中本道代「野の家」、金井雄二「小さな石」(「交野が原」78、2015年04月01日発行)
中本道代「野の家」は、いまでは「見えにくい」世界を書いている。そういう世界はあるのだが「限界集落」という「流通言語」がその世界を荒し回っている。「流通言語」に抵抗しながら、中本は「肉体」を開いていく。
その味は「味気ない」のだが、そして「非情」の味がするのだが、つまり「人間の味覚を無視した」味がするのだが、それが肉体を目覚めさせる。
「砂の味」「霜の味」「根の味」。それをほんとうに味わったことは、たぶん中本にはない。砂は、口に入ったら、味わう前に吐き出してしまう。霜は少なすぎて、舐めると霜の味か、霜がついていた葉っぱか何かの味かわからなくなるし、植物の根は泥の味かどうかわからない。わからないのだけれど、ほんの一瞬、瞬間的に触れた人間を拒絶するような(人間を「無」にするような)「味」の感じが、肉体のなかに残っている様々な「味の記憶(おいしい味の記憶)」を洗い流す。「味覚」を「無」に引き戻す。そして、もう一度、すべてを最初から「味」を味わう肉体に変える。非情の味の「絶対」(絶対の味というもの)が、味覚を研ぎすます。
そういう肉体になっているから、
という具合に、鮮烈に、「味」と出会う。そしてそれは「味」であると同時に「肉体」でもある。「叔母と土で作った」の「作る」という「動詞」のなかにある人間の肉体の動きだ。料理を食べる、味わうとき、そこに「肉体(人間)」土との「関係」までがあらわれてくる。「ぷるぷるふるえる」という感触、「香り」が「香り立つ」ときの、「もの」が「立ってくる(出現してくる)」感じと、肉体が一体になる。
「料理」を食べている、ということを通り越して、「肉体」のなかにある「味覚」そのものが目覚めて、その「味覚」という「もの/こと」を味わっている感じ。味を感じることができる肉体こそが「おいしい」の源、おいしいの力、おいしいの「いのち」なのだという感じがつたわってくる。
まるで中本の「肉体」になってしまったような愉悦。
そして、土から生まれたものを食べて、土から生まれたいのちを引き継ぐとき、肉体はもう中本ひとりの肉体ではない。名もない小さな草、その花も中本の肉体(いのち)である。「秋の可憐な草花が眼を見開いて」いるのが「わかる」のは、中本がその花になっているからだ。花になってしまっているから「冬に向かっていた」という、花のこころの準備(花の「肉体」の準備)が、自分の「肉体」の動きのように感じ取れるのである。
この感じはさらにひろがり、
と、「いきもの」すべてつないでゆく。
*
金井雄二「小さな石」は「お土産は何がいい?」と聞かれて、どこかに落ちている石がいいと答えたときのことと、その後を書いている。
ひとは何とでも「一体」になる。それまでの「自分」を捨て去って、「もの」といっしょに生まれ変わる。いっしょに生まれ変わりたいと思っている。「足や手がないし/目も口もない/どこからきたのかもわからない」と石について書くとき、金井の「肉体」は「足や手がないし/目も口もない」状態の「いのち」にまでさかのぼっている。そして、自分の「肉体」も「どこからきたのかもわからない」と感じている。「いのち」がどんなふうに変化して足や目や手や口になったのか。
その金井の「ことば」に触れることで、「彼女」の肉体も目覚め、「いのち」を生きなおす。火山の噴石に触れ、噴石の「いのち」の変化する。そして噴石の「大旅行」を追体験する。彼女の「肉体」は噴石になって、時間を旅する。
いいなあ。
このことばを書くとき「彼女」は、そしてこのことばを読むとき「金井」は四千年前に自分の肉体が生まれたのだと感じている。爆発して、山を飛び越して、地面に着地した--その「いのち」が、いま、ここに金井という「肉体」になり、「彼女」という「肉体」になり、それを語る「ことば」となっている。
何度でも読み返したくなる詩だ。
「谷川俊太郎の『こころ』を読む」はアマゾンでは入手しにくい状態が続いています。
購読ご希望の方は、谷内修三(panchan@mars.dti.ne.jp)へお申し込みください。1800円(税抜、送料無料)で販売します。
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中本道代「野の家」は、いまでは「見えにくい」世界を書いている。そういう世界はあるのだが「限界集落」という「流通言語」がその世界を荒し回っている。「流通言語」に抵抗しながら、中本は「肉体」を開いていく。
お宮の横の湧き水を口にふくむと
砂と霜と植物の根の味がした
