詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

愛敬浩一「田中絹代が振り返る」

2015-03-12 10:51:49 | 詩(雑誌・同人誌)
愛敬浩一「田中絹代が振り返る」(「季刊詩的現代」12、2015年03月発行)

 愛敬浩一「田中絹代が振り返る」は、愛敬が19歳か20歳のとき田中絹代を見かけたときのことを書いている。フィルムセンターで『伊豆の踊り子』が上映された。そこに田中絹代が来ていたのだろう。

老いた田中絹代が歩いている
十九歳の私がようやく追いつき
(略)
声をかけるのだ
田中絹代は振り返り、答える
「あなたのように若い人が--」

 「あなたのように若い人が」のあと、何と言ったのか。何も言わなかったかもしれない。でも、その言われなかったことばは見当がつくから、まあ、いい。
 私がおもしろいなあと感じるのは、愛敬が「老いた田中絹代が」と書き出し、その田中絹代が「あなたのように若い人が」と答えるとき、そこに「老い/若い」がきちんと呼応していることである。愛敬は田中絹代を見て「あ、年をとっている。スクリーンと違う。ほんものだろうか」と一瞬思う。田中絹代は田中絹代で、「こんな古い映画を、こんな若い人が」と驚く。「私を知っているなんて」と驚く。そこに、「驚く」ということばは書かれていないのだが、「驚き」が共有されている。違う「驚き」なのだけれど、「驚くという時間」が共有されている。
 愛敬は、もうひとつ別な時間も生きている。

そう
確かにあの頃は若かった
新宿駅で、映画の撮影中だった
一つ年上の片桐夕子も
まだあの頃は若かった

 若い片桐夕子、「伊豆の踊り子」のときの若い田中絹代。それを思うとき、愛敬は、どんな時間にいるのか。その、ふとした時間を挟んで、ことばは、離れた時間を往復する。そのとき、ちょっと思考がきしみ、切断され、そこに不思議な「断面」のようなものが噴出してくる。

小さな、老いた田中絹代が
私を見上げる
「なあたのように若い人が--」
私はどれほど若かったのだろう
映画史の上を歩いている田中絹代に
本当は、私など見えていなかったのかもしれぬ
画面からは観客は見えない
田中絹代が振り返る
私は本当にそこにいたのか
新宿駅の片桐夕子を私は本当に見たのか
まぶしい光りの
始まりばかりが始まっている

 「画面からは観客は見えない」。あたりまえのことだが、そのあたりまえのことに、はっとする。役者は観客を見ていない。何を見ているのだろう。役者は、想像力のなかで自分の「映画」を見ているのかもしれない。観客のように。映画の歴史になっている田中絹代は、映画の歴史を見ているとも言えるかも。
 一般の客(愛敬)には田中絹代は「固有名詞」である。はっきりした「個人」である。けれど、田中絹代からは、愛敬は識別できる人間ではない。田中は、愛敬を見ないで、「若い」ということだけを見たのかもしれない。
 田中絹代を見て「老い」を見た愛敬。愛敬を見て「若い」を見た田中絹代。互いに「固有名詞」よりも「老い/若い」という「属性」を見ている。そして、その「属性」に何か「真実(何を見るかということの本質)」のようなものを感じている。
 見ているつもりで、何かを見ていない。そんなものを見るつもりはなかったのに、それを見てしまう。そういう「すれ違い」が、ある。そして、その「すれ違い」がショートした火花のように、ぱっと、そこで光っている。
 それを「画面からは観客は見えない」という唐突な一行で印象づける。それがおもしろい。この一行が「老いた田中絹代が歩いている」「小さな、老いた田中絹代が/私を見上げる」「田中絹代が振り返る」と書かれている田中絹代を、よりいっそう「現実」にする。見ているものが「老い」という属性なのに、それが「田中絹代」ぬきにしてはありえないものとして迫ってくる。映画の迫真の演技みたいだなあ。
 このあと、そういう「真実」を軽く手放して、感慨にふけるところも、おもしろいなあ。いい感じだなあ、と思う。

 あのときの一瞬を、田中絹代が愛敬を振り返って見たように、愛敬は「時間」を振り返って、見ている。「新宿駅の片桐夕子」は本当に新宿駅のロケしているのを見たのか、それともスクリーンで新宿駅といっしょに見てロケしているのを見たと錯覚しているのか……。わかるのは、片桐夕子は、スクリーンからも、新宿駅で演技しているときも、愛敬など見ていない、「役者には観客など見えない」ということだけである。
 ひとはいつでも何かを一方的に見る。それが「若い/若さ」ということか。愛敬の「若い/若さ」はあのとき始まった。その始まりはつづいている。田中絹代が愛敬に対して「あなたのように若い人が」と言ったとき、田中絹代は田中絹代で、彼女自身の「若い/若さ」の始まりを振り返ってみたのだ。たしかに愛敬などは見ていなかったのだろう。それは、美しいことだ。それを受け入れているこの詩も美しい。
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嵯峨信之を読む(39)

