詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

谷川俊太郎編『辻征夫詩集』

2015-03-02 10:58:35 | 詩集
谷川俊太郎編『辻征夫詩集』(「岩波文庫」岩波書店、2015年02月17日発行)

 谷川俊太郎編『辻征夫詩集』に、私はとても驚いた。えっ、谷川俊太郎って辻征夫の詩が好きだったんだ。知らなかった。
 いや、想像したことがなかった。
 谷川俊太郎の詩は、どこか論理的である。しかし、理屈っぽくない。辻征夫のことばは論理的かもしれない。しかし、それは「論理」というよりも、何か「理屈っぽい」。しつこい感じがする。それが谷川のことばのスピード感とあわない。
 たとえば、『ヴェルレーヌの余白に』のなかの「昼の月」の2連目。

愛って ほんとうはどんなものか
知らないけれど
恋情ならけんとうがつく
きみと離れているとき
ぼくのなかにあいている
大きな闇 そこを吹き抜けて
希望を凍らせて 憎しみのように強く
渇望をかきたてる風のことさ
だからぼくはきみと会えば
言葉もなくきみを掴み ぼくの空虚を
きみで塞ごうとするんだ

 「愛」と「恋情」なんて、区別しなくてもいいと思うけれど、その違いにこだわる。そして違いを説明するのに、たくさんのことばをつかう。「名詞」が多すぎる。「闇」「希望」「憎しみ」「渇望」「風」「空虚」。むずかしいことばはないのだけれど、たくさん出てくるので、追いかけるのがわずらわしくなる。「しつこいなあ」という感じになる。「穴」といってしまえばいいのになあ。「塞ぐ」という動詞が向き合っているのは「闇」とか「空虚」じゃなくて、もっと具体的なものなのになあ。「きみで塞ぐ」というのも抽象的だねえ。抽象的だから、「理屈っぽい」と感じるのかもしれない。
 谷川だったら、こんなにたくさんのことばをつかわずに、同じことば(ひとつかふつたのことば)を繰り返すだろうなあ。繰り返しのリズムのなかに「論理」を隠してしまうだろうなあ、と思った。
 そんなふうしてしまわないところに、谷川は魅力を感じているのかな?

 辻の「しつこさ」は、たぶん、「念押し」にあるんだろうなあ、とも思う。「念押し」というのは、『いまは吟遊詩人』のなかの「池袋 土曜の午後」の最後の連。

彼女はぼくを
駅まで送ってくる
(送るだけならいいでしょ!)
駅で
電車がきて
ぼくはそれに乗り
それから ドアがしまる
すると電車は--別に不思議じゃないのだが
ゆっくりと 動きはじめる
土曜の午後の 池袋の駅を

 「別に不思議じゃないのだが」が「念押し」。「不思議じゃない」のではなく「不思議」だ。ひとの気持ちとは無関係に、電車は動く。この非情さは、人間には不思議。それを「不思議」とは言わずに「不思議じゃない」と書くことで、読者に「不思議だ」と想像させる。それだけなら「念押し」とはならないのだが、「別に」と「のだが」の二つのことばが「念押し」。しつこい。「ね、わかる?」と言っている感じ。
 どの行がどうと書きはじめるとややこしくなるが、詩の全体から「ね、わかる?」と繰り返し言っている辻の声が聞こえてくる。それが、私には、ちょっと違和感として残る。いや、辻の詩だけを読んでいるときはそうでもないのだが、これを谷川が編んだと思うと、あ、そうなのか……と考え込んでしまう。
 谷川には、辻のように「しつこい」感じで生活とことばを向き合わせたいという欲望がどこかにあるのかなあ、と思ったりする。谷川のことばは谷川のことばで、暮らしをととのえていると感じるけれど、もっと暮らしの方にしつこくすり寄っていくというのが谷川の夢なのかな?
 あ、脱線した。
 辻の詩に戻ろう。私がいちばん好きなのは『ヴェルレーヌの余白に』のなかの「レイモンド・カーヴァーを読みながら」。リズムがいい。軽くて、ライトヴァースというのはこういう詩のことかと感じる。
 で、この「軽い」詩のなかに、辻の「思想/哲学(ことばの肉体の基本)」も隠されている、と私は感じている。

