穂村弘「葡萄の種と梅干の種」(「短歌と詩、その相似と相違について」日本現代詩人会ゼミナールin福岡、2015年03月21日)
穂村弘「葡萄の種と梅干の種」については22日の「日記」に書いたが、もう少し考えてみたいことがある。「短歌と詩、その相似と相違について」というテーマに沿って、考えてみたい。
穂村は3人の短歌と、そのうちの「改悪例」をあげている。
この「改悪例」で穂村が指摘しているのは「イメージのずれ」である。ことばはそれぞれイメージを持っている。それは「共有」されている。その「共有」が崩れると短歌は崩れる。穂村自身のことばを引用すると、
というのが穂村の考えている「短歌の特性」である。
この「短歌の特性」は、「短歌」だけに限らず、どんな「文学」にも通じる。どんな文学でも共有されているイメージが壊れたときは、それを異様に感じる。そして、もしどちらの作品がいいかと問われたら、ついつい共有しているイメージにあった作品を選んでしまう。
「届かないものは……」の短歌なら「ぶどうの種」の方が「うめぼしの種」よりも美しいイメージがあっていいなあ、と考える。ゼミナールのあと、懇親会だったか、三次会(?)だったか、北川朱実は「あの改悪例はよくない。だれだって、どっちがいいかはすぐわかる」と言ったが、まあ、それが「常識的文学基準」なのだと思う。
そう思うのだが、私はまた別のことも考える。
ほんとうに、そうだろうか。疑ってしまう。「イメージの共有」が「文学の基準」だろうか。穂村は「文学の特性」とは言わずに、「短歌の特性」と書いているので、これから私が書くことは穂村の意図(主張/論旨)からズレるかもしれないが……。
「文学」のひとつのおもしろさは、共有されたイメージを破壊するというところにもあるのではないだろうか。みんなが「美しい」と思っているものよりも、そうじゃないものの方が刺戟的で楽しいから好き、ということはないだろうか。
たとえば西脇順三郎の「茶色の旅行」は次のようにして始まる。
「百人一首」が見え隠れする。「白妙の衣」のかわりに「坊主のふんどし」が干される。これは「美しさ」の否定だろうか。それとも新しい「美しさ」の主張だろうか。「白妙衣」が美しいという「流通概念」の「固定化」を西脇は否定している。
読んだ瞬間、私は笑い出してしまうが、この笑いのなかの「乱暴」が「美しい」と思う。「ふんどし」が「美しい」というよりも、「ふんどしだって白いぜ、太陽の光を浴びて輝くぜ」と見てしまう「肉眼の暴力的な健康さ(力)」が「美しい」と思う。
光をはじき返すふんどし、そのはじきかえされた光の輝きは、白い衣のはじき返す光の輝きと物理的には同じであっても、人は白い衣のはじきかえした光の方を美しいと判断してしまう。その衣が好きな女の衣だったりするとさらに美しいと感じるかもしれない。おばさんの衣よりも、処女の衣の方が輝かしいと感じるかもしれない。人は「肉眼」で見るよりも前に、「既成概念」で見てしまう。「肉眼」は働いていない。物理の厳しい基準も除外されている。
西脇は、そういう「既成概念」で「もの」を見ることに対して異議をとなえている。既成概念(流通概念)をたたき壊して、あからさまな「肉体」そのものに還って、そこから「肉眼」をもう一度動かしている。
「現代詩」は「イメージの共有」を目指しているわけではない。「共有」ということを拒絶しているという一面がある。すでにそこにあるものをそのまま信じるのではなく、いちどたたき壊して、最初から見つめなおす。それは自分自身を見つめなおすということでもある。「肉体」を見つめなおすことでもある--と書くと、ちょっと「我田引水」になってしまうので、省略。
穂村が「改悪例」をしめさなかった木下の短歌を「改悪」して考えてみる。
どうだろう。穂村の書いていた「青春性」は、梅干では感じられなくなるかもしれない。けれど、それは逆に言えばセンチメンタルとは別の、物理現象そのものを見つめる「肉体」の感覚をより刺戟しないか。
私はもう「青春」という世代ではないので、梅干の方が斬新でおもしろいかなあ、と思う。「葡萄」では、あまりにもはかなすぎる。葡萄の種の影なんて、小さすぎて眼で追いかけるのがむずかしい。梅干の種の方が粒が大きくて、吐き出す感じもわかるなあ、と思ったりする。私は、葡萄の種を吐き出さずにそのまま全部食べるので、葡萄の種を吐き出すということが肉体的にわからない、ということもあるのだけれど。
