そのときピアノの音は消え、バックミュージックに同じメロディーが流れる。それはコン・リーの心に流れる音楽である。ピアノの旋律が生み出した「影」である。
 それからコン・リーがチェン・ダオミンを駅に迎えにゆくときの看板の文字。最初はコン・リーが書いている。最後にスクリーンに映し出される文字はコン・リーの文字とは違う。チェン・ダオミンが書いた文字である。文字から文字へ、祈りのようなものがつながっている。他人の心のなかを生きる。
 存在のひとつひとつは切断されていても、影はつながっている。そういう印象でもある。ひとは、ときに、そういう影を生きる。



 見ているあいだは、コン・リーの演技に夢中になった。目の前にいる男がだれかわからない。わからないまま、いっしょの時間を生きて、そのなかで感情が動く。動くけれど、その大半は、前に進むというよりも、奥にひっこむ(闇にひっこむ)という感じ。無表情という感じ。うーん、すごい。うまい。
 そして、見終わったあと、こうやって感想を書いていると、チェン・ダオミンの演技がとてもよかったと感じる。どうすることもできない。どうすることもできないけれど、何かしなくてはいけない。過激な刺戟を与えず、けれども刺戟を与えて、記憶を呼び覚ましたい。その切ない「抑制」が、なんともやさしい光になっている。
 コン・リーと家族を守る一筋の光になっている。
                      (2015年03月08日、KBCシネマ1)



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嵯峨信之を読む(35)

2015-03-08 17:45:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
66 ヒロシマ神話

 この詩には、どんな解説もいらない。ただ読めばいい。

失われた時の頂きにかけのぼつて
何を見ようというのか
一瞬に透明な気体になつて消えた数百人の人間が空中を歩いている

 (死はぼくたちに来なかつた)
 (一気に死を飛び越えて魂になつた)
 (われわれにもういちど人間のほんとうの死を与えよ)

そのなかのひとりの影が石段に焼きつけられている

 (わたしは何のために石に縛られているのか)
 (影をひき放されたわたしの肉体はどこへ消えたのか)
 (わたしは何を待たねばならぬのか)

それは火で刻印された二十世紀の神話だ
いつになつたら誰が来てその影を石から解き放つのだ

 書く必要はない。けれど、私は、あえて感想を書く。
 「一瞬に透明な気体になつて消えた数百人の人間が空中を歩いている」と嵯峨は「現在形」で書いている。そして、その「現在形」はいまでも「現在形」であり、「過去形」ではない。だから、書きたい。「現在形」を引き継ぐために。

 (死はぼくたちに来なかつた)

 この一行が痛切だ。原爆によって奪われたいのち。それは死ではない。いのちの略奪だ。一瞬にして亡くなったひとはもちろん、苦しみながら亡くなった人も、死を受け入れる準備がなかった。

 (一気に死を飛び越えて魂になつた)
 (われわれにもういちど人間のほんとうの死を与えよ)

 「ほんとうの死」は原爆が廃絶されたときに、やっともたらされる。亡くなった人のために、その告発に応えるために、核兵器は廃絶されなければならない。
 原爆によって焼き付けられ石段の影、

いつになつたら誰が来てその影を石から解き放つのだ

 「消す」ではなく、「解き放つ」。解き放たれて「影」は「肉体」に還る。そのとき、初めて「死」が「死」として完結する。
 「解き放つ」は、そのとき核兵器の恐怖からの「解き放ち」、「自由」である。


67 日蝕

どこまでもつづいている高い壁にかこまれた庭の一隅に
小さな火をつけているゼラニウムの花に水をやるものはいないか

 これは不思議なイメージである。「小さな火」を花びらと読むこともできる。私は、それを原爆の火と読んだ。原爆は人間のからだを一瞬の内に火炎のなかに投げ込んだ。その火がゼラニウムに飛び移った。そして、燃えている。小さな花なのに燃えている。小さな花だから消さなくても(水をかけなくても)消える。
 だが、「消える」と「消す」は違うのだ。
 そこに起きていることを理解し、そのために何ができるか。水をかけて火を消したところでゼラニウムは枯れて死んでしまう。そうわかっていても、水をやる。火が消えたあとも、もう一度花が咲くようにと水をやる。それが「誠意」というものなのだ。
 水をもとめてさまよったひとたち。大人もこどもも。そのとき、そこではどんな「誠意」が可能なのだろうか。

 アウシュビッツのあとで詩を書くことは野蛮だ、と言われる。しかし、私は、そんなふうに考えたことはない。「誠意」は「野蛮」を洗い流す。
 「アウシュビッツ」を「広島、長崎への原爆投下」と読み替え、書かれた詩のことを想像すると、簡単に「アウシュビッツ……」という声に与することはできない。
 広島への原爆投下、長崎への原爆投下のあとに詩を書くことは野蛮か。「野蛮」ということばで詩を書くこと、詩を読むことを遠ざけてはいけない。詩は書かれなければならないと思う。核兵器が廃絶され、核兵器の野蛮から人間が解き放たれるまで書きつづけられなければならない。そして、その詩は読まれつづけなければならないと思う。
 --この書き方に対しては「文脈のすりかえ」という批判があるかもしれない。「誤読」という批判があるかもしれない。しかし、私は「文脈をすりかえ」たい。「誤読」をしたい。
嵯峨信之全詩集
嵯峨 信之
思潮社
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書かれなかった詩のための注釈(5)

2015-03-08 06:18:54 | 
書かれなかった詩のための注釈(5)

「私が私から遠ざかっていく」(三行目)ということばは、すでに何人もの詩人によって書かれているし、多くの小説の登場人物も語っている。引用と剽窃。それは孤独の(つまり、センチメンタルの)生あたたかい血であり、闇である。

「私が私から遠ざかっていく」は、詩の形式から言うと二連目の四行目で、もう一度繰り返さなければならないのに「すべてがこれだった」ということばに書き直されている。そのあと、「石」ということばが、唐突に割り込んできて「橋の上にあった」ということばと連結し、悲しみを象徴したものとなる。「石」は春の夕暮れの石のことである。

「橋」は、詩人のふるさとの街を流れるたった一本の河にかかっている。一本の河にかかった十七本の、欄干の隙間がそれぞれ違った橋。「早春の木の枝のように隙間だらけの欄干」と別の詩では書かれている。いまでも思い出すのだが、満潮になると、潮がさかのぼって、河口は生あたたかく濁る。これは、私が先に書いた注釈(三行目)の繰り返しである。







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