詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

豊原清明「シナリオ『ある日』」ほか

2015-03-05 10:53:32 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「シナリオ『ある日』」ほか(「映画布団」4、2015年03月)

 豊原清明「シナリオ『ある日』」はとても短いシナリオ。

  人 物
友桃成夫(29)
女子高生

○ 友桃成夫がシャツを干している

○ 西神中央行・地下鉄・(夕)
  成夫が満足げな表情で、文庫本を読んでいる。
  座っている、女子高校生が何の本を読んでるのかな?とぼうっと見ている。

○ 電車から降りる脚の群れ群れ。       -完-

 男の日常、ある日の断片が描かれている。男は文庫本を読んでいるのだから、女子高校生がどう考えているか、何を感じているか、知らない。けれど、観客(読者)は彼女が感じていることを知っている。(男が「友桃成夫」という名前、29歳という年齢を持っているのは、男が抽象的存在ではなく具体的な人間だからであるけれど、少し、そのこととは違うことを書きたいので、「男」として感想をつづける。)
 こういう情景は地下鉄や電車のなかでときどき目にすることかもしれない。目にして、ここに書いてあるようなことをぼんやりと思ったりする。けれど、それを「ことば」にはしない。ことばにしないまま、忘れてしまう。忘れてしまうけれど、ことばを読むと「おぼえている」ことが甦る。
 豊原は、こういう「現実」の切り取り方がとてもうまい。
 対象を「肉体」のまま、そこに切り取って、本の少しだけ気持ちを動かしてみせる。それはほんとうに小さな動きなのだが、はっきりしている。たぶん、日常のなかでは小さすぎて忘れてしまうのだが、それは小さかったり、忘れられたからといってなくなるものではない。
 最初の「シャツを干している」は日常の繰り返し。そういうものの中に消えてしまうように見えるが、どこかでつながっている。シャツを洗って干して着る。そこには、「他人の視線」に鍛えられた美しさがある。
 男が文庫を読む。その視線。その男を見ている女子高校生の視線。それから、電車から降りる脚をみている視線。最後の視線はだれのものか、わからない。男がシャツを干しているのを見た視線。男が文庫本を読み、その隣で女子高校生が男の考えを想像しているのを見た視線のなかへ統合されていって、世界になる。
 このリズムが、とても気持ちがいい。断絶と接続のリズムが、意識にならない「肉体」の存在、「肉体」のなかの「意識できない意識」の存在を、不思議な実感として感じさせる。

 もう一篇は「誌上・自主製作映画」という標題がついている『人の領地に入らぬように真四角に真面目に歩く作業員たち』という長いタイトルのシナリオ。映像の一部が写真の形で掲載されている。(だから「誌上・自主製作映画」というのだろう。)

○ ティッシュペーパーに包まれた、父母の写真
か細い声「三角 何時も 三角が 天井に貼りついている」

というのはタイトルの次の、突然のシーンである。「三角……」については、だれの声とも書いていないが主人公(僕)の声だろう。天井の隅を見ると三角形の角が見える。四角かもしれないが、一つの角しか見ていないので、三角形と感じたのだ。--というのは、私のかってな解釈(誤読)だが、豊原のことばを読むと、「肉体」のなかに眠っている感覚、おぼえているけれど自分ではことばにできない(しなかった)ことがふっと見えてきて、それに刺戟される。写真を包むティッシュペーパーの折り目が「三角」になっているのかもしれないとも思う。
 最後の方もおもしろい。

○ 公園
叫び声「疲れた! 死にたくない! 疲れたー!」

○ 電球ライト
朗読「人の領地に入らぬように真四角に真面目に歩く作業員たち」

○ 石に描いた作業所の皆の絵。

 「か細い声」が「叫び声」に、そして「朗読」に変わる。(途中に、「対話」があるのだが、省略)。その「声」は「肉体」のようにつながっている。切ろうにも切れない。そこに、不思議な「切なさ」がある。映像は断絶し、ことばの「意味」も断絶しているはずなのに、接続したもの(連続したもの)と感じてしまう。
 冒頭に「三角」が出てきて、最後に「四角」が出てくるからだろうか。最後の「四角に真面目に」には、隠れた「三角」があるからだろうか。四角い空き地。対角線を渡れば(斜めに歩けば)、そこに幻の「三角形」ができる。その三角形を、ぼんやりと感じながら、「他人の土地だから入ってはいけない」そう自分に言い聞かせながら歩いている。その書かれていないことばを感じてしまう。
 最初の「天井」が「電球」につながっている。天井から吊り下げられた電球なのだ吸う。天井から少し手前を見ていることになる。少し手前を見ながら、ことばが動いている。そのときの視線の変化も妙に生々しい。
 豊原のことばのなかには、いつも「肉体」がある、と感じる。

夜の人工の木
豊原 清明
青土社
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嵯峨信之を読む(32)

2015-03-05 09:45:18 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
60 時という靴

