詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

坂多瑩子「仲良しこよし」

2015-03-06 11:13:24 | 詩(雑誌・同人誌)
坂多瑩子「仲良しこよし」(「4B」9、2015年03月10日発行)

 幼友達(たぶん)というのは不思議だ。仲がいいのか、悪いのか。仲が悪いと平気で言えることが幼友達の特権かもしれない。

さちこが
近くにひっこしてきたという
薄幸な人生だったと
はげかけた口紅みたいな字をよこしてきた

 「さちこ」は「幸子」と書くのかもしれない。「幸子」なのに「薄幸」。ありふれた言い回しだが、ありふれているからいい。ありふれているから、

はげかけた口紅みたいな字をよこしてきた

 この行がいきいきとしてくる。でも「はげかけた口紅みたいな字」って、どんな字? 字を思う前に、「はげかけた口紅」の女を思う。だらしない。いや、違うなあ。ずぶとい、だな。他人の視線を気にしているように(口紅を塗るのだから)、気にしていない(口紅がはげかけても気づかないのだから)。そうじゃない、他人を見下している。どうせ、友達と会う。口紅なんてはげていたって関係ない。あいつの醜いところなんか山ほど知っている。言われたら、言い返してやる。とは書いていないのだけれど、そんなことを言っているような顔が思い浮かぶ。いやな奴だ。
 だから、

あたしは苦労話なんかきらいだね
というと
あんたの長い髪に長い睫毛が
うすくなっていく
消えちまえ

 他人の不幸は蜜の味がするというけれど、「苦労話なんかきらい」。まあ、似ているからね。だれだって何十年も生きてくれば苦労が似てしまう。聞きながら自分の苦労を思い出したくない。そう言ってやる。そうすると、「あんた(さちこ)」の顔が消えていく。長い髪、長い睫毛をくっきりと思い出したけれど、遠ざかっていく。
 会わなくてすみそうだ。たとえ会ったとしも、苦労話(薄幸な話)につきあわなくてよさそうだ、と思うのだが。

すると
あたしの似合わない
真っ赤な口紅つけて
どうかしら なんていう
から夢ならどうぞ神様ほとけさま

 苦労話はなしという約束をしたのに会ってみれば、「さちこ」は、手紙の字ははげかけた口紅みたいだったのに、現実には真っ赤な口紅をべっとりつけてきて「どうかしら、似合う?」。困ったねえ。これでは「身の上話」をもう聞きはじめている感じ。「感想」を言えば、きっと次々に反論(?)、自己弁護(説明?)があふれてくるにきまっている。たしかに「夢ならさめて」と神様にもほとけさまにも祈りたい。
 まあ、この行は「やめてよ」くらいの弾みのことばなんだろうけれど、「口語のリズム」がいいなあ。格式張らない。幼友達だから。全部言わない。幼友達だから。言わなくても、わかる。次にどう言ってくるかも、だいたいわかる。そういう「やりとり」の感じがいいなあ。「神様ほとけさま」というはぐらかし方がいいなあ。さちこのことなんか、神様ともほとけさまとも思っていないのに……。

子どものころからそうだった
あんたは
あたしのないもの持っていたのに
まあいいさ
お茶はやめて
せんたくものでも干そう

 さちこには会った。話も聞いた。もうさちこのことは忘れて、いつものように仕事をしよう、ということか。しかし、

せんたくものを干していたら
長い睫毛のカラス
たてつけの悪い扉は早く直しなさい
だって
いやなさちこ

 ひとこと多いのだ、さちこは。そしてそのひとことは正しいのだ。言われる通りなのだ。言われたらいやなことを、ずけずけと平気で言ってくる。幼友達だから。仲良しだから。「いやな、さちこ」。そうだろうなあ。
 でも、いいもんだね。「いやなさちさ」と言えるというのは。「口語」で(言ったら、言ったきり、消えてしまうことばで)、何でも言ってしまう。言ってしまった後に、何もない「肉体」が残る。はげかけた口紅をはげかけたままにしておく「肉体」が残る。無防備な「肉体」がのこる。その、温かな、抱擁。


ジャム 煮えよ
坂多 瑩子
港の人

*

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嵯峨信之を読む(33)

2015-03-06 10:01:14 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
62 早春

 嵯峨は宮崎県出身。雪解けの春の川を知っているかどうかわからないが、この詩を読むと、雪国生まれの私は雪国の早春を思い出す。雪解けの水があふれる川。

あるおもいがことごとく崩れさろうとも
やがて濁り水が澄みはじめるのをじつと待つていよう

 雪が解ける。川べりから雪の塊も崩れ落ちる。その姿が「おもいがことごとく崩れ」るという感じと似ている。嵯峨が何を書こうとしたのかわからないが、私は私がおぼえていることを思い出し、嵯峨のことばに重ねてしまう。水かさが増え、水の勢いが川岸をえぐる。茶色く濁る。それもやがて澄み渡る。春になる。--この感じが、書き出しの二行にあふれている。

