56 掌上の把手(ハンドル)
と、はじまる。生は死があってこそ、生。この「哲学」は、「絶対」というものを感じさせる。「死」の絶対性が「生」を支えている。「死」は向き合わないかぎり「生」は「絶対性」に到達できない、「死」と拮抗しないかぎり「生」はその「絶対性」にたどりつけない。
「あやうく」ということばは「絶対性」と矛盾するようだが、矛盾するからこそ、そこに何か強靱なものを感じる。「しっかり」と支えているなら、緊張感が消えてしまう。つねに緊張を強いられる「あやうさ」が、「生」を研ぎすまし、鍛えるのだろう。
そう考えると一行目の「比喩」は変化する。
「大きなひまわりのように」は文法的には「支えている」という動詞にかかる。そして、その「支える」の主語である「死」にかかる。「ひまわり」は「死」の比喩のように見える。
また、「あやうく」も「支えている」という動詞へつながる。
「支えている」という動詞を「ひまわりのように」と「あやうく」という二つのことばが修飾(?)しているのだが、それは協力し合って「支えている」という動詞につかながっているようには感じられない。「ひまわりのように」と「あやうく」は反対のことばのように感じられる。
「ひまわりのように」は「支えている」「死」を修飾するのではなく、「ぼくの生」を修飾しているのではないのか。
「ひまわりのように」立ち上がり、花を咲かせる「ぼくの生」、それを「あやうく(あやういような感じで)」支えている「死」。「死」の絶対性が、たくましいひまわりをあやうくさせる。「死」に支えられて、「ぼくの生」は「ひまわりのように」咲いている。あやうさに拮抗しながら、強く立ちあがって咲いているという緊張したイメージになる。
嵯峨は、「文法」的にはそんなふうに書いていないのだが、印象として、そういう感じがする。「ことば」が「文法」を壊して、何かを指し示している。いままでの「文法」では伝えきれないものをあらわそうとしている--そう感じる。
「文法」の正確さではなく、「イメージの強さ」、イメージが瞬間的にみせる、強烈すぎる「真実」(度の強い眼鏡をかけたとき、映像が網膜に直接焼きつく感じ--情報を脳が処理しきれずに、思わず目をつぶってしまうような真実)に出会ったときのような混乱が、そこにあるように思える。
同じことは、
という一行についてもいえる。木のなかに河が流れているというイメージは、木が大地から水分を吸い上げる導管の働きと重なり、納得ができる。それが木のなかで「乾いている」。それは「死」を意味するだろう。木のなかの「河」という「生」と、その「河」が乾くという「死」が拮抗して、「木(生)」を見たのか「乾いた河(死)」を見たのか、よくわからなくなる。同時に二つのものを見たような感じになる。
こういう激しい印象を引き起こすことばが、詩、というものなのだろう。
最初の二行に戻って……。
「あやうくぼくの生を支えている死よ」の「死」はだれの死なのだろう。「ぼくの生」を支えている「死」は何を指しているのだろう。「ぼくの死」か。それは、まだ存在していない。だから「支えている」という動詞の主語にはなれない。たとえば「母の死」か。「ぼく」のことを愛してくれただれかの「死」か。それとも、「死」という概念か。
はっきりとはわからない。わからないから、読者は不安定なことばのなかに突き落とされ、不安定なまま、自分で何かを見つけ出さなければならない。読者(のなかにある言語意識)を不安定にし、「いま/ここ」にないもの、「いま/ここ」に生まれてこようとしているもを感じさせる、予感させるのが詩であるということができる。
57 動いている地球
この書き出しの、三行目から五行目が「矛盾」を含んでいて、美しい。強烈だ。
「内」とは自分の「内部」のことだろう。自分の内部に向けて、何かを投げかける。(「掌上の把手」の「一本の木に投げかけられた河」の「投げかけ」るという動詞がふと思い浮かぶ。)たとえば、視線を、たとえばことばを。それは内部を見つめる、自省するということである。その内省の道筋を「一筋」と呼び変えることができる。「一筋」は、いわば「比喩」、あるいは「象徴」である。
