監督 チャン・イーモウ 出演 コン・リー、チェン・ダオミン
ひさびさのチャン・イーモーとコン・リーの組み合わせ。文化大革命以後の夫婦を描いている。夫チェン・ダオミンが解放されて帰ってくる。しかし、そのときコン・リーは心を病んでいて、夫を認識できない。コン・リーは「5日に帰る」という手紙をたよりに、毎月5日に駅へ出迎えにゆく。それにチェン・ダオミンが寄り添う。娘がその二人を見守る。その、長い年月を描いている。
一か所、はっとしたシーンがある。チェン・ダオミンが逃亡してコン・リーに会いに来る。アパート(集合住宅)の部屋までたどりつく。そのときのチェン・ダオミンの顔と、壁に映った顔の影。部分的な影。ほとんどは闇のなかに影がのみこまれて見えないのだけれど、輪郭の一部だけ壁の角に映っている。その闇と壁と、影の不安定な感じに、どぎまぎしてしまった。撮り損ねた映像のようにも見える。撮ろうとして撮った影ではないかもしれないが、あ、この影の形がおもしろいなあという印象が残った。
私は、こういう何でもないシーンが好きで、そこから映画をみつめなおす。影は人間についてまわる。切り離せない。「ついてまわる影」は、そのままコン・リーとチェン・ダオミンの夫婦の関係。切り離すことができない強い絆。それはこの映画の全編で展開される。
それとは別に、ひとが隠している「影」(闇)というものも人間にはある。娘には、父を密告したという過去が「闇」となって残っている。コン・リーには、夫がいないときにほかの男と関係したということが「闇」となって残っている。(それはコン・リーが望んでしたことではなく、いわば強姦のようなものなのだが、夫には語れない「闇」である。)文化大革命そのものが、中国にとっての「闇」かもしれない。それは「克服」できない。克服できないけれど、受け入れるしかない。そういう「闇」を見つめた上で、「日常」のなかで、人と人が影を見ないようにして、影のようによりそう。あるいは、その人の輪郭を照らし、その人に自然な影をつくる。「闇」から、相手をひっぱり出してきて、光のなかでいっしょに生きる。
そこには、「嘘」もある。「嘘」で現実を変えていく工夫もある。映画の、いちばんしんみりするシーンはチェン・ダオミンがコン・リーにあてた古い手紙を読むところ。その手紙を朗読するとき、チェン・ダオミンは「いま」書いた手紙をときどきまぜる。コン・リーが娘を拒絶していると知って、「許してやれ、受け入れてやれ」という手紙を書いてコン・リーを説得する。過失を許し、受け入れるしか、いっしょに生きる方法がないのである。(これは、またチェン・ダオミンがコン・リーを強姦した男を批判しに行き、結局、男には会わずに帰ってくるシーンにも言えることである。過失を批判することは大事だが、それを受け入れるということも大事なのだ。)
また、「影」のバリエーションとして様々ことが様々に描かれる。「伏線」のことである。
たとえばチェン・ダオミンが最初に書く手紙は、壁紙(?)を剥がして書いたもの。その後、何通もの手紙を書くが、それはどれもこれも何かの裏をつかっている。下放されていたとき、書くものがないから、そこにあるもので書いたのだ。最初の手紙の書き方が、長い長い影となって、手紙全体を覆っている。
たとえばコン・リーの記憶を取り戻そうと、チェン・ダオミンがピアノを弾く。そのメロディーを聞いて、コン・リーは過去を思い出す。その曲はチェン・ダオミンが引いていた曲だ。そうわかって、コン・リーがチェン・ダオミンの肩にふれ、それから静かな抱擁。そのときピアノの音は消え、バックミュージックに同じメロディーが流れる。それはコン・リーの心に流れる音楽である。ピアノの旋律が生み出した「影」である。
それからコン・リーがチェン・ダオミンを駅に迎えにゆくときの看板の文字。最初はコン・リーが書いている。最後にスクリーンに映し出される文字はコン・リーの文字とは違う。チェン・ダオミンが書いた文字である。文字から文字へ、祈りのようなものがつながっている。他人の心のなかを生きる。
存在のひとつひとつは切断されていても、影はつながっている。そういう印象でもある。ひとは、ときに、そういう影を生きる。
*
見ているあいだは、コン・リーの演技に夢中になった。目の前にいる男がだれかわからない。わからないまま、いっしょの時間を生きて、そのなかで感情が動く。動くけれど、その大半は、前に進むというよりも、奥にひっこむ(闇にひっこむ)という感じ。無表情という感じ。うーん、すごい。うまい。
そして、見終わったあと、こうやって感想を書いていると、チェン・ダオミンの演技がとてもよかったと感じる。どうすることもできない。どうすることもできないけれど、何かしなくてはいけない。過激な刺戟を与えず、けれども刺戟を与えて、記憶を呼び覚ましたい。その切ない「抑制」が、なんともやさしい光になっている。
コン・リーと家族を守る一筋の光になっている。
(2015年03月08日、KBCシネマ1)
*
「映画館に行こう」にご参加下さい。
映画館で見た映画(いま映画館で見ることのできる映画)に限定したレビューのサイトです。
https://www.facebook.com/groups/1512173462358822/
