渡辺めぐみ「無季」(「ぶーわー」34、2015年03月10日発行)
渡辺めぐみ「無季」に「ひと」と「あのひと」ということばが出てくる。
「ひと」は一般的な、不特定多数。「あのひと」は特別な個人。「ひとり」しかいない。詩の前半は「あのひと」を媒介にして「ひと」を見たり、逆に「あのひと」を盾にして「ひと」を見ないようにしている。
あのひと」の「顔」を見ると、「あのひと」が見ているものが見える。「あのひと」は火事を見ているので、「あのひと」の顔を見ると、怖い火事が見える。けれど、「あのひとのコートの袖口を眺めて」いると、「あのひと」の見ているものが見えない。火事を見なくてすむ。「あのひと」の「灰色のコートの背中に隠れ」る。
でも、ほんとうにそんな具合にうまくゆくのだろうか。「あのひと」の「コートの背中に隠れ」、「あのひとのコートの袖口を眺め」る。それは最初はコートの背中、コートの袖口であっても、だんだん「あのひと」になってしまうのではないのか。
一回目の「あのひと」はないと意味がわからないが、二回目の「あのひと」はなくても意味がわかる。繰り返される「コート」ということばのなかに「あなた」はすでに含まれている。ことばの「不経済」を承知で、「あのひと」をくりかえしている。「コートの背中」「コートの袖口」は「顔」以上に「あのひと」になっている。具体的な細部(背中、袖口)は消え、「あのひと」に統合され、「あのひと」だけが残る。
この「あのひと」はもう一回出てくる。
「脳裏の闇」というものは、簡単に「見る」ことはできない。見えない。見えるは、渡辺が渡辺ではなく「あのひと」になってしまっているからだ。「あのひと」の「もの」を通して「あのひと」になってしまった。渡辺も「あの日と」に倒語されたのだ。このときから渡辺は「あのひと」でもある。
だから、「あのひと」は、このあと消えてしまう。詩の中に書かれない。
この二行を挟んで、
今度は「ひと」が繰り返される。この変化の起点に「記憶」ということばがあることを思うと「記憶の生」という行より前とあとでは状況が違っているのだとわかる。「あのひと」は「記憶」になってしまった。「脳裏の闇」さえわかる「あのひと」は消えて、「ひと」がいる。
「ひと」はただそこに「いる」だけではない。「ひと」は「あのひと」を、いま/ここに呼び出すかたちで存在する。つまり、「ひと」を見ると「あのひと」を思い出す。「あのひと」だけではなく、「あのひと」といっしょに生きている「わたし(と、仮に書いておく)」を「記憶」として呼び出す。
「ひとが結び合っている」ではなく「ひととひとが」と書かれているのは、そこに「あのひと」と「わたし」の「ふたり」がいるからである。「ひとの体温をとおしてしか」と書くとき、その「ひと」とは「あのひと」にほかならない。
書き出しの、
ということばを思い出すと、「あのひと」は死んでしまったかの、ということも連想してしまう。
死んではいなくても、いま/ここにはいない。「ひと」を見ないように壁になってくれるような近さにはいない。けれど「袖口」だけを眺めて「呼吸」を整えた、そのときの「呼吸」のなかに甦る近さにいる。
「あのひと」がいない(無)であるように、ビルの最上部が「姿を消していた」。そこに「無」があった。
タイトルの「無季」、その「無」のなかに「あのひと」がいて、「あのひと」なのに、「あの」がとれた「ひと」のなかに、そのときそのときにあらわれて渡辺を悲しみに引き込む。「寒い」感情へ引き込む。
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渡辺めぐみ「無季」に「ひと」と「あのひと」ということばが出てくる。
火事を見た
ひとが死ぬのが怖い
と思った
それだけのために
泣いてもいいはずだ
もっと もっと
それから
あのひとの灰色のコートの背中に隠れ
世界を覗いた
二度と火事を見なくてすむように
あのひとのコートの袖口を眺めても
顔は決して見ないようにしていた