で、そのとき、その「内部」へ向かった「一筋」が「内部」ではなく「永遠」と結び合う。「遠く」結びつける。
「永遠」は自分の「内(内部)」にあるのではなく、その道筋のベクトルの向きを反対にした方向、たとえば「遠い空」の方にある。ある方向へ向かう動きは、反動のようにして「記憶(意識/精神)」のなかでベクトルとは反対方向を描き出す。「反対」の方向がベクトルの方向を鮮明にする。
ベクトルがひとつの方向ではなく矛盾した方向を一瞬の内に「存在」させる。浮かび上がらせる。その「一瞬の結合」、かけ離れたものの結合が「真理」というものかもしれない。「遠い空」と「ぼくの内(内部)」がベクトルの運動(投げ入れ)によって結合する。
このあとの一行が、美しい。
「ぼくの内(内部)」へ何かを投げかける。そうすると、その投げかけたベクトルとは反対の方向(空間/遠い空)へ出て行く何かがある。それは、出て行くだけではなく「遠い空」と結びつく。そして、その「結びつき」を「消える」と読んでいる。
消える? 何が?
「自我」が、と言ってみたい。
つまり、その瞬間、嵯峨は「無我」になるのだ。「無我」が「永遠」なのだ。
私の読み方は、大雑把すぎるかもしれない。深読みかもしれない。あるいは、読みに達していない浅はかな「誤読」かもしれない。それがなんであれ、こんなふうに、ことばを動かしているとき、嵯峨がそばにいるような気がする。対話している気持ちになる。私の未熟なことばの動きを、嵯峨は笑ってみてくれているような気がする。
こういう瞬間が、私は好きだ。
大きなひまわりのように
あやうくぼくの生を支えている死よ
と、はじまる。生は死があってこそ、生。この「哲学」は、「絶対」というものを感じさせる。「死」の絶対性が「生」を支えている。「死」は向き合わないかぎり「生」は「絶対性」に到達できない、「死」と拮抗しないかぎり「生」はその「絶対性」にたどりつけない。
「あやうく」ということばは「絶対性」と矛盾するようだが、矛盾するからこそ、そこに何か強靱なものを感じる。「しっかり」と支えているなら、緊張感が消えてしまう。つねに緊張を強いられる「あやうさ」が、「生」を研ぎすまし、鍛えるのだろう。
そう考えると一行目の「比喩」は変化する。
「大きなひまわりのように」は文法的には「支えている」という動詞にかかる。そして、その「支える」の主語である「死」にかかる。「ひまわり」は「死」の比喩のように見える。
また、「あやうく」も「支えている」という動詞へつながる。
「支えている」という動詞を「ひまわりのように」と「あやうく」という二つのことばが修飾(?)しているのだが、それは協力し合って「支えている」という動詞につかながっているようには感じられない。「ひまわりのように」と「あやうく」は反対のことばのように感じられる。
「ひまわりのように」は「支えている」「死」を修飾するのではなく、「ぼくの生」を修飾しているのではないのか。
「ひまわりのように」立ち上がり、花を咲かせる「ぼくの生」、それを「あやうく(あやういような感じで)」支えている「死」。「死」の絶対性が、たくましいひまわりをあやうくさせる。「死」に支えられて、「ぼくの生」は「ひまわりのように」咲いている。あやうさに拮抗しながら、強く立ちあがって咲いているという緊張したイメージになる。
嵯峨は、「文法」的にはそんなふうに書いていないのだが、印象として、そういう感じがする。「ことば」が「文法」を壊して、何かを指し示している。いままでの「文法」では伝えきれないものをあらわそうとしている--そう感じる。
「文法」の正確さではなく、「イメージの強さ」、イメージが瞬間的にみせる、強烈すぎる「真実」(度の強い眼鏡をかけたとき、映像が網膜に直接焼きつく感じ--情報を脳が処理しきれずに、思わず目をつぶってしまうような真実)に出会ったときのような混乱が、そこにあるように思える。
