愛敬浩一「田中絹代が振り返る」(「季刊詩的現代」12、2015年03月発行)
愛敬浩一「田中絹代が振り返る」は、愛敬が19歳か20歳のとき田中絹代を見かけたときのことを書いている。フィルムセンターで『伊豆の踊り子』が上映された。そこに田中絹代が来ていたのだろう。
「あなたのように若い人が」のあと、何と言ったのか。何も言わなかったかもしれない。でも、その言われなかったことばは見当がつくから、まあ、いい。
私がおもしろいなあと感じるのは、愛敬が「老いた田中絹代が」と書き出し、その田中絹代が「あなたのように若い人が」と答えるとき、そこに「老い/若い」がきちんと呼応していることである。愛敬は田中絹代を見て「あ、年をとっている。スクリーンと違う。ほんものだろうか」と一瞬思う。田中絹代は田中絹代で、「こんな古い映画を、こんな若い人が」と驚く。「私を知っているなんて」と驚く。そこに、「驚く」ということばは書かれていないのだが、「驚き」が共有されている。違う「驚き」なのだけれど、「驚くという時間」が共有されている。
愛敬は、もうひとつ別な時間も生きている。
若い片桐夕子、「伊豆の踊り子」のときの若い田中絹代。それを思うとき、愛敬は、どんな時間にいるのか。その、ふとした時間を挟んで、ことばは、離れた時間を往復する。そのとき、ちょっと思考がきしみ、切断され、そこに不思議な「断面」のようなものが噴出してくる。
「画面からは観客は見えない」。あたりまえのことだが、そのあたりまえのことに、はっとする。役者は観客を見ていない。何を見ているのだろう。役者は、想像力のなかで自分の「映画」を見ているのかもしれない。観客のように。映画の歴史になっている田中絹代は、映画の歴史を見ているとも言えるかも。
一般の客(愛敬)には田中絹代は「固有名詞」である。はっきりした「個人」である。けれど、田中絹代からは、愛敬は識別できる人間ではない。田中は、愛敬を見ないで、「若い」ということだけを見たのかもしれない。
田中絹代を見て「老い」を見た愛敬。愛敬を見て「若い」を見た田中絹代。互いに「固有名詞」よりも「老い/若い」という「属性」を見ている。そして、その「属性」に何か「真実(何を見るかということの本質)」のようなものを感じている。
見ているつもりで、何かを見ていない。そんなものを見るつもりはなかったのに、それを見てしまう。そういう「すれ違い」が、ある。そして、その「すれ違い」がショートした火花のように、ぱっと、そこで光っている。
それを「画面からは観客は見えない」という唐突な一行で印象づける。それがおもしろい。この一行が「老いた田中絹代が歩いている」「小さな、老いた田中絹代が/私を見上げる」「田中絹代が振り返る」と書かれている田中絹代を、よりいっそう「現実」にする。見ているものが「老い」という属性なのに、それが「田中絹代」ぬきにしてはありえないものとして迫ってくる。映画の迫真の演技みたいだなあ。
このあと、そういう「真実」を軽く手放して、感慨にふけるところも、おもしろいなあ。いい感じだなあ、と思う。
あのときの一瞬を、田中絹代が愛敬を振り返って見たように、愛敬は「時間」を振り返って、見ている。「新宿駅の片桐夕子」は本当に新宿駅のロケしているのを見たのか、それともスクリーンで新宿駅といっしょに見てロケしているのを見たと錯覚しているのか……。わかるのは、片桐夕子は、スクリーンからも、新宿駅で演技しているときも、愛敬など見ていない、「役者には観客など見えない」ということだけである。
ひとはいつでも何かを一方的に見る。それが「若い/若さ」ということか。愛敬の「若い/若さ」はあのとき始まった。その始まりはつづいている。田中絹代が愛敬に対して「あなたのように若い人が」と言ったとき、田中絹代は田中絹代で、彼女自身の「若い/若さ」の始まりを振り返ってみたのだ。たしかに愛敬などは見ていなかったのだろう。それは、美しいことだ。それを受け入れているこの詩も美しい。
愛敬浩一「田中絹代が振り返る」は、愛敬が19歳か20歳のとき田中絹代を見かけたときのことを書いている。フィルムセンターで『伊豆の踊り子』が上映された。そこに田中絹代が来ていたのだろう。
老いた田中絹代が歩いている
十九歳の私がようやく追いつき
(略)
