峯澤典子「校庭」、芦村沙織「じゃがいものにおい」(「別冊 詩の発見」14、2015年03月23日発行)
峯澤典子「校庭」は学校に通っていたときの思い出を書いている。
「誰もが教室にいる時間」と書きはじめているのは、峯澤自身は「教室にはいない」ということなのだろうか。たとえば、授業を抜け出して屋上にいる、あるいは体調を崩して保健室にいる。それとも授業を受けているけれど、授業に集中していない。いろいろ想像することができるが、みんなとは違う状況にいるということはわかる。そのとき、みんなとは違った風景がみえる。違ったことがこころに刻まれる。
一連目は、そういう「風景」だが、これが次の連から少し変わる。目に見える、耳に聞こえるものではないことが書かれる。
「誰かとかかわりあうすべもなく/ひとりだけの」というのは、峯澤だけが違う場所にいることを、もう一度書いたものだろう。「かすり傷、くらいの深さ」は、いまはそう言えるが、当時はそうではなかっただろう。そのあとに出て来る、
この3行が、うーん、悲しくていいなあ。何を書いてあるのか、「意味」を特定するのはむずかしい。私自身の体験(肉体)がおぼえていることをどこまで思い出せるか。
たとえば、誰かが早退していく。校庭を横切っていく。ある日、それを見た。次の日、見なかった。「いつも早退してしまう子」がいても、その「いつも」は必ずしも「毎日」ではない。「あ、きょうも早退していく」と思って見る感じだろう。その姿を見た、見なかったは、しかし、自分の問題にはならない。見たのに(見なかったのに)、そのことによって自分がかわってしまうわけではない。そういうことを「同じ重さにしかならなかった」というのかもしれない。
それよりも「かすり傷、くらいの深さ」の方が当時は「重かった」のだ。ほんとうは「かすり傷」を忘れさせてくれる「重さ」がほしかったのかもしれない。
「見た/見なかった」よりも、そのあとの「同じ重さにしかならなかった」の「重さ」が峯澤の感じたかったことなのかもしれない。「意味」ではなく「重さ」を感じたい。「重さ」というのは、しっかりした「手応え」のことだろう。「頭」で把握するのではなく(頭でなら「重さ」は何キロ、何グラムという数字として処理できるが、ここに書かれている重さは何キロ、何グラムとは無縁のもの)はなく、「肉体」で直接「重さ」を感じたかったのかもしれない。何キロ、何グラムかわからないが、「あ、これは重い、これはさっきのより軽い」ということを実感したかったのかもしれない。
そういう微妙なところへことばが動いていく。そのときの動き方が、なんだか切なくて、いいなあ。「積もらなかった雪のように」という比喩が、いい。積もれば「雪」の証拠。降っている雪を見ていない人にも「雪が降った」と言える。でも積もらなければ、降っている雪を見ている人以外に「雪」がわからない。
そんなふうに「かすり傷」も他人にわからない。「深い傷」なら他人にはわかりやすいが、「深い傷」も「かすり傷」も本人にとっては同じ「傷」であって、「深さ」の差なんてないということは、他人にはわからない。その、自分にしかわからない苦しみがつたわってくる。
最終連も、どう感じたかを書くことがむずかしい。
それは、書かれたことばを書かれたことばのまま、私が自分の「肉体」で反芻しているだけということなのだが、こういうとき、私はうれしくなる。この5行はいいなあと思う。
「止まれずに」がいいなあ。「止まれずに」と書くのは、峯澤も止まることができなかったのだ。それが、たとえ「教室に入らない」ということであっても、それを「止める」ことができなかった。そのとき動いていた何か、それは峯澤の「ままばゆさ(個性)」だっただろう。でも、その「個性の主張の仕方」がよくわからず、ただみんなから離れていた。
「目をとじて」何を見ないのか。校庭を横切る野良犬や、早退していく人を見た。そして、それを見ている「自分自身」をも峯澤は見ていた。それを見てしまう自分の「個性」を見ていた。見つめずにはいられなかった。野良犬も早退していく人も、みんな峯澤自身に見えたのだろう。見えるから、よけいに苦しくなる。切なくなる。