同じことは、
一本の木に投げかけられた河の内部が白く乾いている
という一行についてもいえる。木のなかに河が流れているというイメージは、木が大地から水分を吸い上げる導管の働きと重なり、納得ができる。それが木のなかで「乾いている」。それは「死」を意味するだろう。木のなかの「河」という「生」と、その「河」が乾くという「死」が拮抗して、「木(生)」を見たのか「乾いた河(死)」を見たのか、よくわからなくなる。同時に二つのものを見たような感じになる。
こういう激しい印象を引き起こすことばが、詩、というものなのだろう。
最初の二行に戻って……。
「あやうくぼくの生を支えている死よ」の「死」はだれの死なのだろう。「ぼくの生」を支えている「死」は何を指しているのだろう。「ぼくの死」か。それは、まだ存在していない。だから「支えている」という動詞の主語にはなれない。たとえば「母の死」か。「ぼく」のことを愛してくれただれかの「死」か。それとも、「死」という概念か。
はっきりとはわからない。わからないから、読者は不安定なことばのなかに突き落とされ、不安定なまま、自分で何かを見つけ出さなければならない。読者(のなかにある言語意識)を不安定にし、「いま/ここ」にないもの、「いま/ここ」に生まれてこようとしているもを感じさせる、予感させるのが詩であるということができる。
57 動いている地球
各自めいめいに大きな空間をもつている
その遠い空の下にただひとりで立つているとき
ぼくはすべてのものを切なげに内に向ける
そのなかのどの一筋が
ぼくと永遠を遠く結んでいるのだろう
この書き出しの、三行目から五行目が「矛盾」を含んでいて、美しい。強烈だ。
「内」とは自分の「内部」のことだろう。自分の内部に向けて、何かを投げかける。(「掌上の把手」の「一本の木に投げかけられた河」の「投げかけ」るという動詞がふと思い浮かぶ。)たとえば、視線を、たとえばことばを。それは内部を見つめる、自省するということである。その内省の道筋を「一筋」と呼び変えることができる。「一筋」は、いわば「比喩」、あるいは「象徴」である。
で、そのとき、その「内部」へ向かった「一筋」が「内部」ではなく「永遠」と結び合う。「遠く」結びつける。
「永遠」は自分の「内(内部)」にあるのではなく、その道筋のベクトルの向きを反対にした方向、たとえば「遠い空」の方にある。ある方向へ向かう動きは、反動のようにして「記憶(意識/精神)」のなかでベクトルとは反対方向を描き出す。「反対」の方向がベクトルの方向を鮮明にする。
ベクトルがひとつの方向ではなく矛盾した方向を一瞬の内に「存在」させる。浮かび上がらせる。その「一瞬の結合」、かけ離れたものの結合が「真理」というものかもしれない。「遠い空」と「ぼくの内(内部)」がベクトルの運動(投げ入れ)によって結合する。
このあとの一行が、美しい。
どんな小さな動きでもぼくから出て空間へ消える
「ぼくの内(内部)」へ何かを投げかける。そうすると、その投げかけたベクトルとは反対の方向(空間/遠い空)へ出て行く何かがある。それは、出て行くだけではなく「遠い空」と結びつく。そして、その「結びつき」を「消える」と読んでいる。
消える? 何が?
「自我」が、と言ってみたい。
つまり、その瞬間、嵯峨は「無我」になるのだ。「無我」が「永遠」なのだ。
私の読み方は、大雑把すぎるかもしれない。深読みかもしれない。あるいは、読みに達していない浅はかな「誤読」かもしれない。それがなんであれ、こんなふうに、ことばを動かしているとき、嵯峨がそばにいるような気がする。対話している気持ちになる。私の未熟なことばの動きを、嵯峨は笑ってみてくれているような気がする。
こういう瞬間が、私は好きだ。
嵯峨信之詩集 (現代詩文庫) | |
嵯峨 信之 | |
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