詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之を読む(28)

2015-03-01 19:40:02 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
2 湖

ぼくは知つている
たしかにぼくの周りは昔ひろびろとした湖だつたのを
この乾いた白い砂地の上の条跡は
かつてゆるやかな波が遠くからきてかいていつた皺の跡だろう

 喪失の詩。何を喪失したのか、明確には書かれていない。「湖」は喪失したものの「比喩/象徴」である。それは「遠くから」やってくる「波」とも、波が砂地に書き残す何かとも言いなおされている。残っている「条跡」はあくまで痕跡。「遠くから」「やってきて」「かく(印を残す)」。そういうものを「知る」ということ、「動詞」のあり方が「湖」かもしれない。未知のものが残す痕跡を感じる力がそれに向き合っている。やってくるものと、受け止めるものが「ぼく」のなかで、明確なことばにならないままひとつになって何かを「予感」する。その「予感」を喪失したと読むことができるかもしれない。青春だけが持っている「予感/予知」の力を……。

ぼくの耳の中がしきりに騒ぐのは
どこかに海の上を熱い風がわたつているからだろう
眠つているぼくがいつまでも目ざめないのは
空のひろさを考えているからだろう

 これは「予感/予知」の力を失ったけれど、まだそれを「覚えている」という感覚。「覚えている」から「知っている」、「消えた」ことを知っている。
 「覚えている」は「耳の中がしきりに騒ぐ」と言い換えられている。「いつまでも目ざめない」とも言い換えられている。「耳(肉体)」のなかに「予感の音」がまざまざと残っている。「肉体」のなかに「夢(現実ではないものを見てしまう力/予知)」が残っている。
 「残っている」「覚えている」「知っている」。けれど、それはかつてのようには自在に動かない。「湖」のようなはっきりとした「形(ことば)」となって詩人に働きかけてくることはない。
 「青春」を喪失したのだ。

53 旅びと

 「旅」も「旅びと」も、「喪失」してしまった「青春」の比喩である。といっても、この「青春の喪失」は青春だけが感じ取ることのできる「喪失」である。まだ「青春」なのに、「青春の喪失」を先取りして、詩人は、おとなになっていく。

ぼくのなかに遠い橋が架かつている
いま橋の上をうつむいていそぐ旅びとがある
その無心にいそぐ旅びとの小さな姿が橋を渡り終つて消える
そしてまた永劫のあるときにふとたれかの心のなかに現われて同じ昔の旅をいそぐ

 「遠い橋」の「遠い」は、「湖」の「波が遠くからきて」の「遠く」と同じ。「ここ」ではない、「どこか」の象徴である。具体的な距離ではなく「ここではない」ということを指し示すことばである。
 「旅びと」は「ひと」ではなく「青春」。青春が遠くを橋を、きっと吊り橋のように危険な橋をわたって、さらに「遠く」へゆく。「遠く」へ消える。「ここ」ではないところ、「ここか」からは到達できないところへ消えてしまう。しかし、それは「目的地」へたどりつくためではなく、ただ「ここ」から「遠く」へいくためにである。
 「青春」とは「いま/ここ」から出て「遠く」へ行ってしまうこと。
 それは「永劫(永遠)」に繰り返される「青春」という時間の運動である。だれの「心」のなかにもあらわれる動きである。「具体的な人間」ではなく、「人間の動き」をになっている「象徴」。
 嵯峨のことばは「比喩」というより「象徴」と考えた方がいい。何かを言い換えたものではなく、「いま/ここ」にあることばでは指し示せないものを指し示すための「ことばの運動」ととらえた方が把握しやすいだろう。嵯峨は「ひと」や「もの」を描いているのではなく、「青春の心の動き」を書いているのだから。

嵯峨信之詩集 (現代詩文庫)
嵯峨 信之
思潮社
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ジャン=リュック・ゴダール監督「さらば、愛の言葉よ」