レイモンド・カーヴァーを読みながら
                ぼくの生涯で
いちばん悲惨だったのはいつだろうと考えた
そして浅草の居酒屋で
丸い椅子からころげ落ちたことを思い出した
いきなり落ちて 這いあがってまた落ちた
次は椅子ごとひっくりかえって焼酎の甕に
あたまをぶつけて 甕は
がらんどうのこころだから鈍く
ごんと鳴ってすこし揺れたのだ 八月の

午後で西日が射す居酒屋に客はぼくひとりで
店のお婆さんは背を向けて居眠りをしていた
それはぼくの知るひとのすべて
友人のすべて ぼくが愛した
いくたりかの少女もぼくは忘れた(とき)で
眉間 まぶた てのひらから血が流れた
ひとりで立っていられるだろうか
歩いて行けるだろうかひとりで

 これは辻の「はずかしい」体験かもしれない。詩のなかに「知る」ということばが出てくるが、この体験は辻が詩に書くまで誰にも知られていない。友人も愛した少女も知らない。店の留守番をしているお婆さんさえ居眠りをしていて、そのことを知らない。辻「ひとり」だけが知っている。そういうことは、他人は「知らなくて」いい。けれど、辻は「知ってほしい」。この「知る/知らない/知ってほしい」という意識のなかを、「ひとり」という思いをかかえて動いているのが辻の思想のように、私には思える。
 「池袋 土曜の午後」では電車は人間の思いとは無関係に動く。それを辻「ひとり」だけは「知っている」。読者は知らない。だから「知ってほしい」。自分の「知った」ことを知ってもらいたい。そのために辻は詩を書いている。そして、「知って」もらいたいから、説明が「しつこく」なる。
 「私ひとりだけは、これこれを知っている」。この主張が、辻の詩の全体を重くしていると私は感じている。
 「レイモンド・カーヴァーを読みながら」が「軽い」のは、そこに書かれていることが、辻の個人的な体験で、たしかにそれは他人が知らないからである。「甕は/がらんどうのこころだから鈍く/ごんと鳴ってすこし揺れたのだ」の行に「こころ」ということばがなかったら、もっと軽くなってと思うけれど……。
 もう一篇、「ラブホテルの構造」もとても軽くておもしろい。寿司屋で新しくできたラブホテルのなかは(構造は)どうなっているのか、と話している。「知らない」。そしてその「知らない」ことを、出前の少年(アキラ君)がラブホテルからでてきたカップルに「どんなだった?」と思わず尋ねてしまうというエピソードを書いている。その最後、

こんどはぼくがアキラ君の眼の前へ

ぬっと出て来てみたいな もちろん
ラブホテルからだ

 「知っている」を「知らない」アキラ君に話したいのだ。
 この辻「ひとり」だけが「知っている」は『河口眺望』の「雨」のなかでは「だれもいない空間に/放映を続けるテレビ」というような形でも出てくる。「だれもいない」というとき、そこに辻はいるのか。辻は、いる。辻の「意識」はそこにある。そして、テレビが映っていることを知っている。
 そういうことを考えていると、何とはなしに、あ、辻というのは孤独(ひとり)を生きたひとだったんだなあ、と思う。(そこが「ひとりっこ」の谷川と重なるのかなあ……。)「知っている」を捨てて、「知らない」「教えて」と気楽に言えたら「ひとり」を抜け出して、もっと明るい詩になったかもしれないなあ、と思った。谷川の詩のように。あるいは「知っている」ということを気にしなければよかったのかもしれない。人間は、たいていのことを知っている。知っているから、他人のことばを読んでおもしろいと思えるのだから。

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嵯峨信之を読む(29)