2015-03-12 09:46:04 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
74 漂流者

 詩の前半は非常に抽象的だ。

ぼくは空間を信用しない
時間を信用しない
ついに人間まで信用しなくなつたので

 「空間」「時間」「人間」に共通するのはなんだろう。「間(あいだ/ま)」、つまり「関係」か。関係が固まってしまって、どこにも行き場がない。
 だから

もうながいあいだ大空のもとで金縛りにあつて動けない

 「金縛り」は、その身動きの取れない状態をあらわしている。「間(あいだ/ま)」のなかを動いて、関係を変更していく。関係をつくりかえながら生きているのが「ひと」なのだろう。「人間」になる前の、「関係」がまだつくられていない、一種の「未分節」の状態。「関係」が「無」の状態に、嵯峨はあこがれている。
 で、次のようにことばが展開する。

そして時間も空間も人間もいないところで
魂をすつかり石で囲んで
その中から鳥か煙りのようにぼくを舞い上がらせよう

 「時間も空間も人間もいない」は時間も空間も「ない」、人間も「いない」。「ない」「いない」は「無」。「無関係」の「無」につながる。
 「魂」と「鳥/煙り」の比喩がわかったようで、わからない。これを言いなおした次の三行が美しい。三行全体が、前の三行の比喩になっている。

たとえば無人の島へ泳ぎついた者が
まず何よりも石を集めて囲炉裏をつくり
火を焚いてあらゆる夢をそこからひとすじに立ちのぼらせるように

 嵯峨は「漂流者」を夢見ている。「無人島」の「無」は「無関係」の「無」。それまでの関係をいったん断ち切り(無にして)、新しい「関係」を夢見て、その「新しい関係」の「象徴」として「のろし」をあげる。だれか、「ぼく」を発見してほしい、と。だれかと、孤独からそのものから出発して出会いたいと言っているように思える。

75 蝉の歌ごえに乗つて

そこへぼくを捉えようとするなら
影を鎖でつなぎとめねばならない

 この書き出しの二行はイメージとしてはわかるが、どういう「意味」なのか、わかりにくい。「鎖でつなぎとめる」の「つなぎとめる」は、「漂流者」で読んだ「関係(空間/時間/人間)」と「ぼく」と重なり合うかもしれない。「ぼく」を「捉える」ものは「関係」である。「関係」が「ぼく」を捉える。つかまえる。「そこ」は時間/空間/人間の「関係」の場だろう。
 この詩は「漂流者」と違って、その「関係」を直接拒否しているわけではないが(拒絶を語っているわけではないが)、似ている。通い合うものがある。
 「影を鎖でつなぎとめる」というようなことは、不可能である。「影」は太陽の位置によって変わってしまうからである。太陽を「理想(希望)」の象徴だと仮定すると、「ぼく」の影は、その太陽から生まれている。その太陽と、太陽がつくりだす影の「関係」が「生きる」ときの「間(あいだ/ま/場)」ということになるかもしれない。

立つている一本の藁の周りで
影はゆつくりゆつくり一日中まわつている
それは太陽からの遠い距離に親しまれているからだ
生きる力はそのような距離のなかにあるのだろう

 「距離」と書かれているのは「間(あいだ/ま)」である。その「距離」ということばに「親しまれている」という表現がくっついている。「間」は「関係」でもあった。「親しい関係」の、その「親しい(親しむ)」のなかに「生きる力」がある。希望(太陽)と「親しく」結び合いながら、ひとは「生きる」。「親しむ」という動詞を生きる。
 もし、太陽がなくなったら、太陽が昇らなかったら、曙がやってこなかったら……。

もしぼくが小さな曙を消したら
ぼくのたつた一つの領域は無くなるだろう

 「影」は存在しなくなる。「希望(夢)」が、「ぼく」を自在に変える。「自由」に変える。自分自身の「太陽」をもつことが許されないのなら、

そして空は遠のいたきりふたたび帰つて来ないだろう
それからぼくは蝉の歌ごえに乗つて
ついについに何処か遠いところへ行つてしまうだろう

 「どこか遠いところ」は「死」かもしれない。そこまで深刻ではなくて、「漂流者」を夢見てしまう、ということかもしれない。

嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社
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破棄された詩のための注釈(8)

2015-03-12 01:33:55 | 
破棄された詩のための注釈(8)

「鏡」を定義すると、「物を映すもの」になるかもしれない。しかし、実際のつかわれ方から考え直すと、鏡は形を整えるものである。ひとは、朝、鏡のなかで自分の顔を整える。顔を整えることは、こころを整えることであるというひともいる。詩人はこの定義の「整える」という動詞を活用して「男は鏡のなかに必要なものがすべて映るように部屋を整えた」という一行を書いた。これは彼の「現実」の報告である。読みかけの本(クンデラ)とモレスキンの黒い表紙のノート、2Bの鉛筆の位置を決め、こころが落ち着くと、彼は鏡を磨いた。鏡が清潔になると、本とノートと鉛筆が美しい影を机の上に広げるのが、鏡のなかに、わかった。

この詩が中断し、破棄されたのは、男の部屋に女がやってきたからである。女は「この鏡、嫌いだわ。鏡のなかから、鏡の外にいる私をのぞいている」と言って、壁から外すことを主張した。静謐が破られた。静謐とは「朱泥のようなものである」。「朱泥」が「比喩」になって突然浮かんだ。鏡の底にはってある銀を裏側からささえる朱色。しかし次の行が思い浮かばない。女が去った後、「壁に鏡の輪郭をした白い影が残った」という行は何度も書かれ、そのたびに傍線で消された。





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