詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

苗村吉昭「転位」

2015-03-31 09:23:07 | 詩(雑誌・同人誌)
苗村吉昭「転位」(「別冊詩の発見」14、2015年03月23日発行)

 苗村吉昭「転位」について私は何が書けるだろうか。苗村は「見知らぬ人の御通夜にでて」、「わたしはわたしの葬儀のことを考えた」。

その日は喪服の妻と娘がいて
わたしは遺影に納まっていて
笑いたくないのに笑いながら
焼香する人たちを見ているだろう
ほんとうは葬儀なんかしなくていいのだけれど
わざわざ参列してくれなくてもいいのだけれど
それでもやってきてくれた人たちに
なんとか御礼を言いたくて
喪服の妻と娘の傍らに立ち
焼香してくださった一人一人に頭を下げて
そうこうしているうちに
読経も終わり導師も帰り
やっと御通夜も終わったな
いよいよ明日は告別式だ と
妻と娘に声かけたけど
妻と娘はソッポを向いて
わたしのことなど見えないみたいに
わたしのことなど話している

 私は苗村のことをまったく知らないが、この詩を読むと、そうか妻と娘がいるのか、と思ってしまう。三人の暮らしを思ってしまう。
 いろいろな会話が日常のなかで繰り返されるけれど、うーん、そうなのか。妻と娘は仲良く話しているが、苗村はテキトウにあしらわれているのか。妻と娘が日常のあれこれを決めていて、苗村は、その決まったことに「しかたないなあ」という感じでしたがっているのか(受け入れているのか)……などということを想像したりする。引用の最後の方の「妻と娘に声をかけたけど/妻と娘はソッポを向いて/わたしのことなど見えないみたいに」が、まるでドラマか何かを見ているように、くっきりと見える。そして、それは特別にかわった光景ではなく、いまの日本のあちこちで見られる光景かもしれないなあ。その平凡さ(?)がなんとなく、いいなあ、と思う。いや、変凡さがいいなあ、ではなくて、平凡を平凡のまま語る口調がいいんだろうなあ。口調のなかに苗村の「人格」があらわれてきている。「人格」に触れたような気持になるから「いいなあ」と思うのだ。
 「人格」といっても、「人格がいい」といっても、でも、その「よさ」はちょっと複雑。私は引用の最後の部分で、苗村は「しかたないなあ」と思いながら妻と娘にしたがっている、受け入れていると書いたけれど、そのときの「人格のよさ」というのは、よく見ると「矛盾」を飲みこんだあと(?)の「人格」のあり方だね。ほんとうは、妻や娘が決めたことをしたくないかもしれない。ほかのことがしたいかもしれない。でも「しかたないなあ」と受け入れる。その「矛盾」がにじむ「人格」。
 これは、その前にも書かれている。前に、そういう「矛盾」が書かれているから、自然と「矛盾」した「人格」の美しさに導かれていくのかもしれない。
 具体的に言いなおすと……。

笑いたくないのに笑いながら

 これは「遺影」の笑顔のことを言っているのだが、そうだなあ、遺影はなぜみんな笑顔なんだろう。ほんとうは笑いたくなんかないかもしれないのに。
 葬儀はいらない、参列者もいらないとは思うが、来てくれた人には「なんとか御礼を言いた」い。その「矛盾」。
 そして、その「矛盾」を、苗村は「なんとか」ということばで乗り越えている。
 「なんとか」というときの「何」(なん)とは何だろう。言いなおせるか。どう言いなおせばいいのだろう。言いなおしようがない。それは、苗村にとってもそうだと思う。ほかにいいようがないから「なんとか」と書いている。
 ここがいいなあ。
 この詩の「ポイント」というか、「思想(肉体)」はこの「なんとか」にあるのだなあ、と思う。
 「なんとか」というのは、実は「なんとかして」。「なんとかする」。「なんとか」だけを読んでいるとわからないが、そこには「動詞」が隠れている。「御礼を言いたい」の「言いたい」(欲する/欲望)が隠れている。「文法」的には「言いたい」を強調するためのことばということになるのだろうけれど、つまり「なんとか」はなくても「言いたい」だけで「意味」は通じるということになるのだろうけれど、私は逆に考える。「なんとか」ということばが気持ちを誘い出す。欲望に形を与える。それは「文法」が説明するような「強調」ではない。
 つまり……。「意味」はきっと「言いたい(言う)」にあるのではなく「なんとか」という「気持ち」の方にある。気持ち、欲望が先にあって、それが「言う」を動かす。「なんとか」は「なんとしても」である。それがきっと「人格」というものなんだろうなあ。人を実際に動かす力が「人格」なんだろうなあ。
 そして、その「なんとか」(なんとしても)は実現されないままに終わってしまう。時間(他人)が、苗村の「人格」には配慮しないからね。その「対比」あるいは「対照」が「人格」をさらに印象づけるのかもしれない。
 「できない」でも「したい」、「したくない」でも「するしかない」。世の中は、そういうことでできあがっている。それをどうやって繋いで行くか。わからない。でも「なんとか」繋いで行く。なんとしても、繋いで行く。生きて行く。妻と娘に「ソッポ」を向かれても、家族だからいっしょに生きて行く。「なんとか/なんとしても」。いい夫、いい父だねえ。

そしてようやく気づくのだ
わたしはもう
そちら側には
いない
ということに。

 その「なんとか/なんとしても」に気づいてくれなくても。最後は、そういうことを静かに語って終わるのだけれど、大丈夫、みんな苗村を忘れない。「ソッポ」を向いているように見えるのは、背中を向けていても「わかる」から。「人格」がわかるから、そうしている。わからない相手なら、常に正面を向いて「言い合い」をするしかないからね。

