苗村吉昭「転位」(「別冊詩の発見」14、2015年03月23日発行)
苗村吉昭「転位」について私は何が書けるだろうか。苗村は「見知らぬ人の御通夜にでて」、「わたしはわたしの葬儀のことを考えた」。
私は苗村のことをまったく知らないが、この詩を読むと、そうか妻と娘がいるのか、と思ってしまう。三人の暮らしを思ってしまう。
いろいろな会話が日常のなかで繰り返されるけれど、うーん、そうなのか。妻と娘は仲良く話しているが、苗村はテキトウにあしらわれているのか。妻と娘が日常のあれこれを決めていて、苗村は、その決まったことに「しかたないなあ」という感じでしたがっているのか(受け入れているのか)……などということを想像したりする。引用の最後の方の「妻と娘に声をかけたけど/妻と娘はソッポを向いて/わたしのことなど見えないみたいに」が、まるでドラマか何かを見ているように、くっきりと見える。そして、それは特別にかわった光景ではなく、いまの日本のあちこちで見られる光景かもしれないなあ。その平凡さ(?)がなんとなく、いいなあ、と思う。いや、変凡さがいいなあ、ではなくて、平凡を平凡のまま語る口調がいいんだろうなあ。口調のなかに苗村の「人格」があらわれてきている。「人格」に触れたような気持になるから「いいなあ」と思うのだ。
「人格」といっても、「人格がいい」といっても、でも、その「よさ」はちょっと複雑。私は引用の最後の部分で、苗村は「しかたないなあ」と思いながら妻と娘にしたがっている、受け入れていると書いたけれど、そのときの「人格のよさ」というのは、よく見ると「矛盾」を飲みこんだあと(?)の「人格」のあり方だね。ほんとうは、妻や娘が決めたことをしたくないかもしれない。ほかのことがしたいかもしれない。でも「しかたないなあ」と受け入れる。その「矛盾」がにじむ「人格」。
これは、その前にも書かれている。前に、そういう「矛盾」が書かれているから、自然と「矛盾」した「人格」の美しさに導かれていくのかもしれない。
具体的に言いなおすと……。
これは「遺影」の笑顔のことを言っているのだが、そうだなあ、遺影はなぜみんな笑顔なんだろう。ほんとうは笑いたくなんかないかもしれないのに。
葬儀はいらない、参列者もいらないとは思うが、来てくれた人には「なんとか御礼を言いた」い。その「矛盾」。
そして、その「矛盾」を、苗村は「なんとか」ということばで乗り越えている。
「なんとか」というときの「何」(なん)とは何だろう。言いなおせるか。どう言いなおせばいいのだろう。言いなおしようがない。それは、苗村にとってもそうだと思う。ほかにいいようがないから「なんとか」と書いている。
ここがいいなあ。
この詩の「ポイント」というか、「思想(肉体)」はこの「なんとか」にあるのだなあ、と思う。
「なんとか」というのは、実は「なんとかして」。「なんとかする」。「なんとか」だけを読んでいるとわからないが、そこには「動詞」が隠れている。「御礼を言いたい」の「言いたい」(欲する/欲望)が隠れている。「文法」的には「言いたい」を強調するためのことばということになるのだろうけれど、つまり「なんとか」はなくても「言いたい」だけで「意味」は通じるということになるのだろうけれど、私は逆に考える。「なんとか」ということばが気持ちを誘い出す。欲望に形を与える。それは「文法」が説明するような「強調」ではない。
つまり……。「意味」はきっと「言いたい(言う)」にあるのではなく「なんとか」という「気持ち」の方にある。気持ち、欲望が先にあって、それが「言う」を動かす。「なんとか」は「なんとしても」である。それがきっと「人格」というものなんだろうなあ。人を実際に動かす力が「人格」なんだろうなあ。
そして、その「なんとか」(なんとしても)は実現されないままに終わってしまう。時間(他人)が、苗村の「人格」には配慮しないからね。その「対比」あるいは「対照」が「人格」をさらに印象づけるのかもしれない。
「できない」でも「したい」、「したくない」でも「するしかない」。世の中は、そういうことでできあがっている。それをどうやって繋いで行くか。わからない。でも「なんとか」繋いで行く。なんとしても、繋いで行く。生きて行く。妻と娘に「ソッポ」を向かれても、家族だからいっしょに生きて行く。「なんとか/なんとしても」。いい夫、いい父だねえ。
その「なんとか/なんとしても」に気づいてくれなくても。最後は、そういうことを静かに語って終わるのだけれど、大丈夫、みんな苗村を忘れない。「ソッポ」を向いているように見えるのは、背中を向けていても「わかる」から。「人格」がわかるから、そうしている。わからない相手なら、常に正面を向いて「言い合い」をするしかないからね。
「タイトル」の「転位」から考えると、ほんとうは苗村はもっと難しいことを言いたかったのかもしれないけれど、私にはその難しいことはわからない。苗村が「転位」ということばでつたえたかったもあのを無視して、つまり「誤読」して、私は、ただ、あ、苗村っていい人なんだなあ、と「人格」のよさを感じた。
苗村吉昭「転位」について私は何が書けるだろうか。苗村は「見知らぬ人の御通夜にでて」、「わたしはわたしの葬儀のことを考えた」。
その日は喪服の妻と娘がいて
わたしは遺影に納まっていて
笑いたくないのに笑いながら
焼香する人たちを見ているだろう
ほんとうは葬儀なんかしなくていいのだけれど
わざわざ参列してくれなくてもいいのだけれど