西脇なら、ぜったいに「葡萄」とは書かないだろうなあ、と思う。
というのも、意外性がおもしろい。服部の短歌(そして木下の短歌)には「葡萄」と「吐く」という動詞の結びつきのなかに何か乱暴なものがあり、その乱暴さだけで充分なのかもしれないが、梅干の方が乱暴さを強靱にする。梅干の種を吐いているのは、「青春」の「君」ではなくて、もう「中年」か「老人」かもしれないが、だからこそ、刺戟的。同じことをくりかえしてきた「肉体」のしぶとい力がそこにある。
そういう見方から言うと、「茶碗」と「梅干の種」を歌った山崎の作品は、最初から「青春性=美しい」をたたき壊していて楽しいが、でも、そのたたき壊し方が、穂村が指摘しているよう「演歌的」かなあ。つまり、「演歌」という「定型」に入ってしまっているかなあ、とも思う。「ああこれが愛というものだ」という詠嘆が「定型」になっていて、なんだか笑えない。くすりと、こない。
西脇なら、こういうとき「方言」をつかって「まんず、これがあいだべな」というような具合に、「演歌」をもう一度「大衆」に引き戻すだろう。「演歌」という「定型」以前の口語にしてしまうだろうとも思った。
「現代詩」は「定型」を破壊して動く。「定型」が破壊されたとき、その破壊する力(破壊するという運動/動詞の力)に目を向けている点が、短歌とは異なるのかもしれない。評価の基準が「定型」の維持ではなく、「定型」を破壊しつづけるという力に向けられているのかもしれない。
(岡井隆の短歌を読むと、必ずしも「定型の維持」だけを短歌は目指しているわけではないと思うけれど、感性の継承を好む人が歌人には多いということかもしれない。)
詩を読む、その「読む」というあり方が短歌と詩では違うのかもしれない。
穂村弘「葡萄の種と梅干の種」については22日の「日記」に書いたが、もう少し考えてみたいことがある。「短歌と詩、その相似と相違について」というテーマに沿って、考えてみたい。
穂村は3人の短歌と、そのうちの「改悪例」をあげている。
だしぬけに葡萄の種を吐き出せば葡萄の影が遅れる 木下龍也
届かないものはどうして美しい君がぶどうの種吐いている 服部真里子
届かないものはどうして美しい君がうめぼしの種吐いている 改悪例
茶碗の底に梅干の種二つ並びおるああこれが愛というものだ 山崎方代
茶碗の底に葡萄の種二つ並びおるああこれが愛というものだ 改悪例
この「改悪例」で穂村が指摘しているのは「イメージのずれ」である。ことばはそれぞれイメージを持っている。それは「共有」されている。その「共有」が崩れると短歌は崩れる。穂村自身のことばを引用すると、
ほとんど全ての語彙に関してイメージの細かい共有があり、それを前提に互いの作品を読み合う
というのが穂村の考えている「短歌の特性」である。
この「短歌の特性」は、「短歌」だけに限らず、どんな「文学」にも通じる。どんな文学でも共有されているイメージが壊れたときは、それを異様に感じる。そして、もしどちらの作品がいいかと問われたら、ついつい共有しているイメージにあった作品を選んでしまう。
「届かないものは……」の短歌なら「ぶどうの種」の方が「うめぼしの種」よりも美しいイメージがあっていいなあ、と考える。ゼミナールのあと、懇親会だったか、三次会(?)だったか、北川朱実は「あの改悪例はよくない。だれだって、どっちがいいかはすぐわかる」と言ったが、まあ、それが「常識的文学基準」なのだと思う。
そう思うのだが、私はまた別のことも考える。
ほんとうに、そうだろうか。疑ってしまう。「イメージの共有」が「文学の基準」だろうか。穂村は「文学の特性」とは言わずに、「短歌の特性」と書いているので、これから私が書くことは穂村の意図(主張/論旨)からズレるかもしれないが……。
「文学」のひとつのおもしろさは、共有されたイメージを破壊するというところにもあるのではないだろうか。みんなが「美しい」と思っているものよりも、そうじゃないものの方が刺戟的で楽しいから好き、ということはないだろうか。
たとえば西脇順三郎の「茶色の旅行」は次のようにして始まる。
地平線に旅人の坊主が
ふんどしをほすしろたえの
のどかな日にも
無限な女を追うさびしさに
宿をたち出てみれば
いずこも秋の日の
夕暮は茶色だつた。