2015-03-01 15:49:52 | 映画
監督 ジャン=リュック・ゴダール 出演 エロイーズ・ゴデ、カメル・アブデリ

 ゴダールの3D映画。私が見たのは2D版なので採点は保留。
 男と女が出会って、別れて(たぶん)、再び出会う。これをいつものように、脈絡のないことばの引用と映像を組み合わせて展開する。ただし、「脈絡がない」というのはそこに登場する人物の意識のなかに「脈絡がない」ということではなくて、見ている私が「脈絡がたどれない」というだけの話である。だれの「生活」でも他人にはわからない「脈絡」がある。ゴダールは「脈絡」を消すことで、そこに「人間」のストーリーとは無関係のリアリティーの美しさを結晶させる。それだけである。
 それだけである、と書いたが、「それだけ」を踏み外さないところがゴダールのおもしろさ。
 今回の映画で私が感心したのは水の描写。船が動く。波が起きる。その波と、海そのものの波が溶け合う。そのきめ細かな、まるで水のコーデュロイの揺らぎのようなシーン。あ、これを3Dで見たらどうなるのかな? 引き込まれて溺れるかもしれない。
 車のフロントガラスを叩く雨。ぬぐい取るワイパー。滲む夜の明かり。色が、色なのに立体的に流れる。その不思議さ。あるいは、ただ不鮮明なだけの、灰色の雨とフロントガラスの関係。内部と外部が、「立体」ゆえに「立体」そのものとして融合していく感じ。あ、これも3Dで見ないことには、おもしろさがわからない。
 そこにあることを整理するのではなく、逆に「整理以前」(物語以前)に引き戻していく。ストーリーを内部から解体して、ストーリーになる前の、もとともの(あるいは人と人、肉体と肉体の)出会いにまで引き戻して、その「整理されない形」(造形になる前の形)を、そのまま描く。2Dだと空間を2Dに整理してしまっている。遠近感は、たとえば透視図のような形で整理されてしまっている。これが3Dだと透視図に整理せずに、ゆらぎのままの形で表現できる。何かが突然前にあらわれたり、そのことによって奥行きができたり。言いなおすと、「図(平面)」ではなく「動き(立体)」がそのまま、「立体」としてあらわれてくる。
 この突然の変化(立体の出現)も、きっと「脈絡がない」というゴダールの映像の感じを強烈に印象づけるのに違いない。手前に飛び出してくる必要のないものが、ぐいと手前に出てきて驚かすはずだ。たとえばポスターで見かける柵の向うに女がいて、その柵の奥から男の手が伸びてきて鉄の棒をつかむ感じ。手の甲が柵の手前に出てくるだけなのだが、その「立体感(遠近感)」をあらわす必要のないところに(「立体感」を感じずに脳が処理している世界に)、「立体感」がぐいと顔を出す。その突然の強烈な印象、脳の記憶をひっくりかえすような感覚が、観客の肉体そのものを不安にするはずである。
 さらに言いなおすと……。映画のなかの「立体(感)」はゴダールの視点(カメラ)をとおって再現された人工の「立体」だから、きっと見ている私の「立体(空間)」感覚を激しく揺さぶり、一種の酔いのようなものを引き起こすに違いないと思う。「立体」が流動する感じになるに違いない。「流動」のなまなましさを体験することで、世界の見方も変わるかもしれない。
 この奇妙な「流動感覚」というのか、自分では見たことのない「立体空間」という印象をひきおこすためなのだと思うが、犬を登場させているのは、とてもおもしろい。犬がでてきて、人間の思いとは無関係に草を食べたり、水を見ているのを見ると、犬の意識のなかの「立体感」はきっと人間と違うぞ。どう見えているのかな、ということが気になる。犬の目つき、姿勢から、犬のなかで動いている「ことば」を読み取りたくなってしまう。その犬がひどく人間的な表情をみせ、動きもためらいをふくんだものなので、とても奇妙な感覚に揺さぶられるのである。
 そんな感じで、あ、このシーン、あ、これも……と思いながら、映画を見るのだが、2Dなので、どうしようもない。これはきっとこんな感じ、そのとき感じるのは、きっとこんな感じ、というのは私の勘違いかもしれない。しかしなあ……ストーリーよりも映像そのものを見せる映画なのに3Dを2Dにしてしまうのは、「暴力」だな。
 私は眼が悪くて(さらに網膜剥離の手術をした関係で、左右の視力が違いすぎているために)3D映画は苦手なのだが、この映画は3Dで見ないことには、映画を見たことにはならない、と思った。
                     (2015年03月01日、KBCシネマ1)





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高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(5)

2015-03-01 09:26:43 | 詩集
高橋睦郎『続続・高橋睦郎詩集』(5)(思潮社、2015年01月15日発行)

 「生」という章の最初の作品「雑草の研究」。

「雑草植物の世界では
つねに生存競争がおこなわれている
とくに自分の体から他の植物に
害を与える物質を出している
植物があるらしい」
謄写版刷りの藁半紙のレポートに
こう記した中学生のきみは まだ
植物の霊魂について何も知らなかった
植物の霊魂が霊体から出している
霊的物質について知らなかった