 「タイトル」の「転位」から考えると、ほんとうは苗村はもっと難しいことを言いたかったのかもしれないけれど、私にはその難しいことはわからない。苗村が「転位」ということばでつたえたかったもあのを無視して、つまり「誤読」して、私は、ただ、あ、苗村っていい人なんだなあ、と「人格」のよさを感じた。
半跏思惟―苗村吉昭詩集
苗村吉昭
編集工房ノア
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フォルカー・シュレンドルフ監督「パリよ、永遠に」(★★★)

2015-03-31 07:57:41 | 映画
監督 フォルカー・シュレンドルフ 出演 アンドレ・デュソリエ、ニエル・アレストリュプ

 原作は舞台劇。映画も室内のシーンがほとんど。こういう映画は、つらい。どうしてもことばが「主人公」になってしまう。主題が「説得」なので、なおさらである。主役のふたりは、とても明瞭なせりふまわしをするので、フランス語を知らない私にも聞き取れるところがあって、あ、うまいもんだなあと感心してしまうのだが、やっぱり「字幕」で「見る」には無理がある。
 ことばの「意味」をわきに置いておいて……。
 映画のほかの要素を見ていくと、ことばに関しては、音と間合い。音に関して言えば、先に書いたようにすばらしく明瞭。その明瞭さのなかに、どうやって「表情」を入れるか。これをどう受け止めるか。これが難しい。
 変な言い方になるが、明瞭ではないときの方が、逆にわかりやすいときがある。音の砕け方のなかに「日常」があらわれるからである。この映画で描かれているのは、非日常なので、この映画のことばの言い回しの「表情」をくみ取るのはほとんど不可能。
 そのかわりに、映画なので、「顔」から「表情」を読み取ることになる。微妙な顔の変化のなかに、そのときのことばの「声」を見ることになる。これが、しかし、また「外交」問題というか、説得術なので、うーん、つらいね。そんな会話を私は日常的に体験するわけじゃないから、顔つきがかわった瞬間の、その緊張感が、いまひとつつかみきれない。おもしろい、ということは「頭」ではわかっても、「肉体(目/耳)」がのめりこめない。室内の弱い光がさらに役者の表情を微妙にしている。陰影の変化が、まるで「絵画」なのである。
 で、「本筋」がわからないせいもあって、奇妙なことろにこころが動いてしまう。たとえば、会話の舞台になっている部屋の秘密(隠し階段/マジックミラー)とフランスの歴史、フランス人の恋愛を語った部分が、「説得劇」とは別の「パリの魅力(フランスの魅力)」に引き込まれる。私のかってな思い込みかもしれないが、そういう部分では二人の役者の声も表情も、一瞬、戦争を忘れている。説得劇の緊張がゆるんでいる。生身の肉体が動いている感じがする。先に書いたことを繰り返せば、ことばの音と間合いの調子が、説得、反論のときとは微妙に違っている。日常的になる。ことばの感じが日常的になり、それがパリの日常に繋がっていく。戦争をしているのに、一瞬、戦争が消える。その瞬間、変な言い方だが、フランスの(パリの)底力というものを感じさせる。「日常(恋愛)」にはさまざまな工夫があって、その工夫がパリという都市を美しいものにしている。欲望の連鎖のようなものが、パリを緊密に結びつけ、そこに不思議な美しさをつくり出している、ということを感じさせる。
 そして、これが「説得」のときの、「土台」にもなっている。ドイツ軍将校は「フランス人(パリ市民)なんか、みんな弱虫で、すぐに逃げ出す。ドイツ軍の敵ではない」と言うが、スウェーデン領事は「それはフランス人を知らない見方だ」というようなことを言う。どんなにフランス人がパリを愛しているか。愛しているものを破壊されたとき、ひとはどんなふうに反撃に出るか、そのときの力はどんなものか。それはそのままパリの美しさのなかに隠れている。隠れているものを見くびってはならない。
 隠し階段が象徴的なのだが、その「隠れているもの/隠しているもの」のなかに、人間の「力」の強さがある。そのことが、この映画の、別のテーマでもある。ドイツ軍将校の苦悩も、彼にはヒトラーに人質としてとられている家族がいるという「隠された苦悩」である。愛している家族をどう守るか。家族のために何をすべきか。その問題があって、将校は苦悩する。さらにヒトラーのいまの状態も、知っていて「隠している」。人に言えずにいる。--で、そういう「隠し事」ゆえに、将校も不思議な「美しさ」のなかに揺れている。人間の「美しさ」を浮かび上がらせている。
 これが、ことばだけではなく、映像(顔の演技、身体のこまかな演技)として具体化されている。「内部」の美しさが「外部」の美しさを支えている。そのあり方を、映画は役者の肉体に近づいた映像で表現している。
 この内部の美しさこそが外部の美しさを生み出すのだというのは、映画を室内に限定しているところにもあらわれている。室内の美しさ、ドアや机や椅子、さらには食器、食事、酒(食べ方、飲み方)……というものをていねいにとらえている。この室内の美しさ(内部の美しさ)を具体化しているという点では、これはたしかに芝居を超えている、と思う。

 これがねえ……。フランス語がわかれば、もっともっとおもしろいんだろうけれど、私の「限界」。パリの街並みをほんの少ししか映さないまま、パリの美しさを伝えた傑作映画と呼ぶには、私のフランス語では、どうにもしようがない。
 私がフランス人で、フランス語がわかるなら、★5個の映画かもしれないなあ、と思いながら見た。
                      (KBCシネマ2、2015年03月29日)



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