2015-03-02 09:33:29 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
54 落葉

 一連目が複雑である。

かれが木の葉のように生きていたら
そつと息を吹きかけてやろう
木の葉がふたたびかれのなかへ帰るように

 一行目、「かれ」は「木の葉」という比喩で語られる。ところが三行目の「木の葉」と「かれ」の関係が、おかしい。「木の葉」を「かれ」だとすると、

「かれ」がふたたび「かれ」のなかへ帰るように

 になってしまう。三行目の「かれ」は「木の葉」ではなく「木」のように、私には思える。落ちた「木の葉」がふたたび元の「木」に帰れるように、と書こうとしているのだと思う。そうすると、一行目の「かれ」も「木」であり、「木の葉」は「かれの一部」ということになる。「彼は木である」という「木」の比喩が、無意識のなかに動いている。それが無意識であるために、比喩が少し混乱しているように感じられる。
 この「かれ」と「木」の混同と言うか、混乱は三連目で「かれ」と「ぼく」の、無意識の「同一」になって動いている。

どこといつてかれはぼくに似ていない
動かなくなつたぼくの手に触れてかれは泪を流すだろう
ぼくがかれにもう何もしてやれなくなつたので
かれは小さな時間と落葉のなかにすつかり埋もれてしまうだろう

 「かれはぼくに似ていない」と嵯峨は書いているが、そっくりなのではないか。同じなのではないか。
 「動かなくなつたぼくの手に触れて」ということばのなかに、「混乱」が凝縮している。「かれ」は「木」あるいは「木の葉」である。「木」が「ぼく」に「触れる」とは通常は言わない。あくまで「ぼく(人間)」が「木」に触れる。「木」は動詞の主語にはなれない。
 「動かなくなつたぼく」は人間ではなく、「木」ではないだろうか。それにふれて「かれ」は「泪を流す」。そのとき「かれ」は「木」ではなく、むしろ人間である。「木」であるなら「泪を流す」のではなく「木の葉を落とす」。「泪」は「枯葉(落葉)」の比喩である。
 「木」(木の葉)と「ぼく」が、いつのまにか入れ代わっている。一連目で「かれ」と「木の葉」が入れ代わったように。「落葉のなかにすつかり埋もれてしまう」のは「かれ=木」ではなく「ぼく」である。木の葉を落とした「木」は、木の葉のなかに埋もれることはできない。木の葉を落とす前、木は木の葉に覆われ、木の葉に埋もれたような姿をしているのだから。
 しかし、こんな「理屈」は詩にとっては、あまり意味がない。明確に「ぼく」と「木」と「木の葉」の関係を「意味」でしばらずに、三つで「一つ」なのだと思って、騙されてしまえばいいのだ。そして、その騙されたときに見える「関係」(動き)が、なんとなくセンチメンタルでいいなあ、と思えばいいのだろう。

55 母

 亡くなった母の思い出か。

ふたたび母はあらわれなかつた
幾日も幾夜も

 「幾日」「幾夜」がかなしい。しかし、

ふと耳にきく声は
いつもの澄んだやさしい母の声だつた

 「いつもの」がとてもいい。「いつも」、それこそ「幾日」「幾夜」と数える必要がない日々だったのである。「数」を超越した愛が、そこにある。

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青いインク

2015-03-02 00:00:01 | 
青いインク

窓があった場所に「揺れる影」ということばが青いインクで書かれたことがあった。「影は私を見つめていないという思いが、私と影との距離を消し去った」ということばはどの本に書いてあったのか、ふと思い出された。衝動に襲われたという「意味」なのだが、何度繰り返してみても、もう「意味」は夜のなかへ散らばって消えるだけだった。

それより前だろうか、後だろうか、「河口」ということばが出てきた。窓から見える「河口」。潮がのぼってきて、「冬の日にあまく膨らんだ」ということばになったが、書かれなかった。別の日、やはり「河口」ということばがあって、「泥をふくんだ水面に、雨上がりの空の色が静かに映った」という声になった。ことばは距離を消して並んでいた。

同じ場所、同じことばなのに、同じ「意味」にならない。
違った場所、違ったことばなのに、同じ「意味」になる。

「窓」ということばがあった。一つだけ残った「窓」。「だれも聞いていないのに、弁解している顔のように」という比喩が、どこからか飛んできてはりついたみたいだ。






*

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