 ここには何が書いてあるのだろう。鍵括弧にくくられた「レポート」は事実なのか。ほんとうに、そう書いた「中学生のきみ」はいたのか。
 私は「いない(いなかった)」と思う。ここに書かれていることは、高橋がつくりだしたことば、ことばの運動である。「謄写版刷りの藁半紙」という、私の世代にはなつかしい「もの」さえ、実際にそのレポートが書かれていた証拠にはならない。わかるのは、「謄写版刷りの藁半紙」という「もの」を書くことで、高橋は、これがいまのことではないと言おうとしているということだけだ。いまではなく、過去。それは「知らなかった」と過去形の動詞によって強調されている。言いなおされている。
 そして、その「知らなかった(過去)」を反動(?)のように利用して「植物の霊魂」「霊体」「霊的物質」というものが指し示される。それはほんとうに存在するものかどうか、私は知らない。(私は、「霊魂」ということばがあることは知っているが、そのものが存在するとは考えたことがない。)
 この詩からわかることは、レポートを書いた「中学生のきみ」は「植物の霊魂」を知らなかった。つまり中学生にとっては植物霊魂は存在しなかった、ということだが、その中学生にとって存在しないはずのものを、高橋は存在していると言い換えてことばを動かしていく。存在しないものを、存在させるために、ことばを動かしていく。「存在する」ということを「指し示す」のである。「ある」とは言わずに「中学生」が「知らなかった」という否定形の形で、存在を「指し示す」。証明ではない。もちろん実証でもない。「中学生」が知らなかったということは、そのまま「霊魂が存在した」という証明にはならないはずなのに、「中学生」は知らないが、私(高橋)は知っているという具合の、指し示し方をする。ここからはもう「事実」であるかどうか、「霊魂」が「実体」であるかどうかは関係がない。「ことば」がそれを「実体」とした語るかどうか、「ことば」がそれを「実体」にするかどうかが問題である。つまり、そのあと、何を、どこまで「ことば」で指し示すことができる。
 高橋は「指し示す」という動きを繰り返す。

 「それは私ではない
 弟を殺したのは私の霊魂です
 だから 私をではなく私の霊魂を
 罰していただきたい 私には
 罪はないのです」
 と ある犯罪者は訴えている
 実像としての人間をすこしずれて
 人間の霊魂がある というのなら
 セイタカアワダチソウをすこしずれて
 セイタカアワダチソウの霊魂がある

 「植物の霊魂」の「存在」を、どう証明するか。
 高橋は、とても奇妙なことをしている。「植物」には直接触れない。「霊魂」ということばが、どんなふうにつかわれているか。それを「引用」する。他人のことばから「引用」する。高橋は語られた「ことば」、存在してしまった「ことば」を事実としているのか。すこし違う。かなり違う。
 犯罪者は「霊魂」を「自分の実像」とは別個の存在であると主張している。自分とは「ずれている」ものとして「霊魂」を指し示した。「ことば」によって、「ある」と言った。犯罪者の主張したことは別な言い方をすれば「二つの自己」の存在の主張。高橋はその「ふたつ」を「ずれ」としてつかみなおしている。
 その「ずれ」はことばによって存在するし、その存在した「ずれ」によって「事実」を別角度から「ずらして」見ることができる、「ずらして」指し示すことができる。その「ずらした」指し示し方のなかに、もうひとつの「事実」がある。「ずらさない」かぎり見えない事実がある。その「指し示し方」を借りて、高橋は急いたセイタカアワダチソウの「霊魂」があると言いなおす。犯罪者が言ったことばを「事実」として借りるのではなく、ことばの動かし方(技法)として借用し、そのことばの運動を借りて、別の「事実」をつくりだしていく。
 犯罪者の「霊魂」ということばのつかい方、その「指し示し方」を利用して、高橋はセイタカアワダチソウに霊魂があると主張する。このことばの運動は危うい。犯罪者の「指し示し方」に間違いがあれば、そこで語られることは「無効」であるはずだからだ。しかし、高橋はそういうことは問題にしない。「指し示す」という「動詞」があるかぎり、その「動詞(運動)」を人間は反復できるからである。「動詞」を反復する、実行する--そうするとそこに「肉体」が動いたという事実が生まれ、「ずれ」という事実が生まれ、それが「霊魂がある」という「仮定(?)」を「事実」にしてしまう。「客観的な事実」ではなく、そう主張するひとの「主観的事実」になる。「ずれ」が見える人の「事実」になる。ことばにする、声に出すということで、それは「肉体的事実」にもなる。そして、そのことば(声)は、そのまま「ことばの肉体」となって、さらに動いていく。ことばが独自に「論理」の可能性を指し示す。

