豊原清明「シナリオ『ある日』」ほか(「映画布団」4、2015年03月)
豊原清明「シナリオ『ある日』」はとても短いシナリオ。
男の日常、ある日の断片が描かれている。男は文庫本を読んでいるのだから、女子高校生がどう考えているか、何を感じているか、知らない。けれど、観客(読者)は彼女が感じていることを知っている。(男が「友桃成夫」という名前、29歳という年齢を持っているのは、男が抽象的存在ではなく具体的な人間だからであるけれど、少し、そのこととは違うことを書きたいので、「男」として感想をつづける。)
こういう情景は地下鉄や電車のなかでときどき目にすることかもしれない。目にして、ここに書いてあるようなことをぼんやりと思ったりする。けれど、それを「ことば」にはしない。ことばにしないまま、忘れてしまう。忘れてしまうけれど、ことばを読むと「おぼえている」ことが甦る。
豊原は、こういう「現実」の切り取り方がとてもうまい。
対象を「肉体」のまま、そこに切り取って、本の少しだけ気持ちを動かしてみせる。それはほんとうに小さな動きなのだが、はっきりしている。たぶん、日常のなかでは小さすぎて忘れてしまうのだが、それは小さかったり、忘れられたからといってなくなるものではない。
最初の「シャツを干している」は日常の繰り返し。そういうものの中に消えてしまうように見えるが、どこかでつながっている。シャツを洗って干して着る。そこには、「他人の視線」に鍛えられた美しさがある。
男が文庫を読む。その視線。その男を見ている女子高校生の視線。それから、電車から降りる脚をみている視線。最後の視線はだれのものか、わからない。男がシャツを干しているのを見た視線。男が文庫本を読み、その隣で女子高校生が男の考えを想像しているのを見た視線のなかへ統合されていって、世界になる。
このリズムが、とても気持ちがいい。断絶と接続のリズムが、意識にならない「肉体」の存在、「肉体」のなかの「意識できない意識」の存在を、不思議な実感として感じさせる。
もう一篇は「誌上・自主製作映画」という標題がついている『人の領地に入らぬように真四角に真面目に歩く作業員たち』という長いタイトルのシナリオ。映像の一部が写真の形で掲載されている。(だから「誌上・自主製作映画」というのだろう。)
「か細い声」が「叫び声」に、そして「朗読」に変わる。(途中に、「対話」があるのだが、省略)。その「声」は「肉体」のようにつながっている。切ろうにも切れない。そこに、不思議な「切なさ」がある。映像は断絶し、ことばの「意味」も断絶しているはずなのに、接続したもの(連続したもの)と感じてしまう。
冒頭に「三角」が出てきて、最後に「四角」が出てくるからだろうか。最後の「四角に真面目に」には、隠れた「三角」があるからだろうか。四角い空き地。対角線を渡れば(斜めに歩けば)、そこに幻の「三角形」ができる。その三角形を、ぼんやりと感じながら、「他人の土地だから入ってはいけない」そう自分に言い聞かせながら歩いている。その書かれていないことばを感じてしまう。
最初の「天井」が「電球」につながっている。天井から吊り下げられた電球なのだ吸う。天井から少し手前を見ていることになる。少し手前を見ながら、ことばが動いている。そのときの視線の変化も妙に生々しい。
豊原のことばのなかには、いつも「肉体」がある、と感じる。
豊原清明「シナリオ『ある日』」はとても短いシナリオ。
人 物
友桃成夫(29)
女子高生
○ 友桃成夫がシャツを干している
○ 西神中央行・地下鉄・(夕)
成夫が満足げな表情で、文庫本を読んでいる。
座っている、女子高校生が何の本を読んでるのかな?とぼうっと見ている。
○ 電車から降りる脚の群れ群れ。 -完-
男の日常、ある日の断片が描かれている。男は文庫本を読んでいるのだから、女子高校生がどう考えているか、何を感じているか、知らない。けれど、観客(読者)は彼女が感じていることを知っている。(男が「友桃成夫」という名前、29歳という年齢を持っているのは、男が抽象的存在ではなく具体的な人間だからであるけれど、少し、そのこととは違うことを書きたいので、「男」として感想をつづける。)
