詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金堀則夫「そえうま」、季村敏夫「耳は波へ」

2015-03-27 09:34:55 | 詩(雑誌・同人誌)
金堀則夫「そえうま」、季村敏夫「耳は波へ」(「別冊 詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 金堀則夫「そえうま」(あるいは、ひ、か)は原文は漢字の表記。私のワープロでは表記できないのでひらがなにしたが、漢字は「馬」ヘンに「非」のつくり。馬+非。四頭だての馬の、外側の二頭のことをいう、と辞書に書いてあった。

古代の地層から
一体の馬の骨があらわれた
生駒山麓・河内の土に 清らかな水に
馬を馴じませようとしたが
放出してしまった
忘れられていた馬守(まもり)神社がよみがえる

 古代の地層から馬の骨が発見されたことに触発されて書いた詩なのだろう。「駒」のなに馬がいて、生きた馬(駒)の地層から死んだ馬の骨が出てくる不思議さ。昔は馬がたくさんいたのだろう。そこから「そえうま」(四頭だての馬)も連想できる。
 「馴」のなかにも馬がいる。近くには「馬守神社」もある。もう忘れられているから、馬はいなくなったのだが、名残が残っている。「馬」に誘われてことばが動いている。「文字(漢字)」が動いている。音を聞いただけではわからないものが、漢字の「表意」のなかに浮かび上がっている。
 「そえうま」(四頭だてのうま)の一頭であるらしい「馬の骨」。それは「馬」なのか、「馬に非ず」なのか。と、思ってしまうのは、次の行があるから。

馬の骨
あばら骨が非にみえる

 この「非」は肋骨の形だろう。背骨にくっついて彎曲している肋骨。それは「象形文字」にすれば「非」になる。ほんとうは「背中を合わせて、そむきあっている」というのが「象形文字」的語源(字源)のようだが、「あばら骨が非にみえる」と書かれると、本来の意味よりも、間違った情報が「真実」のようにみえてしまう。
 ここには死んだ馬は「馬に非ず」という意味が含まれているかもしれない。生きているか死んでいるかは「あばら骨」のない図、肺(あるいは心臓)が動いているかどうか、息をしていれば生きている、していなければ死んでいる、というようなことも思う。

人の骨
あばら骨が非になっている

 あ、馬と人は「あばら骨」の形で重なってしまう。肺を囲んで守っているあばら骨の形はたしかに「非」のようにみえる。中央の骨の両脇に出ている(つながっている)骨の数は違うだろうが、形が似ている。そして、馬も人間も「あばら骨」の内側、肺や心臓が動いているときは生きていて、「あばら骨」だけになってしまっては死んでいる。「馬に非ず」「人に非ず」になっている。
 この「文字の発見」がこの詩のおもしろいところだ。
 ひとは、いろんなところから勝手にことばをつなげていくものなのかもしれない。「誤読/誤解」の微妙なゆらぎのひとつが、この「非」なのだと思う。
 こういう「誤解/誤読」に意味があるのかどうかわからないが、へええっと、妙に感心してしまう。

バカでかい馬
突然前足を上げ あと足でたちあがる
覆いかぶさってくる
驚怖
畏れ敬う馬

 目の前で馬にたちあがられたら、びっくりする。覆いかぶさってくれば、巨体だから、怖い。「驚」のなにか馬がいる。「敬」の下に「馬」がついて「驚」になる。「畏怖」ということばも、ここでは思い出す。畏れ敬うのが「驚怖」なのか。でも、これは人間? それとも人間を見た馬の方? どっちが「驚怖」したのだろう。
 ここまでは「漢字」の世界。
 そのあと

いつのまにか
ひーひーと いななきながら
ひとに非をのこして
豊かな牧へと力強く駆けていく

 と「ひーひー」という「音」も出てくる。「ひーひー」は馬のいななき「ひひーん」に似ているかもしれないが、馬にたちあがられてびっくりした人間の悲鳴のようでもある。そのひとに非を残して(悲鳴をあげさせて)、馬は去っていく。(悲鳴をあげて、馬が去っていく、と読むこともできると思うが……。)
 そのとき、残された人間は、どうなる?

わたしとともに
ひとは非をつけて おどけている
俳の骸骨

 「人ヘン」に「非」をくっつけると「俳句」の「俳」。「俳句/俳諧」は「こっけい/おかしみ」と通い合う。
 馬にのっかかれそうになり、「ひーひー」と悲鳴を上げる、びっくりして驚いている様子は、まあ、おかしいかもしれない。傍から見れば。

ひととあっては はなれ
いつも非がのこっている

 でも、もし私が馬にたちあがられ、ひーひー言っているのを笑われるのだとしたら、ちょっとつらい。笑ったひとは、「人に非ず」と怒るかもしれない。笑ったり、笑われたり、それを境に、ひとはくっついたり離れたりする。その接点に「非」がある。「非」に「心」をくっつければ「悲」になる。
 そんなことは書いていない。書いていないのだけれど「字解き」をしながら、そんなことも思う。ここから何が出てくるか、ここにどんな「意味」があるか。それは、私にはわからないが、あ、おもしろいと感じる。
 文字(漢字)が交錯し、そこに馬と人と非が動く。動くたびに、「意味」がかわる。その「意味」が社会(世界)にどんな「意味」となって存在するのかわからないが、わからないのに、そういうものが「ある」と感じることができる。そういう「誤解/誤読」が不思議に楽しい。
 「認識」というのは、こういう「誤解/誤読」を強引に「正しいもの」として動かしてしまうことかもしれないなあ、とも思う。



 季村敏夫「耳は波へ」に、次の二行がある。

二次会がおわると小雨
老いゆく人の小便のひびき

 ここに「俳句」を感じる。「小雨の音」が「小便のひびき(音)」に聞こえる。しかし、逆かもしれない。「小便のひびき」が「小雨の音」に聞こえたのかもしれない。どっちでもいい。それが「ひとつ」になって聞こえるということ、その「誤解/誤読」が、人を「いま/ここ」の「限定」から解き放ってくれる。そのきっかけになる。
 「間違える」楽しさが、ある。


畦放(あはなち)
金堀 則夫
思潮社
コメント
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