見なければよかったのである。「目をとじて」自分を見つめなければよかったのである。というのは、まあ、勝手な他人の言い分だね。しかし、峯澤は、いまはこうやって、詩を書いている。あのころは「目のとじかた」を知らなかった。そう書けるのは、いまは、少しは「目のとじかた」をおぼえたということだろう。
それはいいことでもあるし、悪いことでもある。そんな思いが、この詩のことばを動かしている。安定しているけれど、不安定なところけこころを誘う不思議なバランスがある。
*
芦村沙織「じゃがいものにおい」は、ことばが素直で美しい。
とてもいいなあ。自分で描いたじゃがいもの絵。鉛筆なので、白と黒だけ。その形を見ながら「こんなに/味気なかったっけ」と思っている。そのとき、芦村には、「絵」のじゃがいも以外のものが見えている。それも「味」となって見えている。「味」というのは目で見るものではないが、目で見てしまっている。
このときの「感覚の融合」がいい。「感覚」が視覚とか聴覚とかに分かれる前の状態で「肉体」のあちこちを刺戟する。
「お母さんがむいてくれる」の「むいてくれる」がいい。お母さんの「肉体」がじゃがいもを変えてしまう。黄色くし、土の匂いを引き出す。それはスーパーで買ってきたじゃがいもから、お母さんのむいてくれたじゃがいもにかわることで、「味」になるのだ。
峯澤典子「校庭」は学校に通っていたときの思い出を書いている。
誰もが教室にいる時間
校庭を見ていた
耳を澄ますと遠い水平線から汽笛が届いたこと
野良犬が通り雨とともに走り去ったこと
いつも早退してしまう子がいたこと
「誰もが教室にいる時間」と書きはじめているのは、峯澤自身は「教室にはいない」ということなのだろうか。たとえば、授業を抜け出して屋上にいる、あるいは体調を崩して保健室にいる。それとも授業を受けているけれど、授業に集中していない。いろいろ想像することができるが、みんなとは違う状況にいるということはわかる。そのとき、みんなとは違った風景がみえる。違ったことがこころに刻まれる。
一連目は、そういう「風景」だが、これが次の連から少し変わる。目に見える、耳に聞こえるものではないことが書かれる。
かすり傷、くらいの深さで
誰かとかかわりあうすべもなく
ひとりだけの
ちいさなまばたきは
積もらなかった雪のように
家に帰るひとつものこらず
見た、と
見なかった、は
同じ重さにしかならなかった
それでも
次の日もまた
始業のチャイムのあと
校庭を見つめていた
「誰かとかかわりあうすべもなく/ひとりだけの」というのは、峯澤だけが違う場所にいることを、もう一度書いたものだろう。「かすり傷、くらいの深さ」は、いまはそう言えるが、当時はそうではなかっただろう。そのあとに出て来る、
見た、と
見なかった、は
同じ重さにしかならなかった
この3行が、うーん、悲しくていいなあ。何を書いてあるのか、「意味」を特定するのはむずかしい。私自身の体験(肉体)がおぼえていることをどこまで思い出せるか。
たとえば、誰かが早退していく。校庭を横切っていく。ある日、それを見た。次の日、見なかった。「いつも早退してしまう子」がいても、その「いつも」は必ずしも「毎日」ではない。「あ、きょうも早退していく」と思って見る感じだろう。その姿を見た、見なかったは、しかし、自分の問題にはならない。見たのに(見なかったのに)、そのことによって自分がかわってしまうわけではない。そういうことを「同じ重さにしかならなかった」というのかもしれない。
それよりも「かすり傷、くらいの深さ」の方が当時は「重かった」のだ。ほんとうは「かすり傷」を忘れさせてくれる「重さ」がほしかったのかもしれない。