 イメージが大きな詩である。

わたしはふと地球の孤独と対いあつた
はてしれぬ宇宙を旅している地球が
しずかに傾きつつわたしの傍を通りすぎる

 「対いあつた」にはルビがないので正確な読み方がわからないが、私は「むかいあった(向かい合った)」と読んだ。向かい合うことが「対」になること。対話し、対等になること。「私」は地球になって宇宙を旅している。宇宙を旅する地球が私である。私は宇宙を旅している。「わたしの傍らを通りすぎる」というのは、そういう「イメージ」が通りすぎるということだろう。

鯨が一頭
海水を噴きあげながら悠悠と暗い海に呑みこまれた

 大きな詩にふさわしい、大きなイメージだ。このとき嵯峨は鯨と「対」になって、つまり鯨になって海を悠然と泳いでいる。
 こういう大きな世界を描いた後、「*」を挟んで、詩の後半。「きみはいま靴を脱いだのだ」という行ではじまるのだが、そのなかほど過ぎ、

ある大きな存在が
きみという靴を穿いて
この宇宙を通過したのではないのか
ぼくはその遠ざかる大きな存在に触れて
反対にきみのなかへ小さく帰つていく

 「きみ」とは「時」のことである。「きみという靴」の「きみ」を「時」と言い換えると、タイトルになるのだから。そして、「大きな存在」とは「地球」のことだろう。「宇宙通過した」のは前半の連では「地球」だったのだから。タイトルにしたがえば、「地球」が「時」という靴を穿いて宇宙を通りすぎた。そのイメージに触れて、「ぼく」は「時」のなかへ帰っていく。「時」について考え、詩を書く。「わたし」は後半では「ぼく」と言いなおされている。「小さく」帰っていくの「小さく」は「大きな存在」の「大きな」と「対」になっている。「向き合っている」。向き合う、対になるは「対等」になる、「一つ」になるということでもあった。
 「ぼく」は「時」でもある。
 この詩では「わたし」「地球」「時」「きみ」「ぼく」が交錯しながら「対」になりり「一つ」になって、「宇宙」をわたっている。そういうスケールの大きいイメージがある。人間は時という宇宙を横切っていく存在だ。

そしてきみの擦り減らした古靴の片つ方が
そこに侘しく残つているのをみた

 という終わり方は、センチメンタル(抒情的)な感じがするが、こういう抒情で終わるのが嵯峨の個性なのだと思う。

61 睡眠

 この詩にも「時」が出てくる。

眠りは
絹の下をすべる裸のように滑らかで
魂の糸車からゆるやかに繰りだされる
この「時の叔母」の純粋な手に運ばれてきたものは
いつも遠くで熟れている

 「時」は「どこにでもある」という意味では身近なものだが、それが「遠く」ということばと向き合っている。そして、この「遠く」は「宇宙」を感じさせる。「宇宙」のどこかで、「時」は熟れている。
 この「熟れる」は「豊かになる」ということだと思う。だからこそ、次の行で、

重たくたれさがる稲の穂を浸しながら

 と実った「稲の穂」と言いなおされる。
 こういうイメージは「論理的」ではないが、直感的な美しさが、「論理」を超えて「正しい(真理)」となっている。
 また「絹の下をすべる裸のように滑らか」ということばもおもしろい。滑らかなのは絹なのか、裸なのか。二つが融合し「一つ」になる--それが比喩。


OB抒情歌
嵯峨 信之
詩学社
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詩の注釈(2)

2015-03-05 01:15:30 | 
詩の注釈(2)

 「花嫁」は「時」の比喩である。「時の眼差しは花嫁のように熟れている」というドイツの詩人の詩を読んだときひらめいたのだと詩人は語ってくれた。噴水の飛沫が早春の光をはじき返しているのが、コーヒー店の中から見えた。詩人は熟れた女のからだのなかで、新しいいのちが結晶したことを知った喜びとともに、幸福な詩を夢見たのである。
 街を歩くと、「花嫁」といっしょに見たすべてのものが「生成し、完成してきている」と感じた、と詩人は彼にインスピレーションを与えた詩から一行をまるごと引用して語った。「花嫁の眼が、まだ生まれていなかったものさえ、街のあちこちに生み出していくようだ」と、こなれないことばで口早に語ったりもした。「これから萌え出す並木の若葉と競争になるなあ。」
 なるほど、幸せというものはこんなふうにひとを無防備にするものらしい。そのまま書けば目敏い読者から「盗作」だと批判されるだけなのだが、詩人は、自分の感覚と他人の感覚の区別がつかなくなっている。他人の感覚で自分のことばが動くことに喜びさえ感じている。私が指摘すれば「そうさ、おれはいま花嫁なのだ」と的外れな応答をするに違いない。
 「おれは花嫁なのだ」という行は書かれなかったが、書かれるべきだったのだろう。そのとき私には、詩人が花嫁を妊娠させたというよりも、花嫁から生まれてきたばかりのいのちに見えた。だが詩人は自分を認識するよりも、炎のように燃えあがる世界をとらえ直すのに忙しくて、大通りの舗道も裏通りの細い道も、信号を無視して逃げる車よりも速く百行も疾走するのだった。自覚の欠如が、この詩人の欠点だと、再度指摘しておきたい。

*

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