2 湖
喪失の詩。何を喪失したのか、明確には書かれていない。「湖」は喪失したものの「比喩/象徴」である。それは「遠くから」やってくる「波」とも、波が砂地に書き残す何かとも言いなおされている。残っている「条跡」はあくまで痕跡。「遠くから」「やってきて」「かく(印を残す)」。そういうものを「知る」ということ、「動詞」のあり方が「湖」かもしれない。未知のものが残す痕跡を感じる力がそれに向き合っている。やってくるものと、受け止めるものが「ぼく」のなかで、明確なことばにならないままひとつになって何かを「予感」する。その「予感」を喪失したと読むことができるかもしれない。青春だけが持っている「予感/予知」の力を……。
これは「予感/予知」の力を失ったけれど、まだそれを「覚えている」という感覚。「覚えている」から「知っている」、「消えた」ことを知っている。
「覚えている」は「耳の中がしきりに騒ぐ」と言い換えられている。「いつまでも目ざめない」とも言い換えられている。「耳(肉体)」のなかに「予感の音」がまざまざと残っている。「肉体」のなかに「夢(現実ではないものを見てしまう力/予知)」が残っている。
「残っている」「覚えている」「知っている」。けれど、それはかつてのようには自在に動かない。「湖」のようなはっきりとした「形(ことば)」となって詩人に働きかけてくることはない。
「青春」を喪失したのだ。
53 旅びと
「旅」も「旅びと」も、「喪失」してしまった「青春」の比喩である。といっても、この「青春の喪失」は青春だけが感じ取ることのできる「喪失」である。まだ「青春」なのに、「青春の喪失」を先取りして、詩人は、おとなになっていく。
「遠い橋」の「遠い」は、「湖」の「波が遠くからきて」の「遠く」と同じ。「ここ」ではない、「どこか」の象徴である。具体的な距離ではなく「ここではない」ということを指し示すことばである。
「旅びと」は「ひと」ではなく「青春」。青春が遠くを橋を、きっと吊り橋のように危険な橋をわたって、さらに「遠く」へゆく。「遠く」へ消える。「ここ」ではないところ、「ここか」からは到達できないところへ消えてしまう。しかし、それは「目的地」へたどりつくためではなく、ただ「ここ」から「遠く」へいくためにである。
「青春」とは「いま/ここ」から出て「遠く」へ行ってしまうこと。
それは「永劫(永遠)」に繰り返される「青春」という時間の運動である。だれの「心」のなかにもあらわれる動きである。「具体的な人間」ではなく、「人間の動き」をになっている「象徴」。
嵯峨のことばは「比喩」というより「象徴」と考えた方がいい。何かを言い換えたものではなく、「いま/ここ」にあることばでは指し示せないものを指し示すための「ことばの運動」ととらえた方が把握しやすいだろう。嵯峨は「ひと」や「もの」を描いているのではなく、「青春の心の動き」を書いているのだから。
ぼくは知つている
たしかにぼくの周りは昔ひろびろとした湖だつたのを
この乾いた白い砂地の上の条跡は
かつてゆるやかな波が遠くからきてかいていつた皺の跡だろう
喪失の詩。何を喪失したのか、明確には書かれていない。「湖」は喪失したものの「比喩/象徴」である。それは「遠くから」やってくる「波」とも、波が砂地に書き残す何かとも言いなおされている。残っている「条跡」はあくまで痕跡。「遠くから」「やってきて」「かく(印を残す)」。そういうものを「知る」ということ、「動詞」のあり方が「湖」かもしれない。未知のものが残す痕跡を感じる力がそれに向き合っている。やってくるものと、受け止めるものが「ぼく」のなかで、明確なことばにならないままひとつになって何かを「予感」する。その「予感」を喪失したと読むことができるかもしれない。青春だけが持っている「予感/予知」の力を……。
ぼくの耳の中がしきりに騒ぐのは
どこかに海の上を熱い風がわたつているからだろう
眠つているぼくがいつまでも目ざめないのは
空のひろさを考えているからだろう
これは「予感/予知」の力を失ったけれど、まだそれを「覚えている」という感覚。「覚えている」から「知っている」、「消えた」ことを知っている。
「覚えている」は「耳の中がしきりに騒ぐ」と言い換えられている。「いつまでも目ざめない」とも言い換えられている。「耳(肉体)」のなかに「予感の音」がまざまざと残っている。「肉体」のなかに「夢(現実ではないものを見てしまう力/予知)」が残っている。
「残っている」「覚えている」「知っている」。けれど、それはかつてのようには自在に動かない。「湖」のようなはっきりとした「形(ことば)」となって詩人に働きかけてくることはない。
「青春」を喪失したのだ。
53 旅びと
「旅」も「旅びと」も、「喪失」してしまった「青春」の比喩である。といっても、この「青春の喪失」は青春だけが感じ取ることのできる「喪失」である。まだ「青春」なのに、「青春の喪失」を先取りして、詩人は、おとなになっていく。
ぼくのなかに遠い橋が架かつている
いま橋の上をうつむいていそぐ旅びとがある
その無心にいそぐ旅びとの小さな姿が橋を渡り終つて消える
そしてまた永劫のあるときにふとたれかの心のなかに現われて同じ昔の旅をいそぐ
「遠い橋」の「遠い」は、「湖」の「波が遠くからきて」の「遠く」と同じ。「ここ」ではない、「どこか」の象徴である。具体的な距離ではなく「ここではない」ということを指し示すことばである。
「旅びと」は「ひと」ではなく「青春」。青春が遠くを橋を、きっと吊り橋のように危険な橋をわたって、さらに「遠く」へゆく。「遠く」へ消える。「ここ」ではないところ、「ここか」からは到達できないところへ消えてしまう。しかし、それは「目的地」へたどりつくためではなく、ただ「ここ」から「遠く」へいくためにである。
「青春」とは「いま/ここ」から出て「遠く」へ行ってしまうこと。
それは「永劫(永遠)」に繰り返される「青春」という時間の運動である。だれの「心」のなかにもあらわれる動きである。「具体的な人間」ではなく、「人間の動き」をになっている「象徴」。
嵯峨のことばは「比喩」というより「象徴」と考えた方がいい。何かを言い換えたものではなく、「いま/ここ」にあることばでは指し示せないものを指し示すための「ことばの運動」ととらえた方が把握しやすいだろう。嵯峨は「ひと」や「もの」を描いているのではなく、「青春の心の動き」を書いているのだから。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫) | |
嵯峨 信之 | |
思潮社 |