「見た/見なかった」よりも、そのあとの「同じ重さにしかならなかった」の「重さ」が峯澤の感じたかったことなのかもしれない。「意味」ではなく「重さ」を感じたい。「重さ」というのは、しっかりした「手応え」のことだろう。「頭」で把握するのではなく(頭でなら「重さ」は何キロ、何グラムという数字として処理できるが、ここに書かれている重さは何キロ、何グラムとは無縁のもの)はなく、「肉体」で直接「重さ」を感じたかったのかもしれない。何キロ、何グラムかわからないが、「あ、これは重い、これはさっきのより軽い」ということを実感したかったのかもしれない。
そういう微妙なところへことばが動いていく。そのときの動き方が、なんだか切なくて、いいなあ。「積もらなかった雪のように」という比喩が、いい。積もれば「雪」の証拠。降っている雪を見ていない人にも「雪が降った」と言える。でも積もらなければ、降っている雪を見ている人以外に「雪」がわからない。
そんなふうに「かすり傷」も他人にわからない。「深い傷」なら他人にはわかりやすいが、「深い傷」も「かすり傷」も本人にとっては同じ「傷」であって、「深さ」の差なんてないということは、他人にはわからない。その、自分にしかわからない苦しみがつたわってくる。
ひとも 風も 雲も
止まれずに ひたすら駆けてゆく
それをまばゆさ、と呼ぶことや
目のとじかたさえも
まだ知らなかったころ
最終連も、どう感じたかを書くことがむずかしい。
それは、書かれたことばを書かれたことばのまま、私が自分の「肉体」で反芻しているだけということなのだが、こういうとき、私はうれしくなる。この5行はいいなあと思う。
「止まれずに」がいいなあ。「止まれずに」と書くのは、峯澤も止まることができなかったのだ。それが、たとえ「教室に入らない」ということであっても、それを「止める」ことができなかった。そのとき動いていた何か、それは峯澤の「ままばゆさ(個性)」だっただろう。でも、その「個性の主張の仕方」がよくわからず、ただみんなから離れていた。
「目をとじて」何を見ないのか。校庭を横切る野良犬や、早退していく人を見た。そして、それを見ている「自分自身」をも峯澤は見ていた。それを見てしまう自分の「個性」を見ていた。見つめずにはいられなかった。野良犬も早退していく人も、みんな峯澤自身に見えたのだろう。見えるから、よけいに苦しくなる。切なくなる。
見なければよかったのである。「目をとじて」自分を見つめなければよかったのである。というのは、まあ、勝手な他人の言い分だね。しかし、峯澤は、いまはこうやって、詩を書いている。あのころは「目のとじかた」を知らなかった。そう書けるのは、いまは、少しは「目のとじかた」をおぼえたということだろう。
それはいいことでもあるし、悪いことでもある。そんな思いが、この詩のことばを動かしている。安定しているけれど、不安定なところけこころを誘う不思議なバランスがある。
*
芦村沙織「じゃがいものにおい」は、ことばが素直で美しい。
えんぴつで
じゃがいもを
描いてみた
しろいろ
と
くろいろ
じゃがいもって
こんなに
味気なかったっけ
とてもいいなあ。自分で描いたじゃがいもの絵。鉛筆なので、白と黒だけ。その形を見ながら「こんなに/味気なかったっけ」と思っている。そのとき、芦村には、「絵」のじゃがいも以外のものが見えている。それも「味」となって見えている。「味」というのは目で見るものではないが、目で見てしまっている。
このときの「感覚の融合」がいい。「感覚」が視覚とか聴覚とかに分かれる前の状態で「肉体」のあちこちを刺戟する。
おかあさんがむいてくれる
じゃがいもは
黄色っぽくて
土のにおいがして
カレーにいれると
ほくほく
おいしいのに
「お母さんがむいてくれる」の「むいてくれる」がいい。お母さんの「肉体」がじゃがいもを変えてしまう。黄色くし、土の匂いを引き出す。それはスーパーで買ってきたじゃがいもから、お母さんのむいてくれたじゃがいもにかわることで、「味」になるのだ。
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