詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

渡辺めぐみ「無季」

2015-03-20 10:07:03 | 詩(雑誌・同人誌)
渡辺めぐみ「無季」(「ぶーわー」34、2015年03月10日発行)

 渡辺めぐみ「無季」に「ひと」と「あのひと」ということばが出てくる。

火事を見た
ひとが死ぬのが怖い
と思った
それだけのために
泣いてもいいはずだ
もっと もっと
それから
あのひとの灰色のコートの背中に隠れ
世界を覗いた
二度と火事を見なくてすむように
あのひとのコートの袖口を眺めても
顔は決して見ないようにしていた

 「ひと」は一般的な、不特定多数。「あのひと」は特別な個人。「ひとり」しかいない。詩の前半は「あのひと」を媒介にして「ひと」を見たり、逆に「あのひと」を盾にして「ひと」を見ないようにしている。
 あのひと」の「顔」を見ると、「あのひと」が見ているものが見える。「あのひと」は火事を見ているので、「あのひと」の顔を見ると、怖い火事が見える。けれど、「あのひとのコートの袖口を眺めて」いると、「あのひと」の見ているものが見えない。火事を見なくてすむ。「あのひと」の「灰色のコートの背中に隠れ」る。
 でも、ほんとうにそんな具合にうまくゆくのだろうか。「あのひと」の「コートの背中に隠れ」、「あのひとのコートの袖口を眺め」る。それは最初はコートの背中、コートの袖口であっても、だんだん「あのひと」になってしまうのではないのか。
 一回目の「あのひと」はないと意味がわからないが、二回目の「あのひと」はなくても意味がわかる。繰り返される「コート」ということばのなかに「あなた」はすでに含まれている。ことばの「不経済」を承知で、「あのひと」をくりかえしている。「コートの背中」「コートの袖口」は「顔」以上に「あのひと」になっている。具体的な細部(背中、袖口)は消え、「あのひと」に統合され、「あのひと」だけが残る。
 この「あのひと」はもう一回出てくる。

あのひとの脳裏の闇が
晴れても 暮れても
雨にぬかるんだ売り地に
雑草のごとく生えてきた

 「脳裏の闇」というものは、簡単に「見る」ことはできない。見えない。見えるは、渡辺が渡辺ではなく「あのひと」になってしまっているからだ。「あのひと」の「もの」を通して「あのひと」になってしまった。渡辺も「あの日と」に倒語されたのだ。このときから渡辺は「あのひと」でもある。
 だから、「あのひと」は、このあと消えてしまう。詩の中に書かれない。

記憶の生を
誇りにしよう

 この二行を挟んで、

と決めていた
季節が乱れるたびに
胃壁を病んだが
気にしなかった
ひとがひとと結び合っているのは
壊れた時間の贖いだ
蛆が湧くほど
寒いこともある
けれど
ひとの体温を通してしか
呼吸できないときもあるのだもの

 今度は「ひと」が繰り返される。この変化の起点に「記憶」ということばがあることを思うと「記憶の生」という行より前とあとでは状況が違っているのだとわかる。「あのひと」は「記憶」になってしまった。「脳裏の闇」さえわかる「あのひと」は消えて、「ひと」がいる。
 「ひと」はただそこに「いる」だけではない。「ひと」は「あのひと」を、いま/ここに呼び出すかたちで存在する。つまり、「ひと」を見ると「あのひと」を思い出す。「あのひと」だけではなく、「あのひと」といっしょに生きている「わたし(と、仮に書いておく)」を「記憶」として呼び出す。
 「ひとが結び合っている」ではなく「ひととひとが」と書かれているのは、そこに「あのひと」と「わたし」の「ふたり」がいるからである。「ひとの体温をとおしてしか」と書くとき、その「ひと」とは「あのひと」にほかならない。
 書き出しの、

ひとが死ぬのが怖い

 ということばを思い出すと、「あのひと」は死んでしまったかの、ということも連想してしまう。
 死んではいなくても、いま/ここにはいない。「ひと」を見ないように壁になってくれるような近さにはいない。けれど「袖口」だけを眺めて「呼吸」を整えた、そのときの「呼吸」のなかに甦る近さにいる。

ひとの体温を通してしか
呼吸できないときもあるのだもの
そのことを幸福と名づけてみたかった日
行きつけのドラッグストアが
廃店していた
夜の高層ビル群は
灯りだけで輪郭を形成する
ランドマークタワーの最上部が
霧に姿を消していた

 「あのひと」がいない(無)であるように、ビルの最上部が「姿を消していた」。そこに「無」があった。
 タイトルの「無季」、その「無」のなかに「あのひと」がいて、「あのひと」なのに、「あの」がとれた「ひと」のなかに、そのときそのときにあらわれて渡辺を悲しみに引き込む。「寒い」感情へ引き込む。

ルオーのキリストの涙まで
渡辺 めぐみ
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*

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破棄された詩のための注釈(14) 

2015-03-20 01:27:51 | 
破棄された詩のための注釈(14) 

長い口論がおわりかけたころ「ひとり」が「あらわれた」。読んだことを忘れてしまった本に引かれていた「傍線」という静かな比喩をひきつれていた。

「くちびるの上に微妙な笑みが浮かぶのを感じた」。何の本に書かれていたことばか、詩人は注釈をつけていないが、創作かもしれない。口論の相手のくちびるではなく、自分自身のくちびるの上に、と読むと「ひとり」が「あらわれた」ということがわかりやすくなる。他人の感情以上に、自分自身の感情は止めることができない。それを認めたくないので「ひとり」と他人のように書く。

もうひとりは、つまり相手は「突然の沈黙」をくちびるの縁にみつけ、表情の「行間」を読もうとした。しかし、そういうこころと肉体の関係をあらわすには、この三連目はあまりにも未熟である。「突然の沈黙」は陳腐すぎる。ここに、この詩の失敗がある。

四連目、「自分自身の内部にある鏡に憎しみを映して確かめている」と書いて、数日後「憎しみ」を「悲しみ」に変えている。「くちびるの上の微妙な笑み」は、詩人が口論の相手に見つづけたもの。無意識にそれを真似て反逆しようとした。他人の悲しみに見向きもしない、「その人」に。

「ひとり」か「その人」か。人称の差異のなかでおわる一日。






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