「ひと」は一般的な、不特定多数。「あのひと」は特別な個人。「ひとり」しかいない。詩の前半は「あのひと」を媒介にして「ひと」を見たり、逆に「あのひと」を盾にして「ひと」を見ないようにしている。
あのひと」の「顔」を見ると、「あのひと」が見ているものが見える。「あのひと」は火事を見ているので、「あのひと」の顔を見ると、怖い火事が見える。けれど、「あのひとのコートの袖口を眺めて」いると、「あのひと」の見ているものが見えない。火事を見なくてすむ。「あのひと」の「灰色のコートの背中に隠れ」る。
でも、ほんとうにそんな具合にうまくゆくのだろうか。「あのひと」の「コートの背中に隠れ」、「あのひとのコートの袖口を眺め」る。それは最初はコートの背中、コートの袖口であっても、だんだん「あのひと」になってしまうのではないのか。
一回目の「あのひと」はないと意味がわからないが、二回目の「あのひと」はなくても意味がわかる。繰り返される「コート」ということばのなかに「あなた」はすでに含まれている。ことばの「不経済」を承知で、「あのひと」をくりかえしている。「コートの背中」「コートの袖口」は「顔」以上に「あのひと」になっている。具体的な細部(背中、袖口)は消え、「あのひと」に統合され、「あのひと」だけが残る。
この「あのひと」はもう一回出てくる。
あのひとの脳裏の闇が
晴れても 暮れても
雨にぬかるんだ売り地に
雑草のごとく生えてきた
「脳裏の闇」というものは、簡単に「見る」ことはできない。見えない。見えるは、渡辺が渡辺ではなく「あのひと」になってしまっているからだ。「あのひと」の「もの」を通して「あのひと」になってしまった。渡辺も「あの日と」に倒語されたのだ。このときから渡辺は「あのひと」でもある。
だから、「あのひと」は、このあと消えてしまう。詩の中に書かれない。
記憶の生を
誇りにしよう
この二行を挟んで、
と決めていた
季節が乱れるたびに
胃壁を病んだが
気にしなかった
ひとがひとと結び合っているのは
壊れた時間の贖いだ
蛆が湧くほど
寒いこともある
けれど
ひとの体温を通してしか
呼吸できないときもあるのだもの
今度は「ひと」が繰り返される。この変化の起点に「記憶」ということばがあることを思うと「記憶の生」という行より前とあとでは状況が違っているのだとわかる。「あのひと」は「記憶」になってしまった。「脳裏の闇」さえわかる「あのひと」は消えて、「ひと」がいる。
「ひと」はただそこに「いる」だけではない。「ひと」は「あのひと」を、いま/ここに呼び出すかたちで存在する。つまり、「ひと」を見ると「あのひと」を思い出す。「あのひと」だけではなく、「あのひと」といっしょに生きている「わたし(と、仮に書いておく)」を「記憶」として呼び出す。
「ひとが結び合っている」ではなく「ひととひとが」と書かれているのは、そこに「あのひと」と「わたし」の「ふたり」がいるからである。「ひとの体温をとおしてしか」と書くとき、その「ひと」とは「あのひと」にほかならない。
書き出しの、
ひとが死ぬのが怖い
ということばを思い出すと、「あのひと」は死んでしまったかの、ということも連想してしまう。
死んではいなくても、いま/ここにはいない。「ひと」を見ないように壁になってくれるような近さにはいない。けれど「袖口」だけを眺めて「呼吸」を整えた、そのときの「呼吸」のなかに甦る近さにいる。
ひとの体温を通してしか
呼吸できないときもあるのだもの
そのことを幸福と名づけてみたかった日
行きつけのドラッグストアが
廃店していた
夜の高層ビル群は
灯りだけで輪郭を形成する
ランドマークタワーの最上部が
霧に姿を消していた
「あのひと」がいない(無)であるように、ビルの最上部が「姿を消していた」。そこに「無」があった。
タイトルの「無季」、その「無」のなかに「あのひと」がいて、「あのひと」なのに、「あの」がとれた「ひと」のなかに、そのときそのときにあらわれて渡辺を悲しみに引き込む。「寒い」感情へ引き込む。
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