こういう情景は地下鉄や電車のなかでときどき目にすることかもしれない。目にして、ここに書いてあるようなことをぼんやりと思ったりする。けれど、それを「ことば」にはしない。ことばにしないまま、忘れてしまう。忘れてしまうけれど、ことばを読むと「おぼえている」ことが甦る。
豊原は、こういう「現実」の切り取り方がとてもうまい。
対象を「肉体」のまま、そこに切り取って、本の少しだけ気持ちを動かしてみせる。それはほんとうに小さな動きなのだが、はっきりしている。たぶん、日常のなかでは小さすぎて忘れてしまうのだが、それは小さかったり、忘れられたからといってなくなるものではない。
最初の「シャツを干している」は日常の繰り返し。そういうものの中に消えてしまうように見えるが、どこかでつながっている。シャツを洗って干して着る。そこには、「他人の視線」に鍛えられた美しさがある。
男が文庫を読む。その視線。その男を見ている女子高校生の視線。それから、電車から降りる脚をみている視線。最後の視線はだれのものか、わからない。男がシャツを干しているのを見た視線。男が文庫本を読み、その隣で女子高校生が男の考えを想像しているのを見た視線のなかへ統合されていって、世界になる。
このリズムが、とても気持ちがいい。断絶と接続のリズムが、意識にならない「肉体」の存在、「肉体」のなかの「意識できない意識」の存在を、不思議な実感として感じさせる。
もう一篇は「誌上・自主製作映画」という標題がついている『人の領地に入らぬように真四角に真面目に歩く作業員たち』という長いタイトルのシナリオ。映像の一部が写真の形で掲載されている。(だから「誌上・自主製作映画」というのだろう。)
○ ティッシュペーパーに包まれた、父母の写真
か細い声「三角 何時も 三角が 天井に貼りついている」
というのはタイトルの次の、突然のシーンである。「三角……」については、だれの声とも書いていないが主人公(僕)の声だろう。天井の隅を見ると三角形の角が見える。四角かもしれないが、一つの角しか見ていないので、三角形と感じたのだ。--というのは、私のかってな解釈(誤読)だが、豊原のことばを読むと、「肉体」のなかに眠っている感覚、おぼえているけれど自分ではことばにできない(しなかった)ことがふっと見えてきて、それに刺戟される。写真を包むティッシュペーパーの折り目が「三角」になっているのかもしれないとも思う。
最後の方もおもしろい。
○ 公園
叫び声「疲れた! 死にたくない! 疲れたー!」
○ 電球ライト
朗読「人の領地に入らぬように真四角に真面目に歩く作業員たち」
○ 石に描いた作業所の皆の絵。
「か細い声」が「叫び声」に、そして「朗読」に変わる。(途中に、「対話」があるのだが、省略)。その「声」は「肉体」のようにつながっている。切ろうにも切れない。そこに、不思議な「切なさ」がある。映像は断絶し、ことばの「意味」も断絶しているはずなのに、接続したもの(連続したもの)と感じてしまう。
冒頭に「三角」が出てきて、最後に「四角」が出てくるからだろうか。最後の「四角に真面目に」には、隠れた「三角」があるからだろうか。四角い空き地。対角線を渡れば(斜めに歩けば)、そこに幻の「三角形」ができる。その三角形を、ぼんやりと感じながら、「他人の土地だから入ってはいけない」そう自分に言い聞かせながら歩いている。その書かれていないことばを感じてしまう。
最初の「天井」が「電球」につながっている。天井から吊り下げられた電球なのだ吸う。天井から少し手前を見ていることになる。少し手前を見ながら、ことばが動いている。そのときの視線の変化も妙に生々しい。
豊原のことばのなかには、いつも「肉体」がある、と感じる。
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