詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

蜂飼耳「新宿駅」

2015-03-14 10:54:43 | 詩(雑誌・同人誌)
蜂飼耳「新宿駅」(「イリプスⅡ」15、2015年03月10日発行)

 蜂飼耳「新宿駅」は満員の列車で運ばれていく会社員のことを書いている。あるいは会社員がのっている列車のことを書いている--と想像してしまうのは、私がしかたなく働いている会社員だからかもしれない。

首のほそい瓶の弱さで
からっぽのまま揃えられ、
それぞれの持ち場へ送り込まれる
顔のないまま注ぎ込まれては
履歴に似たものを信じ合う
葉脈みたいに行き届き、
監視の水を行き渡らせて
首都は懲りずになお明るい

 「首のほそい瓶」「からっぽ」「顔のない」。ああ、これが会社員か。「履歴」を信じているのか。都会は葉脈みたいに監視の目がはりめぐらされている。だから、「暗く」ならずに、明るくね。「あいつ、暗いよ」と言われてしまったら、会社員は「おり場」がなくなるかも……。
 ていねいにことばが絡み合って「首都/会社員(労働者)」を描き出すけれど、うーん、蜂飼でなくても、こういう詩は書くかもしれないなあ。

遠ざかった人の目に私は
もうすでに死者のひとり
生と死は交ざり合い、

 あ、こんな簡単に「死者」「生と死は交ざり合い」と書いてしまうのは、どうかなあ。だいたい「遠ざかった人の目に」と「客観」を装ったことばが、なんだか、いやだなあ。「わたしにはここまで見えるんだぞ」と主張しているみたい。「他人」を書きながら「他人」はいなくて、自己主張している。自己主張するなら「他人」に頼るな、なんて文句を言いながらさらに読み進むと、

店頭の鯖の眼が
古い黒板消しを
呼び起こす夕方

 わっ、この三行は何なんだ。
 新宿駅の、どのあたりで鯖を見たんだろう。私は東京には疎い。新宿駅も「乗り換え」に必死でどこに鯖を売っている店があるか見当もつかないが、それよりも「古い黒板消し」にびっくりした。
 えっ、蜂飼って鯖の目を見て「黒板消し」を思い出す? しかも「古い」黒板消し。たとえば、中学校の? あるいは小学校の? 黒板消しのどの部分が鯖の眼? 消すのにつかう布の方? 手で持つ木の方? あるいは黒板消しだけではなく、最後の掃除で黒板を消しているときの教室のことなんかも思い出すのかなあ。子どものときは、学校が終われば、もう「夕方」。
 あ、新宿駅で「店頭の鯖の眼」を見てみたい。古い黒板消しを思い出してみたい。どの黒板消しを思い出せるかなあ。
 このあと、詩は、

もうない、かもしれない階段に
立って、これからの音を
聞いている
卵の、内側から叩いているよ

 と、わけのわからない展開になるのだが、わけがわからないのは新宿駅の「店頭の鯖との眼」を見ていないからだなあ、と思ったりする。「もう、ないかもしれない階段」は古い校舎(黒板消しのある学校)かな? 「卵の、内側から叩いているよ」というのは、いまから雛が生まれる卵のこと? 中学生のこと? 鯖の眼とどういう関係?

積み上がる息、略歴、
絡み合う痕跡
両手で首都の夜を隠しても
指のあいだから漏れてくる

 わからないまま詩の印象は最初に戻る。都会の、「顔のない」人間がうごめいている街。そのなかで、詩のなかほどの「鯖の眼」と「黒板消し」の比喩(?)だけが、いつまでも詩を破って、そこに存在している。
 あの三行、気に入ったなあ。
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嵯峨信之を読む(41)

2015-03-14 10:16:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
78 人間の仔

 嵯峨の詩は抒情的で美しいものが多いが、ときどき果てしなく暗いものもある。この詩は、とても暗い。「わたし」のなかにある「罪」、罪を生きる「わたし」。罪のために絞首刑になる。その綱を用意したのは母だ。そう、書いている。

時が熟してわたしがこの世に生まれでたとき
母は何故に夜を通してひと知れずすすり泣いたのか
わたしは今日までそのわけを一途にさがし求めて歩いてきた
そしてそれがわたしのなかにあることにやつと気がついたのだ

わたしは階段を一段一段しつかりした足どりでのぼつていく
そして垂れさがる綱をしずかに首に当てる
しかもその綱が母の手で用意されていたのを知つて
わたしは頷いて笑うことができる
その笑いにわたしはようやくいまたどりついたのだ

 「わたし」がどんな罪を犯したのか。そのことは具体的には書かれていない。しかし、それが「わたし」の誕生と同時に「わたしのなかにある」。そうなれば、それは誕生と密接な関係にある性行為、性の欲望/衝動というものかもしれない。
 それは「罪」かもしれないが、喜びでもある。喜びだから「罪」なのかもしれない。