「百人一首」が見え隠れする。「白妙の衣」のかわりに「坊主のふんどし」が干される。これは「美しさ」の否定だろうか。それとも新しい「美しさ」の主張だろうか。「白妙衣」が美しいという「流通概念」の「固定化」を西脇は否定している。
読んだ瞬間、私は笑い出してしまうが、この笑いのなかの「乱暴」が「美しい」と思う。「ふんどし」が「美しい」というよりも、「ふんどしだって白いぜ、太陽の光を浴びて輝くぜ」と見てしまう「肉眼の暴力的な健康さ(力)」が「美しい」と思う。
光をはじき返すふんどし、そのはじきかえされた光の輝きは、白い衣のはじき返す光の輝きと物理的には同じであっても、人は白い衣のはじきかえした光の方を美しいと判断してしまう。その衣が好きな女の衣だったりするとさらに美しいと感じるかもしれない。おばさんの衣よりも、処女の衣の方が輝かしいと感じるかもしれない。人は「肉眼」で見るよりも前に、「既成概念」で見てしまう。「肉眼」は働いていない。物理の厳しい基準も除外されている。
西脇は、そういう「既成概念」で「もの」を見ることに対して異議をとなえている。既成概念(流通概念)をたたき壊して、あからさまな「肉体」そのものに還って、そこから「肉眼」をもう一度動かしている。
「現代詩」は「イメージの共有」を目指しているわけではない。「共有」ということを拒絶しているという一面がある。すでにそこにあるものをそのまま信じるのではなく、いちどたたき壊して、最初から見つめなおす。それは自分自身を見つめなおすということでもある。「肉体」を見つめなおすことでもある--と書くと、ちょっと「我田引水」になってしまうので、省略。
穂村が「改悪例」をしめさなかった木下の短歌を「改悪」して考えてみる。
だしぬけに梅干の種を吐き出せば梅干の影が遅れる
どうだろう。穂村の書いていた「青春性」は、梅干では感じられなくなるかもしれない。けれど、それは逆に言えばセンチメンタルとは別の、物理現象そのものを見つめる「肉体」の感覚をより刺戟しないか。
私はもう「青春」という世代ではないので、梅干の方が斬新でおもしろいかなあ、と思う。「葡萄」では、あまりにもはかなすぎる。葡萄の種の影なんて、小さすぎて眼で追いかけるのがむずかしい。梅干の種の方が粒が大きくて、吐き出す感じもわかるなあ、と思ったりする。私は、葡萄の種を吐き出さずにそのまま全部食べるので、葡萄の種を吐き出すということが肉体的にわからない、ということもあるのだけれど。
西脇なら、ぜったいに「葡萄」とは書かないだろうなあ、と思う。
届かないものはどうして美しい君がうめぼしの種吐いている
というのも、意外性がおもしろい。服部の短歌(そして木下の短歌)には「葡萄」と「吐く」という動詞の結びつきのなかに何か乱暴なものがあり、その乱暴さだけで充分なのかもしれないが、梅干の方が乱暴さを強靱にする。梅干の種を吐いているのは、「青春」の「君」ではなくて、もう「中年」か「老人」かもしれないが、だからこそ、刺戟的。同じことをくりかえしてきた「肉体」のしぶとい力がそこにある。
そういう見方から言うと、「茶碗」と「梅干の種」を歌った山崎の作品は、最初から「青春性=美しい」をたたき壊していて楽しいが、でも、そのたたき壊し方が、穂村が指摘しているよう「演歌的」かなあ。つまり、「演歌」という「定型」に入ってしまっているかなあ、とも思う。「ああこれが愛というものだ」という詠嘆が「定型」になっていて、なんだか笑えない。くすりと、こない。
西脇なら、こういうとき「方言」をつかって「まんず、これがあいだべな」というような具合に、「演歌」をもう一度「大衆」に引き戻すだろう。「演歌」という「定型」以前の口語にしてしまうだろうとも思った。
「現代詩」は「定型」を破壊して動く。「定型」が破壊されたとき、その破壊する力(破壊するという運動/動詞の力)に目を向けている点が、短歌とは異なるのかもしれない。評価の基準が「定型」の維持ではなく、「定型」を破壊しつづけるという力に向けられているのかもしれない。
(岡井隆の短歌を読むと、必ずしも「定型の維持」だけを短歌は目指しているわけではないと思うけれど、感性の継承を好む人が歌人には多いということかもしれない。)
詩を読む、その「読む」というあり方が短歌と詩では違うのかもしれない。
秘密と友情 (新潮文庫) | |
春日 武彦,穂村 弘 | |
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