 セイタカアワダチソウの霊魂の行為は
 しかし セイタカアワダチソウ自身に
 たしかな影響を与えずにはおかない
 弟を殺した犯罪者の霊魂の行為は
 犯罪者自身を絞首台に立たしめる

 セイダカアワダチソウの霊魂の行為、影響は、ここではまだ書かれていないが、行為が影響を与えるということはすべての存在に当てはまると仮定できる。動詞(行為)はかならずその「肉体」に影響する。弟を殺したのが「霊魂」だとしても、「霊魂」には「肉体」がないので、それは現実の「肉体」に跳ね返ってくる。そういう論理(行動の基準/指し示し方)が現実にあるのだから。植物と霊魂の関係も同じはずだと、ことばの肉体は動いていく。
 犯罪者の「霊魂」が犯罪者を絞首台に立たせたように(死に至らしめたように)、セイタカアワダチソウの「霊魂」がセイタカアワダチソウを死に至らしめる。「絞首台に立たしめる」という比喩のなかへセイタカアワダチソウを追い込む。その比喩でとらえ直す。
 三連目で高橋は言いなおしている。

セイタカアワダチソウの霊魂をずれて
揺れているセイタカアワダチソウの群落を
押し分け 人間の世界に出て行ったきみには
すこしずれて 揺れている霊魂があったはずだ
同じレポートにつぎのように記したのは
きみか それともきみの霊魂だったか
「去年セイタカアワダチソウの
目立っていたところは 今年
ずっと数が減っている 他の植物に
害を与える物質は 同時に自分を
滅ぼしていくのかもしれない」

 セイタカアワダチソウはいったんはびこったあと、その場を別の植物に譲っていく。土壌の痩せた土地に群生し、土地を肥やして別の場所へ動いていく、と言われるが、これを犯罪者の霊魂、自滅という動きに重ね合わせるという指し示し方で描いている。
 これはもちろん高橋のことばの運動であって、中学生のことばの運動(ことばの肉体)ではない。高橋は、それを中学生のことばを借りて書いている。途中に犯罪者のことばを借りたように、最後も、他人のことばを借りて、それを高橋のことばと見分けのつかないものにしている。
 高橋は「同じレポートにつぎのように記したのは/きみか それともきみの霊魂だったか」と書いているが、それを書いたのは高橋の「霊魂」、あるいは「ことばの肉体の運動」だったかもしれない。
 「いま/ここ」に一篇のレポートがあるとして、その「事実」(客観的現象)とは別に「レポートの霊魂」というものもあるかもしれない。あるいは、それを読む高橋とは別に「高橋の霊魂」というものがあるかもしれない。一篇のレポートを読むとき、何が動くのか。「レポートの霊魂」に刺戟されて「高橋の霊魂」が動くとき、それは「一致」するのか、「ずれ」るのか。「ずれ」ることで「一致」してしまうのか。わからないが、そういうことが錯綜しながら、「いま/ここ」にないものを、「ことば」が「いま/ここ」に出現させる。「ことば」といっしょに「いま/ここ」にないものが、あらわれてくる。
 そういう「指し示し」のことばの動きがある。

 書いていることが、だんだん重複し、往復し、整理するのがめんどうになる。端折って書く。
 高橋の詩は、「いま/ここ」にある「実体」を描いているわけではない。その存在が「いま/ここ」にあらわれてくるときの動き方(認識のされ方/無の状態からことばによって結晶してくるときの動き方/ことばの指し示し方)をつかみとり、その指し示し方を拡大する。指し示すのことばの運動の可能性、ことばの射程を、「ことばの肉体」として実践している。
 「実体」ではなく、「ことばの動き方」に出会う--それが高橋の詩である。


続続・高橋睦郎詩集 (現代詩文庫)
高橋 睦郎
思潮社
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顔のなかに、

2015-03-01 01:12:37 | 
顔のなかに、

「顔のなかに」ということばが、開いた扉の隙間のように目を引きつけた。そのことばの奥には「別の顔の記憶が住み着いていた」ということばがあった。「電話がかかってきたとき、動いた」という短い情景の挿入の後、顔は「小さな部屋」という比喩になった。

「再びあの眼が」ということばが、そこには書かれていない「違う理由によって」おしのけられた。あるいは、「壁にかかった四角い鏡」のなかにしまい込まれた。それは鏡のなかに半分入り込んだ「ノートに書かれる」ことを欲したのかもしれないが、このとき「ノート」は比喩ではない。

「たいていのことは、そのように進んだ」
「たいていのことは、そのように済んだ」
並列して書かれたこのことばは、どちら側から見たのだろうか。



*

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