それでもやってきてくれた人たちに
なんとか御礼を言いたくて
喪服の妻と娘の傍らに立ち
焼香してくださった一人一人に頭を下げて
そうこうしているうちに
読経も終わり導師も帰り
やっと御通夜も終わったな
いよいよ明日は告別式だ と
妻と娘に声かけたけど
妻と娘はソッポを向いて
わたしのことなど見えないみたいに
わたしのことなど話している
私は苗村のことをまったく知らないが、この詩を読むと、そうか妻と娘がいるのか、と思ってしまう。三人の暮らしを思ってしまう。
いろいろな会話が日常のなかで繰り返されるけれど、うーん、そうなのか。妻と娘は仲良く話しているが、苗村はテキトウにあしらわれているのか。妻と娘が日常のあれこれを決めていて、苗村は、その決まったことに「しかたないなあ」という感じでしたがっているのか(受け入れているのか)……などということを想像したりする。引用の最後の方の「妻と娘に声をかけたけど/妻と娘はソッポを向いて/わたしのことなど見えないみたいに」が、まるでドラマか何かを見ているように、くっきりと見える。そして、それは特別にかわった光景ではなく、いまの日本のあちこちで見られる光景かもしれないなあ。その平凡さ(?)がなんとなく、いいなあ、と思う。いや、変凡さがいいなあ、ではなくて、平凡を平凡のまま語る口調がいいんだろうなあ。口調のなかに苗村の「人格」があらわれてきている。「人格」に触れたような気持になるから「いいなあ」と思うのだ。
「人格」といっても、「人格がいい」といっても、でも、その「よさ」はちょっと複雑。私は引用の最後の部分で、苗村は「しかたないなあ」と思いながら妻と娘にしたがっている、受け入れていると書いたけれど、そのときの「人格のよさ」というのは、よく見ると「矛盾」を飲みこんだあと(?)の「人格」のあり方だね。ほんとうは、妻や娘が決めたことをしたくないかもしれない。ほかのことがしたいかもしれない。でも「しかたないなあ」と受け入れる。その「矛盾」がにじむ「人格」。
これは、その前にも書かれている。前に、そういう「矛盾」が書かれているから、自然と「矛盾」した「人格」の美しさに導かれていくのかもしれない。
具体的に言いなおすと……。
笑いたくないのに笑いながら
これは「遺影」の笑顔のことを言っているのだが、そうだなあ、遺影はなぜみんな笑顔なんだろう。ほんとうは笑いたくなんかないかもしれないのに。
葬儀はいらない、参列者もいらないとは思うが、来てくれた人には「なんとか御礼を言いた」い。その「矛盾」。
そして、その「矛盾」を、苗村は「なんとか」ということばで乗り越えている。
「なんとか」というときの「何」(なん)とは何だろう。言いなおせるか。どう言いなおせばいいのだろう。言いなおしようがない。それは、苗村にとってもそうだと思う。ほかにいいようがないから「なんとか」と書いている。
ここがいいなあ。
この詩の「ポイント」というか、「思想(肉体)」はこの「なんとか」にあるのだなあ、と思う。
「なんとか」というのは、実は「なんとかして」。「なんとかする」。「なんとか」だけを読んでいるとわからないが、そこには「動詞」が隠れている。「御礼を言いたい」の「言いたい」(欲する/欲望)が隠れている。「文法」的には「言いたい」を強調するためのことばということになるのだろうけれど、つまり「なんとか」はなくても「言いたい」だけで「意味」は通じるということになるのだろうけれど、私は逆に考える。「なんとか」ということばが気持ちを誘い出す。欲望に形を与える。それは「文法」が説明するような「強調」ではない。
つまり……。「意味」はきっと「言いたい(言う)」にあるのではなく「なんとか」という「気持ち」の方にある。気持ち、欲望が先にあって、それが「言う」を動かす。「なんとか」は「なんとしても」である。それがきっと「人格」というものなんだろうなあ。人を実際に動かす力が「人格」なんだろうなあ。
そして、その「なんとか」(なんとしても)は実現されないままに終わってしまう。時間(他人)が、苗村の「人格」には配慮しないからね。その「対比」あるいは「対照」が「人格」をさらに印象づけるのかもしれない。
「できない」でも「したい」、「したくない」でも「するしかない」。世の中は、そういうことでできあがっている。それをどうやって繋いで行くか。わからない。でも「なんとか」繋いで行く。なんとしても、繋いで行く。生きて行く。妻と娘に「ソッポ」を向かれても、家族だからいっしょに生きて行く。「なんとか/なんとしても」。いい夫、いい父だねえ。
そしてようやく気づくのだ
わたしはもう
そちら側には
いない
ということに。
その「なんとか/なんとしても」に気づいてくれなくても。最後は、そういうことを静かに語って終わるのだけれど、大丈夫、みんな苗村を忘れない。「ソッポ」を向いているように見えるのは、背中を向けていても「わかる」から。「人格」がわかるから、そうしている。わからない相手なら、常に正面を向いて「言い合い」をするしかないからね。
「タイトル」の「転位」から考えると、ほんとうは苗村はもっと難しいことを言いたかったのかもしれないけれど、私にはその難しいことはわからない。苗村が「転位」ということばでつたえたかったもあのを無視して、つまり「誤読」して、私は、ただ、あ、苗村っていい人なんだなあ、と「人格」のよさを感じた。
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