ひややかな早春の水面に帽子のかげが生きもののように映るとき
その尊さを雲雀に告げよう

 「帽子のかげが生きもののように映る」というのは実際の風景だろう。「帽子」は学生帽かもしれない。ここに登場する「ぼく」は学生で、その姿を川に映している。早春だから「卒業生」かもしれない。「卒業」して故郷を離れていく。そのときの「決意」が光っている。「尊さ」ということばのなかに、若い誇りのようなものがある。

63 桔梗の花

わたしが夢のなかで折つた花を見せましよう
うすい水いろの桔梗の花を
小さな発電所の横で手折つてきたときのように
いまもふるえているうすい水いろの花
それをあなたの心の一輪ざしに挿しましよう
すると未知の世界がそつとあなたのものとなるでしよう

 実際に「わたし」が「あなた」に桔梗の花を贈ったのかどうかわからないが、そうだと仮定すると、ことばが整理されすぎていて、なんだか嘘っぽい。軽い。ことばでつくりあげた、詩(夢)の世界という印象がする。
 この詩が書かれた時代と、いまの時代の差かもしれないが。いまは、だれもこんなふうには書かないだろうなあ、と思う。
 この詩で私がおもしろいと感じるのは三行目。「発電所」ということば。その存在の登場のさせ方。実際に嵯峨の知っている発電所の近くに桔梗が咲いていたのかもしれない。そうかもしれないが、この「発電所」だけがことばとして異質である。「うす水いろの花」「心の一輪ざし」「未知の世界」ということばは抽象的なので「桔梗の花」そのものも抽象的に見える。象徴のように感じられるのに、「発電所」だけが具体的な「不透明感」がある。それが「手折る」という動詞、「肉体」の動きとしっかり結びついている。
 この不透明感。ふと、「外国語」の文学にあらわれる「もの」の存在感に似ているなあ、と思う。
 心象を書こうとすると日本語の動きは、この嵯峨の詩のように「夢」からはじまり、「うす水いろの花」のように抽象的になってしまうことが多いが、外国の文学ではそういうことばは少なく、「発電所」のように、いきなり「もの」が出てくる。「もの」の組み合わせが「登場人物」の「暮らし」として出てくる。「もの」が「肉体」のように迫ってくる。
 「心の一輪ざし」という表現が象徴的である。「心の」ということばが「一輪挿し」を「もの」ではなく心象にしてしまう。「心」が「もの」を統一してしまう。「もの」の存在感を「うす水いろ」の「うすい」のように薄めてしまう。もの(存在)そのものの「自己主張」を稀薄にさせて、世界を調和させている感じだ。外国語の文学の場合、「うすめる」ことで「もの(存在)」の「共通項」をつなぎあわせるのではなく、濃密なまま、不透明なまま、どこかに「共通項」があると感じさせる。
 嵯峨の詩の感想から離れてしまったが、そんなことを思った。
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書かれなかった詩のための注釈(3)

2015-03-06 01:38:51 | 
書かれなかった詩のための注釈(3)

「両の目を閉じて」。一般的には左右の目、両方の目を想像するかもしれないが、そうではない。「主語」は誰なのか、ということから詩を読み直さないといけない。次の行の「女のわきのにおいをかぐ」ということばから、詩人(男)が目を閉ざすと考えがちだが、そうではない。二人とも目を閉ざす。「両」は「両人」を省略したものである。

「両の目を閉じて」。何のために閉ざすのか。手淫するときの記憶のためである。セックスはほんらい嗅覚(におい)と聴覚(声を聞く)によって世界を広げる。見ることは快楽を疎外する。何も見えなくなって、自分自身の快楽におぼれる。そのとき「目は閉じられている」。ひとりでも目をあけて相手を見ていたら、その恍惚にあきれかえり、笑い出してしまうに違いない--と詩人は、視覚にこだわる有名な詩人を批判している。

「両の目を閉じて」。これは、女への「命令」でもある。命じられなくても、女は目をとじているが、それはいまおこなわれていることが愛でもセックスでもないからだ。恋愛とは「道理のない熱情」のことだが、そんなものはどこにもない。それを「見ない」ために、女は目を閉じる。そして、男の未熟な愛撫を受け入れる。それから演技をする。

「熱くさい」。この詩のなかで唯一書かれた「真実」のことばだ。「熱」は夕暮れの余韻を伝えている。触覚が動いている。しかも、直接触れない触覚。一種の矛盾。そこから「くさい」という嗅覚に飛躍する。感覚が、それまでの行動様式を否定して動く。一つの感覚は破壊され、新しい感覚になる。「くさい」は「におい」よりも暴力的である。暴力の愉悦、破壊の愉悦がある。「目を閉じた」のは「感覚を識別する意識」である。

未完の最終行の「幻」。十九世紀なら、有効だったかもしれないが、現代では無効である。「両の目を閉じて」幻を見るというのは、この詩人の限界である。「海辺」だの「まばゆい光の影」だのということばは、現代の読者を鼻じらませる。鼻の奥をつく「くささ」、その腐敗のなかへ感覚すべてがなだれこまないと、詩はそれこそ哀しい手淫という堕落になってしまう。




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