その味は「味気ない」のだが、そして「非情」の味がするのだが、つまり「人間の味覚を無視した」味がするのだが、それが肉体を目覚めさせる。
「砂の味」「霜の味」「根の味」。それをほんとうに味わったことは、たぶん中本にはない。砂は、口に入ったら、味わう前に吐き出してしまう。霜は少なすぎて、舐めると霜の味か、霜がついていた葉っぱか何かの味かわからなくなるし、植物の根は泥の味かどうかわからない。わからないのだけれど、ほんの一瞬、瞬間的に触れた人間を拒絶するような(人間を「無」にするような)「味」の感じが、肉体のなかに残っている様々な「味の記憶(おいしい味の記憶)」を洗い流す。「味覚」を「無」に引き戻す。そして、もう一度、すべてを最初から「味」を味わう肉体に変える。非情の味の「絶対」(絶対の味というもの)が、味覚を研ぎすます。
そういう肉体になっているから、
叔母は次々に冷たい納戸から料理を出してくれた
みな叔母と土で作ったものばかり
ぷるぷるふるえる蒟蒻も
柚子の香りがするバラずしも
という具合に、鮮烈に、「味」と出会う。そしてそれは「味」であると同時に「肉体」でもある。「叔母と土で作った」の「作る」という「動詞」のなかにある人間の肉体の動きだ。料理を食べる、味わうとき、そこに「肉体(人間)」土との「関係」までがあらわれてくる。「ぷるぷるふるえる」という感触、「香り」が「香り立つ」ときの、「もの」が「立ってくる(出現してくる)」感じと、肉体が一体になる。
「料理」を食べている、ということを通り越して、「肉体」のなかにある「味覚」そのものが目覚めて、その「味覚」という「もの/こと」を味わっている感じ。味を感じることができる肉体こそが「おいしい」の源、おいしいの力、おいしいの「いのち」なのだという感じがつたわってくる。
まるで中本の「肉体」になってしまったような愉悦。
翌朝見ると
叔母が植えた小さな花々が家のまわりを縁どって咲いていた
秋の可憐な草花が眼を見開いて冬に向かっていた
そして、土から生まれたものを食べて、土から生まれたいのちを引き継ぐとき、肉体はもう中本ひとりの肉体ではない。名もない小さな草、その花も中本の肉体(いのち)である。「秋の可憐な草花が眼を見開いて」いるのが「わかる」のは、中本がその花になっているからだ。花になってしまっているから「冬に向かっていた」という、花のこころの準備(花の「肉体」の準備)が、自分の「肉体」の動きのように感じ取れるのである。
この感じはさらにひろがり、
姿は見えないけれど
猿も猪も眼を見開いてるはずだった
と、「いきもの」すべてつないでゆく。
*
金井雄二「小さな石」は「お土産は何がいい?」と聞かれて、どこかに落ちている石がいいと答えたときのことと、その後を書いている。
できれば不格好な
ちょっとできそこないのような
見かけの悪い
石がいいな
足や手がないし
目も口もない
どこからきたのかもわからない
だから
見ていて
飽きない
半分、冗談だったけど
彼女は旅先で
本当に拾ってきてくれた
ぶつぶつと
穴のあいた石
(四千年前に爆発して
山の上を飛び
地面に着地するという
大旅行をしたのですね)
ひとは何とでも「一体」になる。それまでの「自分」を捨て去って、「もの」といっしょに生まれ変わる。いっしょに生まれ変わりたいと思っている。「足や手がないし/目も口もない/どこからきたのかもわからない」と石について書くとき、金井の「肉体」は「足や手がないし/目も口もない」状態の「いのち」にまでさかのぼっている。そして、自分の「肉体」も「どこからきたのかもわからない」と感じている。「いのち」がどんなふうに変化して足や目や手や口になったのか。
その金井の「ことば」に触れることで、「彼女」の肉体も目覚め、「いのち」を生きなおす。火山の噴石に触れ、噴石の「いのち」の変化する。そして噴石の「大旅行」を追体験する。彼女の「肉体」は噴石になって、時間を旅する。
(四千年前に爆発して
山の上を飛び
地面に着地するという
大旅行をしたのですね)
いいなあ。
このことばを書くとき「彼女」は、そしてこのことばを読むとき「金井」は四千年前に自分の肉体が生まれたのだと感じている。爆発して、山を飛び越して、地面に着地した--その「いのち」が、いま、ここに金井という「肉体」になり、「彼女」という「肉体」になり、それを語る「ことば」となっている。
何度でも読み返したくなる詩だ。
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ご要望があれば、署名(宛名含む)もします。
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