声をかけるのだ
田中絹代は振り返り、答える
「あなたのように若い人が--」
「あなたのように若い人が」のあと、何と言ったのか。何も言わなかったかもしれない。でも、その言われなかったことばは見当がつくから、まあ、いい。
私がおもしろいなあと感じるのは、愛敬が「老いた田中絹代が」と書き出し、その田中絹代が「あなたのように若い人が」と答えるとき、そこに「老い/若い」がきちんと呼応していることである。愛敬は田中絹代を見て「あ、年をとっている。スクリーンと違う。ほんものだろうか」と一瞬思う。田中絹代は田中絹代で、「こんな古い映画を、こんな若い人が」と驚く。「私を知っているなんて」と驚く。そこに、「驚く」ということばは書かれていないのだが、「驚き」が共有されている。違う「驚き」なのだけれど、「驚くという時間」が共有されている。
愛敬は、もうひとつ別な時間も生きている。
そう
確かにあの頃は若かった
新宿駅で、映画の撮影中だった
一つ年上の片桐夕子も
まだあの頃は若かった
若い片桐夕子、「伊豆の踊り子」のときの若い田中絹代。それを思うとき、愛敬は、どんな時間にいるのか。その、ふとした時間を挟んで、ことばは、離れた時間を往復する。そのとき、ちょっと思考がきしみ、切断され、そこに不思議な「断面」のようなものが噴出してくる。
小さな、老いた田中絹代が
私を見上げる
「なあたのように若い人が--」
私はどれほど若かったのだろう
映画史の上を歩いている田中絹代に
本当は、私など見えていなかったのかもしれぬ
画面からは観客は見えない
田中絹代が振り返る
私は本当にそこにいたのか
新宿駅の片桐夕子を私は本当に見たのか
まぶしい光りの
始まりばかりが始まっている
「画面からは観客は見えない」。あたりまえのことだが、そのあたりまえのことに、はっとする。役者は観客を見ていない。何を見ているのだろう。役者は、想像力のなかで自分の「映画」を見ているのかもしれない。観客のように。映画の歴史になっている田中絹代は、映画の歴史を見ているとも言えるかも。
一般の客(愛敬)には田中絹代は「固有名詞」である。はっきりした「個人」である。けれど、田中絹代からは、愛敬は識別できる人間ではない。田中は、愛敬を見ないで、「若い」ということだけを見たのかもしれない。
田中絹代を見て「老い」を見た愛敬。愛敬を見て「若い」を見た田中絹代。互いに「固有名詞」よりも「老い/若い」という「属性」を見ている。そして、その「属性」に何か「真実(何を見るかということの本質)」のようなものを感じている。
見ているつもりで、何かを見ていない。そんなものを見るつもりはなかったのに、それを見てしまう。そういう「すれ違い」が、ある。そして、その「すれ違い」がショートした火花のように、ぱっと、そこで光っている。
それを「画面からは観客は見えない」という唐突な一行で印象づける。それがおもしろい。この一行が「老いた田中絹代が歩いている」「小さな、老いた田中絹代が/私を見上げる」「田中絹代が振り返る」と書かれている田中絹代を、よりいっそう「現実」にする。見ているものが「老い」という属性なのに、それが「田中絹代」ぬきにしてはありえないものとして迫ってくる。映画の迫真の演技みたいだなあ。
このあと、そういう「真実」を軽く手放して、感慨にふけるところも、おもしろいなあ。いい感じだなあ、と思う。
あのときの一瞬を、田中絹代が愛敬を振り返って見たように、愛敬は「時間」を振り返って、見ている。「新宿駅の片桐夕子」は本当に新宿駅のロケしているのを見たのか、それともスクリーンで新宿駅といっしょに見てロケしているのを見たと錯覚しているのか……。わかるのは、片桐夕子は、スクリーンからも、新宿駅で演技しているときも、愛敬など見ていない、「役者には観客など見えない」ということだけである。
ひとはいつでも何かを一方的に見る。それが「若い/若さ」ということか。愛敬の「若い/若さ」はあのとき始まった。その始まりはつづいている。田中絹代が愛敬に対して「あなたのように若い人が」と言ったとき、田中絹代は田中絹代で、彼女自身の「若い/若さ」の始まりを振り返ってみたのだ。たしかに愛敬などは見ていなかったのだろう。それは、美しいことだ。それを受け入れているこの詩も美しい。