わたしは頷いて笑うことができる

 「頷いて」が重要なのだと思う。「頷いて」は「肯定して」という意味である。すべては「母」が用意している。それは「母」もまた「性」を生きているからである。母が性行為をしなかったら、「わたし」は生まれていない。性を知ることで、嵯峨は、いのちが人と人をつないでいるということを実感する。この実感が「頷く」であり、その納得が「笑い」である。「笑い/笑う」は「受け入れる」でもある。
 ここから、ほんとうの「誕生」が始まる。

 そういうことを思いながら、書き出し、第一連目を読むと、なぜ「拳銃」なのだろう、なぜ「サック」なのだろうという疑問が、不思議な感じで、溶解していく。

拳銃のサツクをとりはずしてそこに置くように
それまでのわたしをすつぽり脱いで
いさぎよくわたし自身の前に立つ
もうこの世に怖ろしいものは何もない

 拳銃はペニスである。拳銃を拳銃のケース(サック)から取り出すように、ペニスを取り出す。着ている衣服、下着を「すつぽり脱いで」、生まれたままの「わたし自身」になる。そうして愛する人と向き合う。その瞬間、「怖ろしいものは何もない」。愛があるからである。
 性は、ある宗教では罪(悪)である。性にふけることは罪である。しかし、その罪をとおって、いのちはつながり、いのちは生まれる。罪をおかさないことには、いのちはつながらない。
 母が用意したのは絞首刑の綱ではなく、罪そのものを用意したのだ。罪そのものを、子に引き渡したのだ。
 それを了解する。それが「笑い」だ。

神よ みそなわせ給え

 祈りで、詩は閉じられる。

79 白夜の大陸

 この詩は、どこかで「人間の仔」とつながっている。つづけて読むからそう感じるだけなのかもしれないが……。
 たとえば、

もつもと必要なものは
わたしの魂から外側へながながと垂れさがつている一条の綱だ

 この「一条の綱」は絞首刑の「綱」にも見える。絞首刑の綱は母が用意したもの。その綱としっかりつながるときに、「わたし」は「わたし」になる。「いのち」になる。だから、その綱は「母が用意したもの」であると同時に、「わたしが用意したもの」でもある。「わたし」がいなければ、その綱は存在しないのだから。同じように、「わたしの魂」から垂れ下がる綱は「わたし」がいなければ存在しない。

その細長い綱をするすると伝わつて
血の沿海州に下りたつことができたら
わたしはそこに見るに値するもの見るだろう

 「見るに値するもの」とは「罪」のことである。人間の「生存」そのもののことである。比喩を挟んで、その比喩を嵯峨は言いなおしている。

あくまで人間の原型を固執しようとしているのを見るだろう

 「人間の仔」は「人間の原型」と言いなおされている。性によって生まれてくる人間。そういういのちのつながり方が「原型」である。「原型」と呼んでしまうと、それは動かない固定したもののように見えるが、これは「固定したもの」ではなく、様々に動きながらも、その動きの全体、「いのちの運動」そのものである。
 だから、次のようにも言いなおされる。

またわたしの背後をとざしている暗い海を
くるりくるりと泳いでいる一頭の海豚(いるか)が
じつはみごとに姙(みごも)つたわたしの妻であるのに気づくだろう

 「いのちの運動」「いのちのつながり」であるからこそ、妊娠した妻が出てくる。
 嵯峨はなんとかして、性を詩にしようとしているのだ。それは最終行、

きまつたようにわたしは深いオルガスムスに落ちていくのである

 と「オルガスムス」ということばが出てくることからもわかる。
 「性」が「いのちの運動/いのちのつながり」であると認識しながら、その周辺に「罪」に通じる暗いイメージ(「暗い海」と、「暗い」そのものが直接でてきている部分もある)と向き合っているのは、「神」と向き合わせる形で「性」を考えているからだろうか。




小詩無辺
嵯峨 信之
詩学社
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破棄された詩のための注釈(10)

2015-03-14 01:32:09 | 
破棄された詩のための注釈(10)

「カーテン」は光をさえぎるもの、光を弱めるものという定義は、詩では無効である。さえぎることによって逆に光の存在を強調する。風にあおられて揺らめくのは布か、光か。あるいは、その光がつくりだす胸の影か。あるいは、その影がつくりだす胸の形か。--それは「薄青い布のソファ」の上に半分かかっていた。「薄青い」という色のせいだろうか、「窓からヨットが入ってきて、部屋の中央で向きを変えた。」

その動きと、本のページが風にあおられ、物語は突然飛躍する。「鉛筆で描かれた裸婦の輪郭の周辺で、水彩絵の具は線をはみ出たり、そこに届かなかったりした。」その結果、白い空白が光よりも「純粋に」輝いた。指は「悲しみ」となって、やわらかなカーブを「去り」、「記憶だけが」絵筆の動きを真似る。
*

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