ひさびさのチャン・イーモーとコン・リーの組み合わせ。文化大革命以後の夫婦を描いている。夫チェン・ダオミンが解放されて帰ってくる。しかし、そのときコン・リーは心を病んでいて、夫を認識できない。コン・リーは「5日に帰る」という手紙をたよりに、毎月5日に駅へ出迎えにゆく。それにチェン・ダオミンが寄り添う。娘がその二人を見守る。その、長い年月を描いている。
一か所、はっとしたシーンがある。チェン・ダオミンが逃亡してコン・リーに会いに来る。アパート(集合住宅)の部屋までたどりつく。そのときのチェン・ダオミンの顔と、壁に映った顔の影。部分的な影。ほとんどは闇のなかに影がのみこまれて見えないのだけれど、輪郭の一部だけ壁の角に映っている。その闇と壁と、影の不安定な感じに、どぎまぎしてしまった。撮り損ねた映像のようにも見える。撮ろうとして撮った影ではないかもしれないが、あ、この影の形がおもしろいなあという印象が残った。
私は、こういう何でもないシーンが好きで、そこから映画をみつめなおす。影は人間についてまわる。切り離せない。「ついてまわる影」は、そのままコン・リーとチェン・ダオミンの夫婦の関係。切り離すことができない強い絆。それはこの映画の全編で展開される。
それとは別に、ひとが隠している「影」(闇)というものも人間にはある。娘には、父を密告したという過去が「闇」となって残っている。コン・リーには、夫がいないときにほかの男と関係したということが「闇」となって残っている。(それはコン・リーが望んでしたことではなく、いわば強姦のようなものなのだが、夫には語れない「闇」である。)文化大革命そのものが、中国にとっての「闇」かもしれない。それは「克服」できない。克服できないけれど、受け入れるしかない。そういう「闇」を見つめた上で、「日常」のなかで、人と人が影を見ないようにして、影のようによりそう。あるいは、その人の輪郭を照らし、その人に自然な影をつくる。「闇」から、相手をひっぱり出してきて、光のなかでいっしょに生きる。
そこには、「嘘」もある。「嘘」で現実を変えていく工夫もある。映画の、いちばんしんみりするシーンはチェン・ダオミンがコン・リーにあてた古い手紙を読むところ。その手紙を朗読するとき、チェン・ダオミンは「いま」書いた手紙をときどきまぜる。コン・リーが娘を拒絶していると知って、「許してやれ、受け入れてやれ」という手紙を書いてコン・リーを説得する。過失を許し、受け入れるしか、いっしょに生きる方法がないのである。(これは、またチェン・ダオミンがコン・リーを強姦した男を批判しに行き、結局、男には会わずに帰ってくるシーンにも言えることである。過失を批判することは大事だが、それを受け入れるということも大事なのだ。)
また、「影」のバリエーションとして様々ことが様々に描かれる。「伏線」のことである。
たとえばチェン・ダオミンが最初に書く手紙は、壁紙(?)を剥がして書いたもの。その後、何通もの手紙を書くが、それはどれもこれも何かの裏をつかっている。下放されていたとき、書くものがないから、そこにあるもので書いたのだ。最初の手紙の書き方が、長い長い影となって、手紙全体を覆っている。
たとえばコン・リーの記憶を取り戻そうと、チェン・ダオミンがピアノを弾く。そのメロディーを聞いて、コン・リーは過去を思い出す。その曲はチェン・ダオミンが引いていた曲だ。そうわかって、コン・リーがチェン・ダオミンの肩にふれ、それから静かな抱擁。そのときピアノの音は消え、バックミュージックに同じメロディーが流れる。それはコン・リーの心に流れる音楽である。ピアノの旋律が生み出した「影」である。
それからコン・リーがチェン・ダオミンを駅に迎えにゆくときの看板の文字。最初はコン・リーが書いている。最後にスクリーンに映し出される文字はコン・リーの文字とは違う。チェン・ダオミンが書いた文字である。文字から文字へ、祈りのようなものがつながっている。他人の心のなかを生きる。
存在のひとつひとつは切断されていても、影はつながっている。そういう印象でもある。ひとは、ときに、そういう影を生きる。
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見ているあいだは、コン・リーの演技に夢中になった。目の前にいる男がだれかわからない。わからないまま、いっしょの時間を生きて、そのなかで感情が動く。動くけれど、その大半は、前に進むというよりも、奥にひっこむ(闇にひっこむ)という感じ。無表情という感じ。うーん、すごい。うまい。
そして、見終わったあと、こうやって感想を書いていると、チェン・ダオミンの演技がとてもよかったと感じる。どうすることもできない。どうすることもできないけれど、何かしなくてはいけない。過激な刺戟を与えず、けれども刺戟を与えて、記憶を呼び覚ましたい。その切ない「抑制」が、なんともやさしい光になっている。
コン・リーと家族を守る一筋の光になっている。
(2015年03月08日、KBCシネマ1)
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