詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たかぎたかよし『路傍 scene 』

2015-03-09 12:00:00 | 詩集
たかぎたかよし『路傍 scene 』(霧工房、2015年03月01日発行)

 たかぎたかよし『路傍 scene 』の巻頭の作品「黎明に」の2連目、

夜が明けかかると
地球は急いで丸まります

 えっ? 私はびっくりする。それまでは? 丸くなかった? そんなことはないでしょう。
 それから「晩頭のこと」(これ、どういう意味? 晩の初めかなあ)の2連目。

見上げると空は漏斗(じょうご)のようにすぼまります

 空って、形を変える? そんなことは、ないでしょう。
 そんなことは、ない。ない、とわかっているけれど、「そんなことはないでしょう」と否定したけれど、あ、そうだな、と思う。そんな感じがするなあ。そういう「風景」を見たことがあるなあ、と思う。
 どうしてだろう。
 「丸まる」「すぼまる」は「丸い状態になる」「先が細い(狭い)状態なる」。そしてこのとき、「なる」は「なる」ではなく、眼が地球を丸い状態に「する」、空を漏斗のような状態に「する」のだ。私たちが地球や空を、眼で整えなおしているのだ。眼が整えなおしているのだけれど、眼にそんな力があるとは思えないので、「地球が」まるくなる、「空が」漏斗のようにすぼまる、と混同する。
 いや、混同するというよりも、地球や空と一体になっているために、区別がつかないのかもしれない。
 たかぎのことばは、対象と自己(たかぎ)が一体になって動いている。「主/客」の区別をとりはらって動いている。関係が固定化されているではなく、関係そのものが動いている。
 で、この「関係」というのは、「丸い状態になる」「先が細い(狭い)状態なる」というときの「状態」だ。地球とたかぎとの「あいだ」にあるのが「状態」、空とたかぎのとの「あいだ」にあるのが「状態」。「状態」というのは「関わり方」でもあるね。だから「する」と言いなおせる。「関わり方」だから「状態」はいつでも変化するのだ。「なる/する」という動詞が、そこではつねに連動して、一体として働いている。

 たかぎは「状態」を書いているのだ。「私」でもなく、「もの」でもなく「状態」を書いている。
 「丸まる」「すぼまる」を丸い「状態」になる、先が細い「状態」になると、私はことばを補って言いなおしてみたが、たかぎの詩のことばにつまずいたら「状態」を補いながら読み直せば、たかぎにより近づけるような気がする。
 たとえば「一隅」の次の、とても印象深い2行。

私(いのち)って何だろ
照らされて日なかの犬がふと後ずさりする繁みのこと?

 これは「いのち」とは比喩で語るなら何になるか。何の「状態」になるか。どのような「状態」を「いのち」と言うのか。
 それは日なかの(明るすぎて太陽の日だまりにいると錯覚するような月の光のなかの)犬があとずさりする「状態」のこと、犬が隠れる繁みのような「状態」のこと。
 うーん、わからないが、何か関係に変化が起きて(たとえば、「照らされて」という変化があって)、それがほかのものに影響する。そういう「状態」そのものが、「いのち」のあり方なのだろう。この2行では、「月(の光)」と「犬」と「繁み」が関係しながら、つくり出している「場」が「状態」なのだろう。
 不思議な「ひろがり」がある。「状態」が閉ざされていない。「状態」が開かれて、どこか別の次元とつながっている、「永遠」とつながっている感じがする。そして、その「別な次元」との「つながり」は「なる」という動詞といっしょにあるのかもしれない。

 「色の染まり」の前半。これも、美しい。

花芽はもうほんのり朱くて
並んでまだ背丈もつけぬ若葉
一つと数えると
どこか色めいて二つ三つと聞こえ
いいね
人の世が少し染まる

 私(たかぎ)が「一つと数える」と、花芽がどこかで「私も」という具合に、「二つ、三つ」と主張する。花の状態が変化する。そしてそれは「人の世」に反映し、人の世が「少し染まる」。染まった「状態」になる。





四時―夜をつたう 詩集
たかぎ たかよし
編集工房ノア

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嵯峨信之を読む(36)

2015-03-09 06:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
68 無名の死

その母はみずからの命を断つた
娘の前で娘とともに辱しめられてどうして生きていられるのだ
そのまま生きつづけられる世界はどこにもない
それはぼくたちの責任ではなかつたと誰に言える

 嵯峨は「責任」として詩を書いている。そういう書き方もある。「責任」ということばで書くことを引き受ける。それが嵯峨の「誠意」である。

69 おもかげ

その端正な顔のつめたさは白い鞣皮(なめしがわ)に触れたようで

 「鞣皮に触れたようで」という比喩が、私には、よくわからない。「その人」が鞣皮にふれたときに「つめたさ」を感じたのか。それが「顔」に出ていたのか。それとも「鞣皮にふれた」は嵯峨の体験なのか。嵯峨にその体験がなければ、この比喩は生まれてこない。しかし、「その人」にその体験がなくても、嵯峨は自分の体験したことを他人に託して、それを比喩にすることができる。
 「比喩」は対象を印象づけるものだが、「比喩」を語るのは詩人である。そのとき、詩人は「比喩」を語ることで、「対象」になっている。

その言葉には夕顔のようなはかなさがあつた

 この一行は、嵯峨が、そのことばを聞いたとき夕顔を思い出したということだ。その人が「夕顔」をはかないと思っているかどうかは関係がない。嵯峨は「夕顔」の比喩をつかうことで、「その人」になっている。
 その人に「なっている」から、ことばの「意味」を聞き返さなくても、その「気持ち」までわかってしまう。

深い夜霧のたちこめている米原(まいばら)の駅で
わたしは二列車に乗りそこなつて立つていた
--わたしも戦災者です 芦屋であいましたの

 戦災にあった人が、その地をはなれ、どこかへ行こうとしている。列車は満員だ。米原は乗換駅。ひとがあふれる。なかなか乗れない。二列車の「二」が、その困難さを語っている。そのつらさを、嵯峨も表情に出していたのかもしれない。知らない人が話しかけてくる。そのときの「気持ち」がわかってしまう。話しかけられる前に、「その人」を見つめたときから嵯峨は「その人」になっている。同じ境遇になっている。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社
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